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【6】
下告村の最奥部に位置する紅家。その紅家の裏には、三神さんから話を聞いていた井戸が存在した。枯井戸と聞いていたが、今でも十分使えそうな程しっかりとした石積みの造りである。だが僕たちの目を引いたのは、手入れの行き届いた井戸の外観ではない。井戸には、虫や枯れ草などのゴミが落ちないよう木で出来た蓋がしてある。が、その上に、大きな真っ黒い石が乗せられているのだ。
室内からそれを見ている僕たちと井戸までの距離は、十メートルもない。 その石は井戸の開口部に匹敵する程の大きさで、石と呼ぶには大きく、岩と呼ぶにはやや小さい、そんな見た目をしていた。漬物石などよりは断然大きいが、注目すべき大きさよりもまず色だ。ひたすら、黒い。そもそも大きな黒い石を見た事がない僕は、それだけで目を見張った。
「なんか……ちょっとゾワゾワする」
辺見先輩がそう言うと、坂東さんが素早く視線を走らせた。
「それはいけない!ちょっと部屋の外で休みませんか、僕が案内しても良い」
大袈裟に言いながら歩み寄る彼に、
「いや、いいです」
答えて辺見先輩は両手を眼前にかざす。
「さあ」
尚も言う坂東さんから隠れるように、先輩は僕の背後に回った。
「……なんだよお前」
と坂東さんは言い、僕は
「新開水留です」
と名乗った。あっそ、というそっけない言葉だけを残し、坂東さんは掃き出し窓の前に戻って行った。
「見たところ、変化はないが」
三神さんは言いながら、じっとその石を見つめた。そしてやおら僕たちに顔を向けると、これが何かわかるかと尋ねた。井戸と、石だ。特にそれ以上、思いつく事はない。目を凝らして見ても、怪しげなものには感じられなかった。僕が首を横に振ると、
「ここで何かを封じている。そういうことですか」
と辺見先輩が聞いた。ああ、石ではなく、井戸の中の話だったのだろうか?
辺見先輩が言うや否や、坂東さんが指を鳴らして先輩を指さした。想像していたよりも、割と軽めの人らしい。しかし、
「……ま」
魔物、と言おうとした辺見先輩に向かって、三神さんと坂東さんが同時に手を挙げて制した。見れば紅さんまでもが、座したまま先輩を睨んでいた。
「すみません」
首をすくめる辺見先輩に、水中さんが尋ねた。
「あのー、ちょっと聞いてもいーい? 三神さんが連れて来たってことは、そちらの若いお二人にもその、うちの村の人らみたいな力が備わっとるんでしょうかねえ?」
「霊感でしょうか?ええ、多少は」
答える辺見先輩に、水中さんは尚も聞いた。
「あの庭の、井戸の上のお岩、お二人にはどのように見えとるんだろうか?」
僕と辺見先輩は思わず顔を見合わせる。
やはり井戸ではなく、その上の石の話か。
「大きな……石?」
辺見先輩が答えると、まるで先輩を嘲笑うかのように、
「っは」
と紅さんが声を出した。一体何者なんだこの人は。何のつもりがあって他人を不快にさせるんだ、さっきから。
ピシャ。
音を立てて、三神さんが障子を閉めた。僕たちの視界から庭が消え、井戸が見えなくなった。僕は我に返り、小さく吐息を漏らした。
「さて、話を聞こう」
と、三神さんが一同を見渡して言った。
水中さんから聞いた話では、この村に古くから伝わる、とある因習が関係しているらしかった。
日本には古来より、神嘗祭という宮中の祭祀がある。五穀豊穣を有難み、十月に執り行われる感謝の祭である。そしてこの村では同じ時期、裏神嘗、通称ウラカン、又は歪神嘗と呼ばれる儀式が長年にわたって繰り返されて来た。神嘗祭がその年の初穂を奉納する喜びの儀式であるのに対し、ウラカンとはこの村限定で禍や不幸を退ける為に祈る儀式として定着しているという。呼び名については諸説あるそうだ。宮中祭祀である実際の神嘗祭とは縁もゆかりもないが、必ず十月に執り行わねばならないという点だけが共通している祈りの儀だそうで、昔は別の呼び方をしていた、とも聞いた。
いつの時代であれ、呼び名がなんであれ、祈りの対象として儀式の中心に据えられてきたのが紅家の裏庭にある井戸、そしてその上に鎮座する石であるとのことだった。
三神さんの話では、その井戸にはかつて村を襲った魔物が封じられているはずだ。要するに、一年間の無病息災を祈りつつ改めて魔物を鎮めるという、地鎮祭に似た側面をもつ儀式なのだ。違うのは、そこにいるのが神ではなく魔物であるということだ。
水中さんは言う。
「あの井戸の上にあるお岩。あれは昔っからカナメ石言うて、絶対にあそこから動かしたらダメなん。まあ、実際動かそうなんて思う人間は村にはおらんし、雨風程度ではビクともせんのだけどね」
「カナメ石というと、建築用語の方ではなく、地震を鎮めたりなんかする、あの要石ですか?」
僕の質問に水中さんは目をパチクリさせて、
「何が?」
と聞いた。
――― 何が、とは?
