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「再会。」
「ん~……」
ベッドの上で、ぐったり。目は開いたけれど、起きたくない……時計を見ると、午前9時はとっくに過ぎていた。
昨日は、仕事帰りに上司や同僚たちと軽く飲んできた。ずっとやっていたプロジェクトがひと段落したので、その打ち上げという意味もあったんだけれど、久しぶりに少し飲みすぎたかもしれない。
のど渇いた……でも、傍らに置いてあったマグボトルはからっぽ。私は眠るとき、枕もとに飲み物(ほとんどはミネラルウォーター)を入れて置いておくのだが、夜のうちに飲んでしまっていたのかな。仕方ない、冷蔵庫まで行くしかないか。ベッドから起き上がり、よれよれしたままで、キッチンへのドアを開いて、なんとか冷蔵庫まで辿り着くと、中に常備している、ノーマルな炭酸水をコップに移して、それを一気飲みしてしまう。
「ふぅ……」
シンクにコップを入れたままにして、再びベッドに倒れ込んだ。
まぁ、今日明日は連休だから、今日はこのままぐーたらしていてもいいんだけれど……誰に咎められるわけでなし。
私、水本葉月は、都内の会社に勤務する会社員。
どこにでもいる、ふつうの……とはちょっと言い難いかもしれない。
私には両親や家族がいない。小さい時の記憶がほとんど、ないのだ。
気が付いた時には、とある養護施設で保護してもらっていた。どうしてその施設にいるのか、どうして両親が迎えに来てくれないのか……小さいながらも悩んだこともある。でも、今となっては、それが自分なんだと納得させている部分も大きい。
このあたりは、あまり考えたくないし、語ることもないだろう。
今は、自分で小さな賃貸マンションを借りて、ひとり暮らし。でも、周囲には自分の生い立ちなど、詳しいことは話せるわけもなく、それでもなんとか、今はこうしていられるのだ。生きているだけでも、ありがたいと思わないとね。
おかげさまで、今は自分が食べて行けるだけの仕事はもらっているし、友人づきあいも悪いほうではないと思う。基本的な「生きる術」は身に着けているつもりだ。
「ん~……」
ごろんと仰向けになり、天井を見る。こんなにのんびりした朝は久しぶりだ。
仕事でひとつのプロジェクトがようやく落ち着いて、これでしばらくは残業もないだろう。よほどのリテイクが来ない限りは。
「あー、やめよう。仕事のことを考えるのはやめよう」
せっかくの休みだ。
もう一度、枕に顔をうずめる。聞こえてくるのは、生活音。
近所の公園で遊ぶ子供たちの声、自転車の通る音、クルマが通り過ぎていく音。
いつもの生活音。
少し、音に敏感な部分があるのか、じっと澄ませていると、いろんな「音」が聞こえてくる。だけど、それは私にしか聞こえないであろう、「不思議な音や声」などもあることは、小さなころからなんとなく、理解していた。時には、それらの「話し相手」になることもある。もちろん、周囲には誰もいないことを確認してから、だけどね。
私が落ち込んでいると、話しかけてくる声もあった。でも、それが怖いという思いはほとんど、なかった。
これらを誰に話すわけでもない。話したところで理解してくれる人も、多くはないだろうと思っている。気味悪いと思われるのがオチだ。
今までも、これからも、きっと変わらない生活。
それでいいと……思っていた。
午後、思い切って着替えて外へ行くことにした。
久しぶりにお買い物もしたいし、ちょっとずれた時間だけれど、ランチを外で食べようとも思ったから。
自炊も嫌いじゃないし、出来るだけやっているけれど、コン詰めてやることでもない。気晴らしで食べに行くことも、自分のためだからね。
