【2】

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 想像していたよりもずっと辺境の地に、場違いなほど可愛らしいお店が建っていた。  海辺の街、海辺の店といった表現はよく耳にする。しかし海岸沿いの街道から徒歩で浜辺に降り、砂浜から桟橋を渡した先にあるその喫茶店は、ほとんど海に浮かんでいるのと同じだった。海辺の店ではない。海上の店である。  これ、台風来たらやばくない?  小声で辺見先輩が独り言ちるのも当然、立地に関しては我が目で見てもにわかに信じがたかった。なんでこんな湿気の多い場所に喫茶店があるんだ。そもそも客なんて来るのか。  到着した頃には既に日が暮れかかっており、暗い海が奏でる潮騒の迫力と、窓ガラスから漏れ出るオレンジ色の明かりの対比は、この世のものとは思えない程幻想的だった。  その店に名前は、ない。「ない」という店名ではない。店に名前がないのだという。桟橋を渡りながら三神さんが声を落して僕達に注意した。 「すこーし変わった女性だ。なに、悪い人間ではないが、もろもろ心するように」  海風にあたって体が冷え切っていた僕たちは、その店に足を踏み入れた途端店内に充満するコーヒーの香りと温もりに包まれ、思わず感嘆の声を上げた。  店内は外観から想像出来たとおり、そんなに広くはない。海風にあおられて独りでに開かぬよう重めに作られた扉を開けると、レジカウンターを兼ねた大きなガラスの密閉容器に保存された、焙煎前のコーヒー豆が目に飛び込んできた。二十種類はありそうな量だ。  入り口から見て右側の窓辺にボックス席が二つ。左側にはソファ席が壁際に設けてあり、店の真ん中のスペースは特になにもなく、空いている。 「いい匂ーい」  目を閉じて深く息を吸い込む辺見先輩に、店の奥から声をかける者があった。 「いらっしゃい。コーヒーを飲めない人でも、この香だけは好きだって人、結構多いんだよね」  見ると背の高い女性が腰にエプロンを巻きながら出て来る所だった。  思わず目を見張る程綺麗な女性だった。Vネックの黒いニットシャツに、下は細身のブルージーンズという飾り気のない服装。だが丸く大きな目に、高く細い鼻筋、程よい厚みの唇に微笑みが浮かぶと、目の下の涙袋が優しくふくらんだ。 「ふわー」  と辺見先輩が声を上げると、その女性は目をぱちくりさせて、 「どした?」  と尋ねた。 「お綺麗なもので、つい」  余程言われ慣れているのか、その女性は黙ったまま困り顔で「ふん」と短い溜息を付いた。 「息災かね、秋月の」  僕たちの背後からそう声を掛けて、三神さんが顔を覗かせた。  どうやらこの女性が、日本最強の治癒者、秋月六花その人であるらしかった。確かに、三十を超えている年齢には見えない。秋月さんは顔を傾て僕たちの背後に目を向け、ニッと笑いかけた。 「そろそろ来ると思ってたよ。可愛いお友達なんか連れちゃって、ちょっと若返ったんじゃないですかぁ? せんせえー」  秋月さんはレジカウンターから出て来ると、目を細めながら嬉しそうに三神さんと抱き合った。聞いてもいないのに、見目麗しい女性だと言いたくなる三神さんの気持ちが分かった。間近で見ると思わず息を呑む、それほどの人だった。 「で、何か感じるかね」  と、含みのある声で三神さんが言う。秋月さんはゆっくり三神さんから離れると、上下左右に視線を動かし、やがて辺見先輩を見た。 「ちょっと、匂うな」  と、秋月さんはそう答えた。  辺見先輩はたじろぎ、思わず自分の腕を嗅いだ。だがもちろん辺見先輩の体が臭いわけもなく、煙草もお酒ものまない彼女からは常にほのかな香水の匂いが漂っている。 「もしかしてあの子が言ってたのって、コレ?」  辺見先輩を指さしながら、秋月さんが三神さんに尋ねた。あの子が言っていた、とはおそらく幻子の事だろう。幻子が治癒能力を借り受けに来たのが、この秋月さんだったのだ。  頷きかえす三神さんから辺見先輩へと視線を戻し、秋月さんは両手をパっと顔の横で広げると、その手をクイっと窓際のボックス席へ向けた。 「どうぞ、あちらへ」  三神さんが紙袋をレジカウンターの上に置いた。  なんです、それ。彼の横に立って尋ねる僕の問いに、三神さんは「俗に言う呪物の一種だよ」と、さらりと怖い返事を投げてよこした。 「ここに置いといてもええかな?」  三神さんの言葉に、秋月さんは「あーい」と答えるも、その目は辺見先輩の胴体に釘付けだった。秋月さんは辺見先輩をボックス席に座らせると、自身は板張りのフロアに膝をついて、丁度辺見先輩のお腹あたりをじっと見つめた。 「これがそうか。名前、なんだっけ」 「あ、すみません。辺見希璃と申します、そっちのは新開です」 「新開水留です」  名乗る僕に、秋月さんは左手を上げただけで応じ、やはり視線は辺見先輩の腹部に注がれたままだった。 「辺見さんもあれだ。霊感持ちだ?」 「はい」 「大変だったみたいだね。内側から押し出しきれなかった泥みたいなやつが、滓のように深い部分に沈みこんで残ってるんだ。体調、あんまりよくないだろ?」 「……はい」 「ね。よく頑張ってる」  初耳だった。僕は思わず三神さんを見た。三神さんは嬉しそうに秋月さんたちを見つめて、うんうんと頷いている。辺見先輩は誉められたからか、頬を赤らめて僕を見た。その目に光るものが浮かんでいるようにも見え、僕は唇を噛んだ。 「弱音を吐かないのは良いことだ。だけど良いことばっかりじゃないよ。あんなオッサンに気を使われるようじゃ駄目だ。そのうちとんでもない見返りを要求されるよ?」 「おいおい!」  思わず三神さんは声を上げた。僕は秋月さんと三神さんのやり取りを微笑ましく眺めたが、言われた本人である辺見先輩はどこか罰が悪そうで、照れたような表情を浮かべていた。  秋月さんは右手を辺見先輩のお腹に添えると、左手でテーブルの角を握った。細い体で左手を広げている秋月さんの背中は、まるで片翼を広げた天使のようだった。 「え、ちょ」  秋月さんの右手から圧を感じ、辺見先輩が押し込まれぬよう両手で椅子とテーブルを掴んで堪えようとした、まさにその瞬間だった。  ズボッ、と音がしそうな程の勢いで、秋月さんの右手が辺見先輩の腹部に入った。 「なんだ!?」  思わず声をあげる僕の目の前で、秋月さんの手は辺見先輩の体を貫通した。秋月さんは一度も右手を引き抜くことなく、押し込んだ手はそのまま辺見先輩の背中へ突き抜けて戻ってきた。その手には、黒いアメーバのような物体が握られていた。  秋月さんは無言で立ち上がると、それを握ったまま店の入り口へと向かった。そこへ重たい扉が開き、幼い顔立ちの少女が店内に入ってきた。
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