10人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ
「ごめんね、急にびっくりしちゃったよね」
心晴さんの手が、私の肩に乗った。それが温かくて、目から涙がこみあげてくる。それが流れてこないように堪えていると、鼻の奥がツンと痛くなった。
「……治らないんですか?」
「亮介の病気の事?」
「はい……」
「そうね。今の技術じゃまだ、ね。病気になるのがもっともっと後だったら、もしかしたら特効薬が開発されて、すぐに治ったかもしれないけれど……けれど、亮介ももう半ば諦めている節があるから。もう、いつ死んでも後悔しないようにするんだなんて言って」
「……」
「ねえ、実里さん」
心晴さんが私の名を呼んだけれど、顔をあげることはできなかった。目元が赤く潤んでいるのを、どうしても他の人には見られたくなかった。
「亮介と仲良くしてくれて、ありがとうね。私、実里さんに会いたくて来たの」
「私に……?」
「そう。亮介、ここ最近、学校の話をするのが増えたのよね。今まで業務連絡だけだったのに、今日はこんなことがあったよって。それも決まって、変な後輩の女の子の話」
それが私の事だというのは、すぐに分かった。
「亮介の絵を好きだって言ってくれて、試しに出来上がるまで見に来たら良いって言ったら、本当に来るようになって……それに、亮介の事、手伝ってくれるようになったって。あの子の事だから、ちゃんとお礼できてないでしょう? 私ね、てっきり、亮介があなたの事好きなんじゃないかってからかったこともある。その時、まるで火を噴いたみたいに怒って怖かったなぁ」
心晴さんはその時の事を思い出したのか、噴き出すように笑った。
「私も両親も、亮介が楽しそうでとても安心した。このままずっと、そんな日が続けばいいなって思ってたんだけど、そういう時に限って神様って残酷でね。亮介に呼吸障害が出始めた。本格的に呼吸ができなくなる前に、落ち着いた環境に整えていく必要があるって病院に言われたの。もし学校に居る時に呼吸ができなくなったら……今度は本当に、手遅れになるかもしれないって」
その手遅れという言葉の意味は、私でもよく分かった。心晴さんは私から離れて、永井先輩の描きかけの絵を手に取った。
「ねえ、実里さん。実里さんは、神田日勝っていう画家、知ってる?」
初めて聞く名前だった。首を横に振って「いいえ」と言葉少なに答える。
「去年、亮介も美術部の合宿に行く予定だったけどいけなくなっちゃってね。うちの親がかわいそうだからって、亮介の病状が少し落ち着いた時に旅行に連れて行ったの。亮介が北海道に行ってみたいなんて言うから、最期の家族旅行にって。その中で、そんな画家の美術館があるっていうから、みんなで寄ったのよ」
心晴さんは先輩の絵を撫でた。乾ききった絵の具は、剥がれることなくぴったりキャンバスに張り付いている。
「その人、病気で若くして亡くなった人なんだって。美術館にね、半分だけ体が描かれた馬の絵が飾ってあるの。それが亡くなる前に描いていた、未完成の絵。亮介はそれが気にいったみたいで、他の絵見に行こうって誘っても動かなかった。……亮介も、ああやって、自分が命絶えるその瞬間まで、絵を描いていたいんだって言ってた。それを聞いちゃったんだから、私にはその『夢』を叶えてあげる、義務があるんだよね」
心晴さんは、その絵をイーゼルの上に置く。
「ねえ、実里さん」
「はい……」
「亮介の絵のファンになってくれて、ありがとう。あの子が絵を描くのを手伝ってくれて、本当にありがとう。……いつか実里さんにも、亮介にとっての絵と同じくらい、ううん、それ以上に好きな事を見つけて欲しいな」
「好きな物?」
「うん。亮介が実里さんと話してて、何が好きかさっぱり分からない奴だって言っていたから……話が色んなところに飛んでいくから、合わせるのが大変だったって文句言うのよ、アイツ。……あと、まるで星みたいに宙を漂っているみたいだって。いつかちゃんと、地に足がつけばいいけどって」
心晴さんが、来週、一度だけ永井先輩が学校に来ると教えてくれた。
その日が来るのを待ちわびていた私は、帰りのホームルームが終わった瞬間、まるで飛んでいくみたいに美術室に向かった。心晴さんが言っていた通り、先輩が美術室に来ていた。残しておいた私物を手に取ろうとしていたけれど、上手く体が動いていないみたいだった。私はそっと近づいて「これですか?」と、あの絵の具がたくさん詰め込まれた袋を手に取った。
最初のコメントを投稿しよう!