もっぱら私服はエスニック風のスタイル。仕事も私服だけれど、あまり派手な格好はできないから、その裏返し的な感じで、プライベートでは、かなりラフで少し派手な色遣いになることも多い。今日は、ライムグリーンのシンプルなデザインのサルエルパンツ、タイダイの大き目なチュニックを羽織り、髪は少しバサッとした感じにまとめて、やはりグリーンカラーが中心のタイダイのストールを巻き付けた。ストールの先は背中に少し当たる程度にしてある。
「さて、どうしようかな…」
お気に入りのエスニック料理のお店、久しぶりに行ってみるか。
新宿でJRに乗り換え、浅草橋駅で降りた。ここは手作り小物や天然石などの卸問屋さんやお店が多くて、いかにもクラフト好きという方からプロフェッショナルな方々も訪れる街だ。私も時々買いに来る。ま、あまり手先は器用じゃないから、作れるものも限られているけれどね。
駅周辺にはクラフト関連の店舗以外にも、日本人形を製造販売する老舗、事務用品などを販売するお店など雑然といろんなお店があって、ある意味、カオスな状態。そこが面白いんだけれど。また、オフィス街というのもあるからだろうか、レストランやラーメン店などの飲食店もたくさんある。平日のお昼時は、けっこう賑やかだ。
駅の階段を下りて、向かう先は、タイ料理のレストラン。
私がとっても気に入っているお店で、店内も異国情緒にあふれていて、なんといってもメニューがおいしい。いわゆる「エスニック料理」なんだけれど、辛い物だけじゃないところも気に入っているんだよね。元気が欲しい時に食べたくなる、エスニック料理。スパイスが効いた料理って、元気がもらえるような気がしている。特にこれからの季節は、ね。
ランチタイムの少し前にお店に到着。
店内に入ると、タイ人のスタッフさんたちが笑顔で迎えてくれる。お店のオーナーは日本人だそうだが、料理人やフロアスタッフには日本人以外もいて、ちょっとした異国情緒が味わえるお店だ。みんな、日本語が堪能だから、会話するのもそれほどつらくない。
「あれ?葉月さん、久しぶりだネ」
「こんにちは。ちょっと久しぶりだよね、確かに」
入口から一番遠い、カウンター席の一番奥が私の定位置で、今日も空いていたので、そこに安心して通してもらった。ランチタイムのメニューをざっと眺めると、タイ風ラーメンとでもいうものが出ていた。あ、これ、食べよう。
いつものタイ茶。香りはバニラなのに、全然くどくないという、不思議なお茶で、私は一発でこの味が気に入った。いつも大き目のグラスに出してくれるけれど、まずは最初の一杯はすぐに飲み干してしまうくらいに気に入っているんだよ。
本来は、コンデンスミルクをたっぷり入れるタイ茶だけど、私はコンデンスミルクのは、今ひとつ、飲み切れない。だから、このお店のタイ茶はすごい助かるし、嬉しいのだ。
「ふぅ~、おいしい♪」
オーダーしたものが届くまで、持ってきた文庫を読もうかな、とカバンの中をさぐろうとしたときだった。
カランとドアベルの音がして、お客様が入ってきた。
「イラシャイマセ」
「こんにちは。鹿嶋さん、いるかな?」
そんな会話が聞こえてきた。
やがて、案内されて、私の隣にやってきたのは男性……あ、編み上げブーツにサルエルパンツ。ということは、エスニックスタイルだ。思わず、視線を上にゆっくり移動させていく。
さりげなく、そして素敵に着こなしている。エスニックスタイルというのは、難しいという人もいるけれど、着慣れるとすごく楽しい。薄手の服を重ね着するのがポイントのひとつ。ただ、あまり派手になり過ぎても、せっかくのものも台無しになってしまう。それは、どんなスタイルでもそうなのだが、特にエスニックはダボっとした感じの服が多いので、これを考えたコーディネイトをしないと、最終的にはだらしなく見えてしまうという欠点もある。
かといって、私もそれほど上手に着こなしているとは言えないかもしれないが……
私の横にやってきた男性の、帽子を取ったその横顔に、私は思わず声を出してしまった。
「あ!」
ショートカットに整えられた銀色の髪、メガネの下にはワインレッドの瞳。
……藤宮タクト!
