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──目が覚めると、今までの自分の全てが思い出せなくなっていた。
俺は目眩がするような混乱の中、しばし唖然とする。
そんなドラマのようなことが本当にあるなんて。馬鹿みたいな話だ。
自分の名前もわからないのに、ドラマというのはわかるんだ。
ドラマはたまに見ていた。シャーロック、ウォーキング・ザ・デッド、デスパレートな妻たち、後はなんだったか。
俺のおすすめはフルハウス。ベネディクト・カンバーバッチよりジェシーおいたんに憧れた。俺は剽軽でハートフルな男だったのかもしれない。
あぁチクショウ。
ズキズキと痛む後頭部のせいで思考が削がれる。
原因はこの後頭部の傷だろう。空気を含んで粘りを出す血液のせいで、短めの黒い髪が固まって不快だ。
あたりを見回す。どこかのホテルのパーティーホールのような広い場所。
そこに何十人と沢山の人がいる。
まだ床に倒れ伏し眠っている人もいるが、ほとんどが目を覚ましていた。
人々の服装はまちまちだ。
スーツの人もいればこれからバカンスにでも行けそうな服装の人もいる。年齢も性別も共通点はないだろう。
俺自身はどこにでも売っている無地の白いシャツに、これまたどこにでも売っている黒のスキニー。やや草臥れたエンジニアブーツ。コンビニにでも行くのかと呆れるラフな体たらく。
周囲の人々は知り合いもいれば一人の人もいるようだ。そして誰もが事情を知らない様子で、何人かは扉があかないと騒いでいた。
俺にわかるのは、それだけだ。
いや──それともう一つ。
壁に寄りかかりながら俺を見つめているであろう、ずっと意識のなかった頃から隣に居た男。
身長は目測で百八十を超えている。巨漢ではないが縦に大柄で、スマートな引き締まった体躯はゆったりと佇むだけで周囲の目を引く。主に女性のだ。
グレーのVネックシャツに黒のジャケット、白のジーンズにコンバットブーツ。
組んだ腕から覗く指にはゴツい指輪がいくつもハマっている。
そしてなによりも胸元から見えるドックタグ、首に巻き付いた真っ赤な首輪。
まるで首切りの痕みたいだ。
黒い髪のサイドを後ろへ無造作になで付け、室内にも関わらず濃い目のサングラスをかけたその男の名前は──ヤロ。
目元が見えなくても顕になっているスッと通った鼻筋と輪郭はクッキリと丹精だ。
悔しいがスタイルも込みで、十分男として負けていることが察せられた。
ヤロは目を覚ました時から隣に居たのだ。
そしてなにも覚えていない俺に〝河鹿〟という名前を教えた。
自分がヤロだということも、俺と共に飛行機に乗ってハワイへ向かっていたことも。
その首にある首輪が、俺からの贈り物で──ヤロは俺の飼い犬なのだということも。
人間を飼うなんてどうかしている。
俺には少しも理解できない。
記憶とは、人を作るデコレーションだ。
いくら土台が同じでも、デコレーションが違えば出来上がるものはまるで別人だろう。
そう考えありのままを伝えてからノーサンキューだと両手を上げると、ヤロはなんにも変わらないと言って頬にキスをしてきた。
……コイツ、ゲイか。
いや、こんな色男に限ってそれはない。挨拶とジョークの融合だろう。
一瞬の思考で飲み下す俺を眺め、心なしか機嫌良さそうに息を吐く。
だがその後、以前の俺も同じことを言って嫌がったのだと、語気で忘れたことを責められた。
ううん。機嫌は悪くないが、同時に面白くもないようだ。
どうして俺はサングラスをかけて表情が読み難く、言葉も方向性が乱雑な謎の自称飼い犬の感情が読み取れるのやら。
ヤロは俺の疑問を口に出さずとも察する。
曰く、これまで生きてきた経緯を忘れただけで、その経緯で培ったモノは俺の中に全て残っているんだろう、と。
知識も経験もそれから生じる性格も態度も思考も、なにも変わらない。
俺を俺たらしめるものは変わらないなら、デコレーションが変わっても中身は俺だという。
『カジカ、お前は俺の飼い主だぜ』
それ見ろ、と底意地悪くニヤリと笑まれ、冷や汗が一筋零れ落ちた。背筋がゾクゾクする。
ちょっと変なだけで危険ではないが、ヤロはまだ信用ならない。
腹を見せるにはあまりに謎めいた男に笑って同意はしたくなくて、酷い詭弁だと素気無くあしらった。
それで困ったことに、塩っぱい対応でヘソを曲げたらしく、ヤロは拗ねて壁にもたれたまま動かなかったりするのである。
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