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裏の長屋へ向かう途中、隣の實親がふと眉を顰めて扇で鼻から下を覆う。
『――――― なんだ、この匂いは』
「匂い?」
ふんふんと鼻を動かしてみるも、真白には感じられない。
『酒と……他に饐えたような匂いが混じっている。気を付けろ、真白。何かいるぞ』
低く囁いた實親を、ぎょっとして見返す。
「何かってなんでえ、お公家さん。脅かすんじゃねえよ」
『脅しなどではない。確かにいる。――――― あそこに』
ぱしん、と閉じた扇で指し示した先は、長屋の一室。
「……小鉄の家じゃねえか」
勘弁してくれよ、と口の中で呟きながらも、真白はその戸口に立った。
ごく、とひとつ唾を呑み込んで、真白は緊張した面持ちで口を開く。
「小鉄! いるかい」
その声に反応してか、中でがたん、と音がした。
「小鉄?」
『真白、下がれ』
もう一度呼びかける真白に、實親の声が鋭く飛ぶ。
「え?」
何事かと實親を振り返った刹那。
がたん、と大きな音を立てて勢いよく戸が開け放たれた。次いで何やら黒いものが転がるように飛び出してきて、真白は慌てて飛び退く。
「うわわわわ!」
声を上げて飛び退いた真白のすぐ脇に、小鉄がもんどりうって倒れ込む。
「小鉄!」
どうやら力任せに戸を開けて飛び出したはいいが、勢いがつきすぎて体勢を崩したようだった。
「おいおい、大丈夫か、小鉄」
起き上がろうとするのに手を貸してやると、やっと真白に気がつき、必死な様子でしがみついてくる。
「真白、おっとうが!」
『真白』
常にないほど硬い實親の声と、すぐ側にゆらりと立ち上る気配にはっとして、ぽかりと口を開けた戸口へと目をやった。
男がひとり立っている。
無精髭に覆われた顏はげっそりと頬がこけ、落ち窪んだ目の周りは隈で黒く染まっている。
取り敢えず身につけた、といった風情の着物の袷から覗く襟元や胸は、骨が浮きそうなほど痩せていた。
「――――― あんた、小鉄の」
父親か、と問おうとした真白の声を遮って、男は小鉄を睨めつける。
「おう、小鉄。それを寄越せって言ってんだろ!」
吠えるような声は痩せ細った体に似合わず太く、途端に辺りに満ちるどす黒い靄のようなものに、真白は思わず周囲を見回した。
「いやだ! これは俺のだ!」
反駁する小鉄の手にしっかりと握られているのは、昨日蔦が渡した巾着。それに気付いた真白は眦を吊り上げて男を睨み据える。
「てめえの倅が稼いだ金を奪い取ろうたあ、あんたそれでも親か!」
怒鳴りつけた真白に初めて気付いたと言いたげに目を向けた父親は、訝しげに目を眇めた。
「誰だ、てめえは」
低い、地を這うようなその声が奇妙に膨らんで二重に響き、真白はふと眉を寄せる。
ぞろり。
父親の肩に、黒い手が。
枯れ枝のように細い指が、ぞろり、と肩を這う。
「なんだ、ありゃあ……」
ぽつりと呟いたのを聞きつけたように、のそりと父親の肩越しに頭が覗いた。
息を詰めて見ていると、そいつは父親の背中をよじ登って、肩車の姿勢になる。体勢が落ち着くと、つい、と真白に目を向けた。
『……へえ、お前、俺が見えてるな』
にたり、と笑ったそいつの顔は、父親とそっくりだった。
濃さを増したような辺りの靄を目だけで見回し、真白はそっと小鉄の背を押す。
「お蔦のところで待ってろ」
ひそりと告げると、小鉄は驚いたように真白を見た。
じっと父親を見据える真白の横顔に頬を引き締めてひとつ頷くと、すばしこい動きで紅堂へ向けて駆け出す。
後を追おうとする父親の前に立ち塞がった真白は、「すまねえな」と呼気と共に吐きながら思い切りその腹を蹴りつけた。
細い体は口を開けたままの戸口を抜けて家の中に逆戻りし、古びた畳に叩きつけられる。
「往来で騒ぐと人が集まって来ちまうからな」
続いて家の中に踏み込んだ真白は、独り言ちながらきっちりと戸を閉めた。
父親は余程強かに打ち付けたのか、緩慢にもがいて呻く。
「……お公家さん、あいつは一体何だと思う」
声を潜めて問うと、扇で鼻と口を覆った實親が眉を顰めて答える。
『恐らく、賭場に出入りしているという話だったから、そこで憑かれたのだろう。人が多く集まる上に、欲望だけが蓄積されてゆく場だ。あれはそういったものを喰らって肥えたもののようだ』
「すげえな、お公家さん、そんなことまで分かるのかい」
實親は目を眇めて父親に憑いているものを見据え、嫌悪からか顔を顰めた。
『これほどに近づいてやっと分かった。この耐え難い匂いは、酒と際限のない欲だ』
近くなったうえに閉めきった狭い室内で、匂いが充満している。真白は動じないが、實親は扇では追いつかなくなったらしく、袖で鼻を覆った。
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