面食らう僕に、三神さんが、身振り手振りで助け舟を出してくれた。
「こういう、例えば古いトンネルなんかの丸くなったアーチ状の部分をだな、レンガやなんかでこさえる際に上から落っこちてこんように支える楔の部分を、要石と呼ぶんだよ。この若者はそれではなく、神社なんかでよく目にする霊石の方じゃないかと聞いておるんだ」
「ぼっは」
再び、紅さんが笑った。
本当に聞こえていないのか? 僕が眉をひそめて顔を伏せると、
「いや、違うよ?」
と、水中さんが答えた。「カナメ石いうんは、さっきのあの井戸のお岩のこと。あのお岩の事だけを指すの」
不思議な説明の仕方に、僕は顔を上げた。
「カナメって言うのは、御仁の名前よ。その昔、この村に現れた災厄を退治てくれた、この村の英雄。その御仁の名前が、カナメ」
なるほど。僕は頷きながら障子の向こうを見つめた。
「お守りのお岩として英雄の名前をつけている……そういうことなんですね」
――― 違う。
水中さんはきっぱりと否定し、まっすぐに僕を見つめた。
「あのお岩がカナメ様です」
僕は混乱し、三神さんを見やった。
三神さんは困った様子で俯きながら、後頭部を指で掻いていた。昨日、レンタカーの中で幻子とめいちゃんにまつわる話を聞いた時と同じだ。とても言い辛そうにしている。僕は敢えて質問せず、三神さんの言葉を待った。
「まさかとは思うがねえ、水中さん」
三神さんは僕ではなく水中さんを見据え、こう聞いた。
「今は十二月だねえ。今年の十月に、歪神嘗をやらなかった、なんて話ではないだろうな?」
その問いを受け、水中さんは正座したまま腿の上でギュッと拳を握り、俯いた。
「え」
と坂東さんが喉を鳴らす。大きく見開いた目が、右に左に何度も動いた。……噓だろう。坂東さんが呟いた、その時だった。
ボゲエーテエーテスマニ、オーアゴーンキヨージャガダ。
ケッセダ。ショオーツゲラッハ、…アイジャ。
紅さんがもごもごと何かを唱えた。いや、それは唱えるというよりは感情の乗った日本語なのだろうが、僕がその言葉の意味を理解する事は出来なかった。暗く重苦しい空気に支配された室内で、僕は脂汗を浮かべ、辺見先輩はカタカタと震えた。
水中さんが言った。
「やらなかったわけでも忘れたわけでもない。やれなかったんです」
何故?
尋ねる三神さんを見ず、紅さんを見つめたまま、水中さんは答えた。
「ばあちゃんが言うには、若い女がこの村へ来て、カナメ様の御力を奪い去った、と」
恐怖を感じた。
それはおそらく辺見先輩も、そして三神さんも同じだったはずだ。
――― 若い女。力を奪い去る。
もしそれを、力を借り受ける、と言い換えたなら、僕たちには心当たりがある。その人間が、悪意を持たない少女である事も知っている。そして、仮に『カナメ様』の御力を借り受けたのが三神幻子であったなら、尚且つその時期が九月であるとすれば、僕たちはその理由までも知っていることになるのだ。じわじわと、真綿で首を絞められるような思がした。そこには恐怖はもちろん、後ろめたさも含まれていた。
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