手のひらに乗る満天の星

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 それ以来、私は暇さえあれば美術室に行くようになった。  美術部の部員は全員合わせても十人もいないくらい。永井先輩が私の事を事前に言ってくれていたのか、そもそも私の事になんて興味ないのか、絵に集中していて気づいていないのか、美術室の手前で挨拶をしても無視される。  その中で、佐々木さんだけは律儀に小さくお辞儀をしてくれた。私もそれを返して、永井先輩のキャンバスに近づいていく。先輩は、美術室の一番奥で絵を描いていた。宣言通り、星空の絵を。  先輩が絵を描くペースは、他の部員に比べるととてもゆっくりだった。その理由は、先輩の動きを見てすぐに理解できた。  どうやら、体に力が入りにくいみたいだ。筆を手に取ろうとするとき、指先ではうまく摘まむことができない。手が震えて、筆が動いてしまう。手全体で握ろうとするのだけど、逆に力が入り過ぎて、床に落ちてしまうのはしばしばだった。  絵の具を絞るときもそう。手に力を込めようとしているのに、その力は指先に伝わることなくあちこちに飛んで行ってしまっているようだった。その度に永井先輩はイライラとして、決まってこう声を張り上げる。 「おい!」  始めは分からなかったその呼びかけ。がたりと椅子が動く声が聞こえて私が振り向くと、一人の美術部員が席を立って永井先輩のところに向かっていた。そして、落ちた筆を拾って先輩に手渡したり、絵の具を出してあげたりをしている。  先輩の事を手伝う彼らの背中は、どことなく嫌そうだった。きっと筆が乗って来ているのに先輩に呼び出されて手が止まってしまうことが嫌なのだろうとすぐ察しがついた。美術室の空気はどんどん荒んでいき、下校時刻を迎えるころにはみんな大きくため息をつきながら足早に去って行く。その中で永井先輩だけがゆっくりと帰る準備をしていた。  部外者だからと遠慮していたけれど、そんなに澱んでいてギスギスするような所にずっといて、気分がいい人間がいる訳がない。次に美術室に訪れて永井先輩が「おい!」と言った時、私は「はい!」と手をあげた。少し声が大きかったみたいで、周りがびっくりして私の事を見ていたし、先輩は嫌そうに口を曲げていた。先輩が乗っている車椅子のタイヤのあたりに、筆が落ちている。 「私、やります」  一身に注目を浴びると、少しこそばゆい。私はむずむずする背中をブラウスで擦る様に体を捩りながら、そう言った。 「は?」 「だって、みんな忙しそうだし。でも私は暇人だから。やります、何やればいいですか?」  永井先輩は首を動かして周りと私を見比べる。そして、諦めるように頭をがっくりと下げた。 「……お前にできるのか」 「やってみなきゃ分からないじゃないですか」 「ふん」  先輩は「ま、やってみろ」と言わんばかりに鼻を鳴らした。私は床に落ちた筆を拾い上げ、先輩の手に乗せる。彼がぎゅっと握ったのを感じてから手を離すと、先輩は「どうも」と言ってこちらを見ることなくキャンバスに向かっていった。  先輩は今、キャンバスに夜空を描いている。上から丁寧に、ゆっくりと。塗り残しがないように丁寧に。  夜空は黒の絵の具だけで描いていくのかと思ったのだけど、全く違う。先輩は様々な色を掛け合わせて、夜の色を作り上げていた。青や紫、それだけじゃない。これにはびっくりしたのだけど、先輩はパレットに赤や緑、黄色を出すように要求してくる。私は先輩が言う色を言われた通りパレットに出していくのだけど、その度に「多すぎ」とか「少なすぎ」とか怒られることになった。    永井先輩と密に接していて、分かったことがある。 先輩はあまり性格がよくない……ううん、とても悪い。わがままで、人の事を下に見ている節もある。例えば、永井先輩がこう言う指示を私に出してくる。 「コバルトブルー。マリンの」  永井先輩が何か横文字を言った時は、大体、絵の具をパレットに出して欲しい時。それはすぐに分かったのだけど、そもそも色の名前なんて、私には分からないのだ。 「へ? こ、こば?」 「早くしろって」  先輩に急かされて、私は言われた通りの絵の具を探す。  先輩は、大量に絵の具を持っている。箱の中に整然と並んでいるのではなく、布の袋のなかにごちゃっとバラバラに入っているので見つけづらい。こんなに使う? 持ってくる色は必要最低限でもいいんじゃない? と思うけれど、それなりに絵の具は消費されているから使うのだろう。私はその山から先輩の言う色を探すけれど、全く見つからない。そもそも、先輩の絵の具の中で青系の色が多いのだ。これだと思っても、名前が違うなんてしょっちゅうある。まるで一人でかるたをやっているような気分だ。  ようやっと絵の具が見つかったと思ったら……。 「違う! コバルトブルーのマリンって言っただろ?」 「え? 違うんですか? 書いてあるじゃないですか……」 「これはただのコバルトブルーだっつうの。僕が言ったのは、コバルトブルーのマ・リ・ン。ほら、さっさと探せよ」
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