次の言葉を発することもなく、ぽかんと口を開けたまま、私は相手の顔をまじまじと見てしまった。いや、失礼だとは思うのだけれど、視線をはずすことができなかった。
「あら?あなたは、確か」
タクトさんは私を見て、少し驚いたような顔をして、それから、あの優しい穏やかな笑顔になった。
「あ、え?あの…」
「こんにちは。先週、池袋で、お友達と一緒にカウンター席にいらっしゃったでしょう?」
え!覚えられている?あの暗がりで、視線が合ったのは、気のせいじゃなかったんだ。
どうしようかと思っていた私に、彼はにこやかに言った。
「おとなり、よろしいですか?」
「あ、は、はい」
断る理由もないので、返事をする。一例をして、彼はとなりの椅子に腰かけた。
「藤宮さん、めずらしいわね。この時間に来るの、久しぶりじゃない?」
この日、店内にいた唯一の日本人の女性スタッフ・鹿嶋さんがびっくりしている。
「ええ、ちょうど、前の仕事と次の仕事の間に、余裕ができたから。お昼も食べていなかったから、ここでいただこうと思って来たの」
「なるほど。で、彼女のことは知っているの?」
鹿嶋さんの疑問に、タクトさんは、持っていた大きなバッグを足元に置きながら、
「この間、私が池袋でうたっていた時にお店にきてくれた方なんですよぉ」
と、返事をした。鹿嶋さんは彼の前にタイ茶の入ったグラスを置きながら、私の顔を見て、
「そりゃ奇遇だね。彼女も、時々うちに来てくれるのよ。水本葉月ちゃん。葉月ちゃん、藤宮さんは、うちの常連さん。知っていると思うけれど、彼はスタジオシンガーよ」
と笑った。
スタジオシンガーって、確か、いろんな有名な歌い手さんのバックコーラスとか、外国映画のうたの吹き替えを担当すると、知り合いが言っていたっけ。へえ、そうなんだ!
「ま、好きでやっている仕事でもあるのよね。あ、鹿嶋さん、私にはいつものをお願いします。それと……」
あれ?タクトさんの話し方って、ちょっと面白い。
声色は、男性にしては透明感を持っているのは、うたっているときと同じだ。でも、言葉遣いが、どこか女性的。だけど、それが全然、違和感を覚えないのだ。オネエかなと思ったが、それは違うともはっきり、わかった。見た目もあって、中性的な感じがするのは間違いないが、でも、やはり「男性」なのだ。
……うまく言えないけれど。
「葉月さん、ですか。よろしくね、藤宮拓人です。あなたには、またお会いしたいと思っていたのですよ」
え?今、なんて言ったの?
また、あなたに会いたいと思っていた…って?
びっくりするばかりで声も出ない私に、タクトさんは笑顔で話しかけてくれる。
「あ、オーダーしたものが来ましたよ。冷めないうちに」
鹿嶋さんが運んできてくれたクイッティオヌアという、牛肉入りタイ風ラーメン(麺は米粉で作られている)と、セットの生春巻きにジャスミンライス。
ホロホロに煮込まれた牛肉をひとくち、口の中に入れると、優しい味わいのスープが溢れる。クイッティオヌアは辛くないから、落ち着いて食べられる。米粉で作られた平たい麺も、あっさりしていて噛み応え充分。ちょっとだけ添えられたパクチーもアクセントとしていい香り。あ、私、パクチーは嫌いじゃないよ。
ちらっと視線だけをタクトさんに向けてみると、彼が頼んだのは鶏肉料理のガパオライス。ああ、これも定番料理だよね。
「あ、あの……」
「はい?」
「タクトさんも……エスニックファッション、なんですね」
「はい、大好きなんです、私も。私服もステージ衣装も、比較的コレ系で通していますねぇ」
そういえば、あの夜のライブで着ていたのは、あれ、確かアオザイじゃなかったかな、ベトナムの民族衣装。アオザイには男性用と女性用があるが、タクトさんが着ていたのは男性用。
青い生地に銀色の細かい刺繍が入っていた。すごく似合っていたなぁ。
「葉月さんも素敵な組み合わせですよ。お店の中に入って、すぐにわかるくらい。とても上手く組み合わせて着ているなぁって」
「いえ、そんなこと……」
なんか、すごい不思議だ。うたい手であるタクトさんとふつうに会話している。
ドキドキしながらのランチタイム。なんか、食べているのか食べていないのか。
タクトさんは、綺麗にご飯を食べる。その姿が、優雅というか、洗練されている気がした。なんだろう、この人。いや、ひいき目じゃなくて、全体的に、とても柔らかい雰囲気を持っていると思う……
と、食べ終わった私の前に、オーダーした覚えがないデザートが出された。
「え?鹿嶋さん、私、頼んでないですよ?」
「藤宮さんから」
「え!」
となりで、彼はにこっと微笑んだ。
「どうぞ、召し上がってください。おいしいですよ」
うわ、うわ、うわわわ……なに、この人!これ、まさかナンパとかじゃないよねっ?
