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桔梗 一
その日は夜半から降り始めた雨で道のあちこちがぬかるんでいた。
朝方から小糠雨に変わり、古着屋が軒を連ねる柳原土手は霧にけぶるようにぼんやりと滲んでいる。
朝とはいえどんよりと薄暗い中、「紅堂」と染め抜かれた布を看板にした古着屋の軒先に駆け込んだ女は、まとわりつくような湿気に、傘をたたむと忌々しげに空を見上げる。
「色んなものが湿気ちまって嫌になるね」
苛立たしげに呟いて店に入り、頭から被っていた手拭いで肩や袂を払うように拭い、濡れた足を丁寧に拭いた。
それから店の奥の居住部分に続く小上がりに手を付き、梯子段の上を覗く。
しん、と静まり返り、物音ひとつしない。
「――――― 今日は雨で薄暗いから、まだ寝てるね、こりゃ」
呆れたように呟いて、女は身軽に梯子段を上がった。
息を吸い込んで、勢いよく襖を開け放つ。
「おはよう! 朝だよ、真白。とっとと起きな!」
その声に(というより襖が勢いよく開いた時点で)目を丸くして彼女を見返すのは、枕元に端然と座す直衣姿の公達。
この江戸の古着屋に不似合いなその姿には目もくれず、女は布団に歩み寄る。
大の字になって寝こけている大柄な男は、先程の大音声にもぴくりともしていない。
「まったく、寝汚い」
盛大に顔を顰めた女は、何かを思いついたのかにんまり笑うと布団の側に膝をつき、男の耳元に唇を寄せた。
その様子を見守っていた公達は、おや、と面白そうに口の端を上げ、扇でそれを隠す。
そのまま耳元で色っぽく囁くのかと思いきや、すうっ、と息を吸い込み……。
「真白ッ! 朝だよ!」
大きな声で告げた。
「ひえっ!」
びくっと体を跳ねさせて飛び起きた真白は、何事かと辺りを見回し、側で笑い転げる女を認めて肩の力を抜く。
「なんでえ、お蔦か。驚かせやがって」
がりがりと首元を掻きながらぼやき、ふと通りに面した障子を見やる。
「まだ薄暗いじゃねえか。随分早いな」
「もうとっくに夜は明けてるよ。今日は雨だから薄暗いのさ」
「雨か……客足が遠のくなあ」
やれやれとため息を漏らす真白を他所に、蔦は部屋を出て梯子段に足をかけた。
「朝餉の用意をしておくから下りといでよ」
「ああ、分かった」
くあ、と欠伸をひとつ噛み殺しながら適当に布団を上げる真白に、背後から声がかかる。
『蔦の君は、もういっそここに住めばいいのではないか』
やや笑いを含んだ声は、柔らかな低音。
真白は苦虫を噛み潰したような顔で肩越しに振り返り、そこに端座した公達を見やった。
「あいつはおっ母さんと暮らしてんだ。まだまだ元気だが、いい歳だからな。心配なんだろ」
寝起きで着崩れた着物を直しながら答える真白に、公達は少しだけ意地の悪い笑みを浮かべる。
『おや。いつもなら、夫婦になんぞなる気はねえ、とでも言うところを。やはり憎からず思っているのだね』
くすくすと扇の陰で笑う公達に、真白はしまった、と顔に書いて帯を結ぶ手を止めた。
「あ、いや……それはその」
『ああ、分かっている。幼馴染という近さゆえ、ついつい気のない素振りをしてしまうのだろう。君はあまり色恋沙汰に慣れていないようだし、それも仕方の無いことだ』
したり顔で頷く公達に、真白は中途半端な帯をそのままに口を塞ごうと襲いかかった。
「こンの、實親! 分かったふうな口を……!」
だが。
飛びかかった真白は、公達の体をすり抜けて、顔から畳に突っ込んだ。よくよく目を凝らせば、公達の体はうっすらと向こうが透けて見える。
畳に強かに打ち付けた額を摩る真白を、公達 ――――― 實親は呆れたように見下ろした。
『いつもはお公家さん、などと呼ぶくせに、都合が悪くなると名前で呼ぶのだから』
唇を尖らせた真白は、ふん、と鼻を鳴らして返事をせず、肩をいからせて足音荒く部屋を出た。
その後を、實親が滑るように追う。
