手のひらに乗る満天の星

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 一方的に命令するだけ。ヒントもくれない。他の部員の子がやったときは、色の知識があったからすぐに見つけることができていたけれど、私は素人なんだから、少しくらい大目に見てくれてもいいのに。私が頬を膨らませながら、そのコバルトブルーのマリンを探していると、先輩は体を揺らして、まるで私を急かすみたいに待っていた。  私は先輩に対して何度もイライラしたけれど、歯向かう事だけはしなかった。  体を思う通り動かすことが出来なくて一番苛立っているのは永井先輩であるという事は、絵を描く姿を見てすぐに分かったからだ。細かい部分を塗ろうとしたら、手が震える。手が滑って違うところを塗ってしまって、悔しそうに唇を噛む。その姿を見ていると、少しでも自分ができることをしたいと思えてしまう。私は先輩の動きを少しだって見逃さないようにじっと見つめる。先輩は私の視線がこそばゆいのか、時々、筆で頬をかこうとしていた。  私も慣れてきたころ、ようやっと絵の具を探すスピードも上がってきた。パレットに出す量も、今までは先輩に怒られることもあったけれど、徐々に適量を出すことができるようになった。先輩がついに私の事を諦めただけかもしれないけれど。  それくらいからか、先輩が私の事で文句言うことは無くなっていった。それだけじゃなく、ポツポツと、お互いの話をすることも増えた。  私は田舎で暮らしていた時に、毎日のように、先輩が描く星空みたいな空を見ていたこと。流れ星がたまに流れていく空を見ながら、おばあちゃんがいろんな話をしてくれたこと。美術室に来ないときは、友達と一緒にバニーズというチェーン店に行って新作のフラペチーノを試したり、友達おススメのお店に行って服を見ているという事。 先輩は、家族の話をすることが多かった。お姉さんの化粧道具が洗面所に広がっていて邪魔だとか、お父さんのギャグがつまらないこととか、お母さんが作るグラタンがおいしいという事も教えてくれた。私が「いいな、食べてみたいな」と言った時は、先輩は自慢げに笑うだけで何も言わなかった。 そんなありふれたことを話している私たちを、他の部員はどんな目で見ていたのか、私は知らない。永井先輩と打ち解けている姿を見てびっくりしているかもしれないし、喋っているのがうるさいと思っているのかもしれない。それでも、私はそうやって過ごしている時間が楽しかった。先輩は話をしている間もずっと、私の目の前で夜空を作っていく。様々な色を混ぜて、たくさん色を重ねて、どこまでも広がっていく夜の闇の深さを作っている。  キャンパスが半分ほど『夜』になった頃、ある異変が起きていた。  私は先輩の筆運びを見ていたから、すぐ『それ』に気づいた。先輩が筆を落とす回数が増えて、キャンバスに塗り残しが増えていく。永井先輩は悔しそうに唇を噛んで、力強く筆を握り直そうとする。しかし、その度に筆は床に落ちていった。私は何回も筆を拾って先輩に渡すけれど、その度に、筆越しに伝わる先輩の力が弱くなっていくのを感じていた。先輩は私がそれに気づいたことに驚き、気づかれたことが嫌だったのか、私の手から無理やり筆をふんだくっていく。  その変化に気づいていたのは、私だけだったみたいだ。他の美術部の部員も顧問の先生も一切気づくことなく、先輩が脂汗を流しながら力を込めてキャンバスに向かっていく姿を見て見ぬふりしている。絵を描いている先輩の呼吸はどんどん荒くなっていった。その姿は、全力疾走した後みたいに見えた。  油絵の具の匂いが心地よくなってきたある日、ついに、先輩は学校を休むようになった。それも、一日二日では済むようなものじゃなくて……気づいた時にはひと月以上経っていた。  部活のある火曜日と木曜日、美術室を覗いてみるけれど、先輩の姿はどこにもない。車椅子が走る音も聞こえてこない。そこにいるのは、先輩以外の美術部員だけだった。  私は美術部の活動のない日にも、こそっと美術室に忍び込んだ。私が知らない時に、もしかしたら先輩が学校に来ていて、絵を描いていたかもしれない。そんな淡い期待は、簡単に崩れていく。私の目の前にあるのは、未完成のままの絵だけ。油絵の具はすっかり乾ききっていて、ひび割れ、下手に触れると剥がれて行ってしまいそうだった。私はその作られた夜の空に触れることなく、ため息をつきながら踵を返す。  こんなことばかりしていたから、私は友達付き合いも少しおろそかになっていた。みんな私が何か悩んでいるのを察してくれたから、深く立ち入ってくることもなかった。その代わり、そのさらりとした人間関係は、あっという間に水の中に溶けていくように見えなくなっていく。  気づいた時には、千夏ちゃんもあまり私の事を誘わなくなっていた。  いい加減諦めて、今度は私から友達を誘うってみようかな? 寂しさが募って、そんな事ばかり考えるようになっていた。 「……川畑さん?」  足元ばかり見ていたから、誰が来ていたのか初めは分からなかった。顔をあげると、佐々木さんの姿がある。 「どうしたの? こんなところで……」  佐々木さんは不思議そうに首を傾ける。 「あの……な、永井先輩の絵、見てて」    正直に言おうかちょっとくらい嘘をつこうか悩んで、私は正直に話をすることにした。喉がつかえて、上手く声が出なかったけれど。 「ああ。好きなんだね、本当に。永井先輩の絵」    佐々木さんの言葉は少しだけ棘が生えているように聞こえた。 「絵、だけね。本人はすぐいじわるな事ばかり言うからなぁ」  私は冗談で言ったつもりなのに、佐々木さんは笑わなかった。じっと永井先輩の絵を見つめて、息を吐くように呟く。
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