私が迷っているのを、鹿嶋さんはクスクスと笑ってみている。
「大丈夫よ、葉月ちゃん。藤宮さんは、下心なんて、まるっきり持ってないから」
「そ、そうなんですか?」
「うふふ」
小さく笑って、タクトさんは私を見ている。私の反応が面白いのかなんなのか。ワインレッドの瞳は、優しく私を見てくれている。
下心がないって……でも、こういうのって、疑っちゃうでしょ、ふつうは。
だけど、目の前の綺麗なガラスの器に盛られたレモンゼリーを見て、思わず喉を鳴らしてしまった。けっこうたくさん入っている。それをありがたくことにして、私はタクトさんに向かってアタマを下げた。
「いただきます」
スプーンで掬って、ひとくち。あ、あまずっぱ~い!口の中に広がる、レモンの酸っぱさと、そこにかかっているソースの、さわやかな甘さ。柑橘の類が大好きな私には、たまらない味。
私が食べているところを、タクトさんは、優しく笑ってみている。
その後、他愛もない話しをして、最後に、彼は名刺を渡してくれた。
「あ、本名なんですか…お名前…」
「はい。名前の部分だけ、カタカナにしているんですよ」
まじまじと名刺に印刷されたものを見ると、『藤宮拓人』という名前が読み取れる。どうやら、これが本名のようだ。
「私はフリーで仕事をしているので、仕事先からも、直接連絡をもらうことが多いのです」
え?それって、いわゆる芸能事務所などに所属していないってこと?
聞けば、スケジュール管理をしてくれている人はいるらしいけれど、基本的には自分でスケジュールを組んで、動いているという。とはいうものの、仕事が仕事だから、大人の事情というのもあって、どうしても真ん中に人を置いて仕事をしないとならない時は、その管理をしてくれている人がやってくれるんだとか。
へぇ……色々あるんだねぇ。初めて知ることが多いよ。
「葉月さんだったら、いつでも大歓迎ですよ。あ、でも、この番号やメルアドはほかの人には他言無用でお願いしますね」
そういうと、タクトさんは私のアタマにポンと、軽く手を置いてくれた。
「近々、またお会いしましょう。鹿嶋さん、ごちそうさま!またね!」
そういうと、彼は荷物をまとめ、手にした帽子をかぶると、あの柔らかい笑顔を残し、次の仕事先へ向かうためにお店を出て行った。
残された私が、しばらく名刺を眺めていると、鹿嶋さんが、
「いい人よ、彼は」
と言った。顔をあげて、鹿嶋さんを見る。
「仕事柄もあるだろうけれど、見た目が派手でしょ?どうしても見た目で判断されがちな今の世の中だけれどね……でも、実際の彼は、人の苦しみも悲しみも、一緒に理解できる人。まぁ、掴みどころがない部分もあるけれどね。ここに来てくれる時は、うたい手ではなく、単なる「ひとりのニンゲン」として来てくれるの。そういうところが、私は好きだな。すごい人間臭いっていうのか」
と言った。
カラになったレモンゼリーの器を見て、私は少しだけ……自分の口元が緩んでいることに気づいた。
「葉月ちゃん、今日の御代は大丈夫よ」
「え?」
鹿嶋さんの言葉にまたびっくり。彼女が手にしていたのは、伝票だ。
え、まさか……
「御厚意は素直に受け取っておきなさい」
私がこの店に通い始めてからだいぶ経つ。鹿嶋さんは私のこと(両親がいないこと)を知っている、数少ないひとりだ。私も、彼女には色々と話しを聞いてもらうことも多い。まぁ、彼女自身もちょっと謎めいたところがあるんだけれどね。
「今度、会った時にお礼を言えばいいわよ」
「は、はい」
拓人さんからの御厚意、今日は素直に受け取ろう。こんなこと、めったにあることじゃない。目の前にいるわけじゃないけれど、私は小さくアタマを下げた。
こうして、私は、タクトさん……拓人さんと「再会」した。
それは、この先に待っている「色々な出来事」「日常の中の非日常」が起こるプロローグだったと気づくのは、随分とあとになってからだ。
(続く)
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