この公達、名を九条實親といい、真白の手首に巻き付く数珠に住んでいる。つまり、実体を持たない霊魂のみの存在で、数珠の持ち主の守護を担っていた。
そしてその数珠の持ち主である新見真白。
彼はここ、古着屋「紅堂」の店主であり、實親とともにいろいろな相談を請け負っている。
とはいえ、相談請負はついひと月ほど前から始めたもので、未だに依頼はない。
梯子段を下りて井戸で顔を洗おうと、小糠雨の中を手拭い片手に裏口から出ると、井戸の側で手足を洗っている子供を見つけた。
近づいてみれば、あちこちほつれて丈の合っていない着物も泥だらけ。真白は首を傾げながら声をかけた。
「おう、どうした坊主、泥まみれじゃねえか。転んだのかい」
手を止めた子供はバツが悪そうに真白を見返し、小さく唇を噛み締めて俯く。
どうも様子がおかしい。
真白は答えない子供を気にしながらも、しっとりと湿り気を帯びる着物に気づいて、手早く顔を洗った。
その側で實親は相手に見えないのをいいことに、不躾なほど子供をとっくりと観察する。
手足を洗い終えた子供は今度はもそもそと着物についた泥を落とし始めた。その腕や足に小さな擦り傷と痣を認めて、實親は僅かに眉を曇らせる。
目立って大きな傷はない。
子供同士の諍いだろうと見当をつけた。
『――――― それにしても随分と着物が傷んでいるな』
ぽつりと呟いたそれに、真白もついつられるように子供に目をやる。
裾や袖のほつれの他に、袖を引っ張られたものか糸が切れて肩の辺りが覗いていた。
いつから着ているのか色が褪せてしまっていて、元の柄の判別も難しい。
見兼ねた真白は顔を拭いた手拭いを子供の頭にふわりと乗せた。
「そんな洗い方じゃ落ちねえよ。俺に付いて来な」
濡れた小さな手を躊躇なく掴み、真白は裏口を潜る。
「お蔦、お蔦!」
「なんだい、そんな大きな声で呼ばなくても聞こえてるよ」
店の方から暖簾を跳ねて顔を出した蔦が、真白の側に子供の姿を認めて、吊り上げていた眉を下げた。
「なんだい、その子。随分汚れてるね」
「井戸のとこで会ったんだ。子供用の着物があったろ。ちょいと見繕ってくれ」
「ああ、はいよ」
気安く頷いて引っ込んだ蔦に驚いて、子供は真白を見上げた。
「売り物だろ、いいの」
「この店の主は俺だ。俺がいいって言やあいいのさ」
そもそも子供の着物は大抵、親が着古したものを仕立て直して着せることが多く、いくらか状態の良いものを買い取りはしたものの、これが売れず持て余していたのだ。 真白にすれば捨てるのも忍びないし、渡りに船といったところ。貰い手があるならそれが一番。
泥まみれの子供をそのまま畳に上げるわけにもいかない。見回すと蔦が沸かしたのかかまどの上に湯気を上げる鍋を見つけた。覗き込むと白湯のようだった。ちょうどいい、と手桶に少し移し、汲み置きの水で埋める。そこに手拭いを浸して絞ったものを子供に差し出した。
子供は小さく「ありがとう」と告げてそれを受け取り顔を拭く。温かさのせいか頬を緩ませ、俄に力強く腕や脚を綺麗に拭いた。
「坊主、裏の長屋に住んでんのかい」
子供は真白を見上げてこっくりと頷く。
「おっ母さんはどうした?」
すると子供は唇を引き結んで俯いた。
「……出てった」
これはまずい。
何の気なしに訊いた内容が、子供を傷つけてしまった。
慰めるのもおかしいかと、真白が必死に言葉を探していると、数枚の着物を抱えて蔦が戻ってくる。
「お待たせ……って」
涙目で俯く子供と、何やら狼狽えた様子の真白を見比べ、半眼になる。
「真白、あんた子供を泣かせて何やってんだい」
「ち、違う! 俺はちょっと間を持たせようと」
「なんだい、そりゃ。大方余計なことでも言ったんだろ」
図星を刺されてぐっと言葉に詰まる真白の傍で、實親が扇で口元を覆い、くくく、と声を漏らしながら肩を震わせる。それをじろりと一瞥してから、真白は気を取り直して子供の背を押した。
「さ、ほら、どれがいい。見てみろ」
