手のひらに乗る満天の星

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「この絵、未完成のままかもね」  佐々木さんがぽつりと呟いた言葉は、予想だにしていなかったものだった。 「え? ど、どういうこと?」  聞き返す私の声は、わずかに震えている。 「……この絵を描き終わる前に、先輩が死んじゃうかもってこと」  その言葉は、冷たい槍のように私を串刺しにしていった。強張ってうまく動かない口元で、私はまた聞き返した。 「先輩の病気、知ってる? 運動をつかさどる神経がどんどん衰えて、筋肉が衰えていく病気なんだって」 「どうして、それで死んじゃうの?」 「私も詳しいことは分からないんだけど……動かなくなるのは体の筋肉だけじゃなくて、次第に呼吸も出来なくなって、それで死んじゃう人も多いんだって」  私は休む前の先輩のことを思い出していた。まるで全力疾走をした後みたいに息苦しそうで、汗がにじむ表情を。 「治ったり、しないの?」 私がそう聞くと、佐々木さんは首を横に振った。 「治療法がまだないんだって。私も気になって調べたら、徐々に寿命を伸ばすことはできるらしいけど。先輩はそう積極的に治療するつもりもないみたい。……噂じゃ、余命宣告も受けてるって」 「嘘だ!」 私が大きな声出しても、佐々木さんは驚かなかった。まるで最初から、私が大声を出すということが分かっていたみたいに。 「嘘! そんなの絶対嘘! 私は信じない……先輩がそれを言ったわけじゃないんでしょ? それなら、私は、人の噂なんて絶対に信じない」  子どもが駄々をこねるみたいにそう繰り返すと、佐々木さんはゆっくりとこう言った。 「優しいよねぇ、川畑さんは」 「……え?」 私が顔を上げると、佐々木さんは片眉をあげて私を見ていた。 「永井先輩が描いてる星空の絵を見ていると、私はどうしたらいいのかわからなくなるよ。……去年、美術部で合宿をすることになったの。コテージを借りてそこにみんなで泊まって、昼間は景色を描いて、夜は星空の観察会。その頃はまだ先輩も今みたいに悪くなくて、自分で歩けることはできたんだ。杖をつきながらだったけれど。だから、来る予定だったの」  佐々木さんは、未完成のままになっている絵を見ている。 「でも、合宿直前にね、永井先輩が突然歩けなくなったの。それから車椅子を余儀なくされたんだけど、合宿で行くコテージは車椅子で行くのがちょっと大変なところにあってね……永井先輩のご両親も反対してたみたいだから、先輩だけが合宿を欠席したんだ。  その合宿の後の部活で、みんなあの時見た星空の事をずっと話してた。川畑さんは見たことある? 空いっぱいに広がる星空。私、あんなの生まれて初めて見たんだぁ」  私はこの都会に引っ越してくるまで、毎日のように見ていた……とは言わなかった。佐々木さんの話に水を差すのは悪いと思ったから。 「みんなも同じだったみたいで、あの時撮った星の写真を見ながら絵を描いたり、感想を言ったり。私、ちらっと先輩の事見たんだよね。……唇を噛んで、悔しそうに俯いていた」  永井先輩は、悔しい時必ず唇を噛む。その表情を、しばらく見ていなくても私は今でもありありと思い出せる。それくらい、私の生活は永井先輩の事でいっぱいになっていたのだと今ようやっと気づいた。 「永井先輩がね、あの賞をもらった絵を描き始めたのはその後だよ。私、びっくりしちゃった。先輩はあの星空を見ていないのに、私たちが見てきたのとそっくりの星空を描くんだもん。私の友達があの時の光景を参考に絵を描こうとしていたのに、もうその子の心も折れちゃったよ。  私、思ったんだ。先輩が一番、合宿で星空を見るのを楽しみにしてたんじゃないかって。先輩は自分の頭の中にあるイメージを描くことこそ絵描きとして最も大事なことだって言っていたけれど、想像の星空を描くんじゃなくて、見たものをそのまま描きたかったんじゃないかな」  先輩が描きたかったものは自分の中に広がるイマジネーションではなくて、先輩の欲望だったのかもしれない。私も佐々木さんも、視線は先輩の絵に向いたままだった。
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