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どうにか逆流する胃液を飲み込み真っ青になる俺に、そっと身を屈めたヤロが顔を近づけ、髪に自分の鼻先をすり合わせる。
犬のような、甘えた仕草。
「カジカ、カジカ」
「や、めろ……っやろ……、いいから人を、はやく……」
「なら、愛してるか? 俺を」
「はっ、? ゲホッ」
刺殺により返り血すら浴びていないヤロの黒光りしたサングラスが額に当たる。
冷たく、硬い感触だ。ヤロの吐息を目元に感じる程の距離。
そっと距離をあけて俺を射抜いたヤロの、サングラスの隙間から見えた瞳は──濃厚な血液じみた、赤。
人々の悲鳴が聞こえる。
俺の声が届かない会場で気づかれるはずもなく、俺達を切り取って捕まったら死ぬ鬼ごっこは今も続いている。
いつ新しい死体がここへ届けられるかわからない。
「俺は、愛する飼い主の命令は、聞くんだ。だから、な? 相思相愛だろ、俺らは。ずぅっと、一緒、だ」
「あい……? なに、い、言ってるんだ、いいから、っ」
「ダメだって、なァ、わかるだろ? ……愛せよ、俺を、カジカ」
ねっとりと絡みつく独特の話し方。
言っていることは甘ったるく、それでいて純粋で無邪気なワガママにも聞こえる。
チャリ、と冷たいゴールドのドッグタグが俺達の間で鳴った。
ヤロの首に巻きつく真っ赤な首輪が、その仕事をしろと訴えかけてくるようだ。
残りの僅か七人の間引きを止めるために、対価をよこせと。
あぁ、誰が『ちょっと変なだけで危険ではない』だ。
クレイジーでデンジャラスなアブノーマル野郎。
ヤロに愛していると言わなければ、彼が満足するように相思相愛を演じなければ。
後は全員、見殺しにしてやると言っているのだ。
それが僅かも躊躇なくできるのだ。
「……あい、してる。……あいしてる、俺も……、っだから、……だから行けッ、ヤロ……ッ!」
「オーケー……ご主人様」
胃液で濡れた唇をペロリと舐めた後、機嫌よくジャケットを翻して舞台から飛び降りた黒い犬。
ヤロは……誰なんだ。
アイツは俺の、一体なんなんだ。
アイツがいれば、仮面を倒すのに三十秒程度しかからない。
そんな人間がいるのか? それじゃあゲームが意味を成さない。
アイツが正義に塗れていたらすぐにでもルール無用で大多数が生き残れた。
もし格闘技でも習っていたのだとしても、異常だ。殺すことに慣れすぎている。
そんな戦闘力を持つ者が、愛と引き換えにでしか動かないなんて。
そんなの、ヤロがじゃない……俺が、異常だろう。
俺は一体、何者だ。
どうしてあんな狂犬を飼っていたんだ、ただの、どこにでもいそうな俺が。
酷く、頭が痛んだ。
考えられない、意識が、途切れる。
わかっていることはただ一つ。
記憶を取り戻すよりも俺一人では言葉も届かない中、生き残った人間達と協力して、ここから生きて出なければいけないということ。
そのために俺は、抜きん出た能力を持つヤロが望むように、アイツを愛する飼い主を演じなければいけないのだ。
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