押し出されるままに、子供は蔦が畳に広げた着物を覗き込む。
「選んでいいの」
「構わねぇって言ったろ。好きなのを着て行きな」
腕を組み鷹揚に頷く真白を横目に見て、實親は扇の陰でくく、と笑った。
それを聞き付けた真白はじろりと睨んだが、子供と蔦がいる手前、何も言えない。
着物を一つ一つ手に取って見ている子供に、ふと思いついて訊ねた。
「そういや坊主、名前は何てんだ」
「小鉄」
「へえ。いい名前だな」
真白が畳に腰を下ろして言うと、嬉しそうに笑う。
「これにする!」
子供 ――――― 小鉄が選んだのは、黒地に白の雪輪が散らされたもの。蔦は柳葉色の帯を出してやり、小鉄が着ている泥だらけでほつれた着物を取り上げると、矯めつ眇めつして眉尻を下げた。
「これはお役御免にした方が良さそうだけど……持って帰るなら洗って縫ってあげるよ」
そんな蔦の申し出に、真白は帯と格闘している小鉄に目をやる。
それとなく手を貸してやりながら、真白は「どうする」と問う。小鉄は帯と蔦の手にある着物とを忙しなく見比べ、一度唇を引き結んでから、「もういらない」とやや怒ったように呟いた。
その言い様に目を瞠った真白と蔦は顔を見合わせる。
實親はつい、と蔦の側へ移動して汚れた着物を眺め、考えるように首を傾げた。
『……もしや、母親と何か関係があるのではないか』
声を潜める必要もない實親の放った一言に、真白はつい「そうなのか」と小鉄に訊ねた。
きょとんと見返す小鉄と、「何が」と怪訝そうに訊ねる蔦。はっとした真白は慌てて誤魔化す。
「ああいや、あれだ、もしかしてその着物はおっ母さんの手製じゃねえのかい」
小鉄が目を大きくして真白を見上げた。
「さっき、おっ母さんは出てったって言っただろ。あの着物はそのおっ母さんが最後に縫ってくれたものじゃねえか?」
真白の言葉に、蔦は得心がいったように頷く。
「そう、おっ母さん出て行っちまったのかい。そりゃあ早々手放したくないだろうね」
同情を滲ませて言う蔦を、小鉄はきっ、と睨めつけて言った。
「もういらねえよ、そんな汚ねえボロ布。とっとと捨ててくれ」
荒っぽい口調で言い放つと、ふん、とそっぽを向く。蔦は呆気に取られたように目を瞬かせ、眉尻を下げて口の端で笑った。そのままちら、と真白を見ると、「後は任せたよ」とでも言いたげに顎をしゃくって小鉄を示し、さっさと踵を返して店へと消えていく。
真白はやれやれと肩を竦めて(けれどもこちらも口の端の笑みを隠しきれていない)小鉄に向き直った。
「小鉄、腹は減ってねえか。今から朝飯にしようと思うんだが……」
問いかけの途中で、小鉄の腹が「ぐうきゅるるる」と盛大に主張する。
一瞬の静寂の後、小鉄は真っ赤な顔で腹を押さえ、勢いよく真白を睨み上げた。
笑ってはいけない。
隣で實親が扇を盾にしながら声を漏らして『素直な子だ』と笑っているが、自分は笑ってはいけない。
小さいながらに男としての矜持があるのだ。
笑っては……。
何度言い聞かせても口の端が上がろうとするのを止められず、緩む頬を誤魔化そうと「いや、笑ってないぞ」と言ってみるものの、声が笑いで震えていて完全な薮蛇。
「笑うな!」
耳まで赤くなった小鉄がムキになって言うのが引き金となり、真白はぶはっ、と吹き出してしまった。
「笑うなって言ってんだろ!」
「分かった分かった、そう怒るな。一緒に食おうな」
子供特有の甲高い声できいきいと喚く小鉄の頭を、笑いながらぽんぽんと軽く撫でて宥める。
先に笑いの発作を治めた實親がぽつりと、『それは逆効果ではないのか』と呟く声に重なって、向こう脛を蹴られた真白の悲鳴が響いた。
脛を押さえて声もなく蹲る真白を見下ろして、實親は嘆息する。
『君はその子の矜恃を尊重して、笑うのを堪えていたのではないのか。まったく台無しだな』
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