夏の思い出

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小さい頃のわたしは、今よりもずっと臆病で、泣き虫ですぐに不安になる、気の小さい女の子だった。 その日は、父が休みを取ったのか、それとも日曜日だったのか。覚えてない。午前中は父は家で仕事をしていたような気もする。 ただ夏の、暑い、蝉の声がうるさい、そんないつもの夏休みだった。 出かけるところもなく、ダラダラと家で過ごすわたしをかわいそうに思ったのかもしれない。 父が突然プールに行くぞとわたしに声をかけた。 わたしはびっくりした。 「どこの?」 「市民プール」 父は当然だろうとばかりに言う。 早くしろといわれ、慌てて学校の水着の用意を持って自転車に飛び乗った。うちにはその頃まだ車はなかったのだ。 父はとても大きくて、力も強くて、自転車のスピードも速くて……わたしは夢中で父の背中を追った。 ◆◆ 知らない道を父はどんどん走る。わたしは不安になった。 「ほんとにこの道でいいの?」 わたしは父に何度か聞いたが、風に吹き消され、父の耳には届いていないようだった。 自転車の風は、涼しかった。 途中何匹かトンボが飛んでいた。白サギも数匹いた。 青々とした田んぼを抜け、道路を横切って、わたしたちはプールに着いた。 プールの入り口は、親子連れで混んでいた。 ピーッとプールの監視員の笛の音が響いている。 あたりは塩素の匂いが漂っていた。 田舎にある、たったひとつの夏の娯楽である市民プールは人でいっぱいだった。 わたしと父は水着に着替えた。 父はわたしに泳ぎを伝授したかったらしい。 わたしはまず深いプールに連れていかれた。 深いプールには、小さい子どもはいなかった。 すべり台のプールや波のプール、噴水のプールは親子連れや小さい子どもたちでにぎわっていた。 キャーキャーと楽しそうな声がする。わたしはあっちに行きたかったが、言えなかった。 ここでいま遊びたいと訴えることもできたが、せっかくプールに連れて来てくれた父の機嫌を損ねるのもいやだったのだ。 父は子どものころから川で泳いでいたという。だから泳ぎが得意だった。 父はわたしにクロールやバタフライをやってみせた。水しぶきがザバザバとあがる。 わたしはすごいなと思った。 「泳いでみろ。教えてやるから」 父はわたしにほらと言って手をだした。 わたしは父から泳ぎの指導を受け、疲れ果てた。ヘロヘロになって浮いてるだけになったわたしを見て、父は波のプールに行こうとわたしを誘った。 わたしは父と手を繋いで波のプールへ向かう。 プールサイドの、ベージュ色した床は、太陽の光でものすごく熱かった。 水で濡れているところを探した。濡れていても床はすこし熱かった。 足の裏全体に熱がまわる前に次の足を出すためにわたしは速足になっていた。 「すべるぞ」 父がわたしに注意した。 「うん」 わたしは後ろを向いて返事をしたが、スピードは衰えない。途中、プールの監視員に笛を吹かれたと思ったら、違う子に注意していた。 わたしはほっとした。 波のプールは温かった。 ザブンと波が来る。小さい波が少しずつやってきた。 海とは違ってそんなに恐怖はなかったが、だんだん波が高くなっていったのに気がつかなかった。 わたしは頭から波をうっかり被ってしまった。 水の泡の中で、わたしはパニックになった。 ーーおとうさん、おとうさんはどこ? わたしは水の中で薄目をあけた。 目は少ししみた。 おとうさんを探さないと…… わたしの心臓はドキドキしていた。 わたしは波と波の間に顔を出した。 ーーおとうさん!おとうさん!! わたしはおとうさんに抱きついた。 父は反応しなかった。 わたしは父の腹にしがみついた。 父が何もいわないので、わたしは父の顔をみた。 それは父ではなかった。 父と同じような、どこかのお父さんのようだった。中年の、少しお腹のでた、いつもは日に焼けることもない、白い肌の、誰かのお父さんだった。 わたしと見知らぬお父さんは、数秒目を合わせた。 ーーわたしはお前の父ではないが……大丈夫か。 見知らぬお父さんはそう目でわたしに訴えた。 わたしはこくんとうなずいた。 わたしは不安に襲われる。 慌ててキョロキョロあたりを見回すと父がいた。 わたしは父の方へ駆け出した。
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