一華と私二人三脚

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今日は一華との面会の日だ。 外は大雨、台風が近づいているからだけど降り止まない大粒の雫はまるで私の涙みたいだった。 乳児院に行くには1時間かかるのだけど朝5時に目が覚めた。苦くてでも香りのよいコーヒーを入れて待ち遠しい時間を消費する。タバコの煙。ニュース番組。友達からもらったジャケットを羽織り髪をとかす。一分一分が重たく長い。 乳児院では、きっとドタバタした日が送られているのだろう。赤ちゃんのオムツ替えやミルク、お風呂だけでも大変なのに泣いたらあやしたり寝かしつけたり、やる事は山のようにあるはず。職員さんたちには頭が上がらないし感謝しかない。でもこの気持ちを上手く伝えられる人間性と礼儀が私には無い。一華に会っても私には話しかけるべき言葉が出てこないだろうから、前もって練習していた。可愛いとか、元気、とかちゃんとミルク飲んでるかな、とかありきたりな言葉をノートに書き連ね、脳みそを振り絞ってコミュニケーションを試みる。願いは一つ。明るく元気で優しい子に育って欲しい。 乳児院育ちの子は、誰にでも愛想が良くなるらしい。沢山の大人に囲まれて育つからそれも当たり前だ。でも、特定の大人との一対一で築く信頼関係が足りないから問題行動も起こしやすい。愛着障害というのだという。お気に入りの職員は、勤務時間が終わるとそれぞれのうちに帰って行ってしまう。自分だけの独り占めできる大人がいないことは、幼児の心にポッカリと大きな穴をあける。その結果、里親や実親に引き取られたとき、盛大にいたずらや悪さをして反抗し、どんなことをしても自分を捨てないかどうか愛を見極める行動をする。これを試し行動という。 まだ先の話かもしれないが、子どもの成長というのはうかうかしているとあっという間に訪れて、気づいたら取り返しがつかないという事もありうる。私が仕事にかまけているうち、一華は毎日成長していくのだ。 表面的な水たまりにブーツで入ってみると、チャプと薄っぺらな音がした。子どもを作る時とおなじで浅くって直情径行な音だ。水たまりは少し大きくなると他の水たまりに流れ込んでさらに面積を増やし、低い方へと伝わっていって最後には下水管に吸収される。私の人生も低い方へ低い方へと流れていってここにたどり着いた。社会のお世話になる事になった。 道路にはT字路があり、小学生が列をなして登校している。それを見守っているPTAのおじさんとおばさんは皆んな笑顔で、ああ、この人たちは雨の日でもずっと暖かいんだなあと引け目を感じる。ジャケットの袖に水がついてとても冷たかった。私は明るく温かく優しい世界に住んではいない。 読んでいた小説の主人公に、心に闇を抱えていてとても猟奇的な行動をする人がいる。批判が多いけれど私はその本にすごく感情移入してしまい、その本の作者の著書を全て調べた。小説の根底に流れるテーマは同じでどれも共感できるものだった。現実逃避かもしれないが、私の住める世界はそこにあるような気がした。友人が欲しい、そう思ってしまう。 時代は刻々と移り変わっていく。駅で切符を買う人がめっきり減り、電子マネーに移り変わっていくように、携帯電話だってポケベルはなくなりガラケーは廃れみんなが持っているのはスマートフォンだ。カセットテープの時代は終わりCDの売り上げは落ち、いまやパソコンでダウンロードした音楽をみんな聞いている。過去は乗り越えられるべきものであり時代は絶えず新しいほうへと進んでいく。古いものは徐々になくなり新しいものに取って代わる。その流れに逆らってみようとして、私はわざと乳児院までの道のりを行きたい方向と逆に歩いてみたりした。馬鹿だな、何の意味もないというのに。 一華がうまれてもうすぐ一ヶ月。時の流れは速い、早い。 私は母になり、一華は産まれた。時間はどんどん前へと進んでいく。今年で私は29歳。知らぬ間に、年をとっている。 面会に来たとき一華はちょうどお風呂タイムだった。入浴を済ませるまで10分ほど待機する。 乳児院には面会室が2つありその片方で児童相談所の人とともに呼ばれるのを待った。 茶封筒に入れて後生大事に持ってきた書類、住民票と課税証明書は雨にぬれてしわしわになってしまっていた。必要な書類はほかに本籍と保険証。これらはまた後日もってくることとなった。 入浴が終わった一華がつれられてきた。感染症を防ぐためにベビーだけの部屋に隔離され、一人で泣いていた。私が抱っこすると泣き止んだ。誰なのかまだわかっておらず、腕の中でぼんやりした表情を浮かべている。泣いていないときはじたばたするので頭が私の抱く腕から落ちそうになる。どんな子ですか、と乳児院の職員に聞くとよくじたばたと手足を動かすのでベッドの壁のほうにくっついていたりしますよと話された。要するに、元気なんだ。確かによく動く子どもだった。 瞳の中を覗き込むと黒い丸が小さくあって、まだ焦点は合っていないようだが外の世界の明るさは感じ取っているのだろう。唇を尖らせたりもよくする。いわゆるアヒル口というやつだ、ミルクをちゅぱちゅぱしたいのか、なんなのか、三角の口をしてみせる。職員の話によると、退院したてで乳児院へ来たころにはミルクを飲むのがまだ下手で、80CCでは多すぎるくらいだったのが、今では上手になり10分くらいでぺろりと飲んでしまうそうで、大分お口に力がついてきたのだそうだ。体重も3キロをこしている。順調に大きくなっている。 一ヶ月検診の話をすると、乳児院には隣接する病院があるので、そこで診断してもらえるそうで、私は私で別々に検診を受ければいいということになった。車を持たない私は一華をどうやって病院まで連れて行くか悩んでいたので、ひとつ、問題が解決された。よかった。また乳児院へ支払う毎月の費用もタダになった。これは東京都からの決定なのでありがたく従うことにする。なんせお金がないからこの待遇は本当に助かる。
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