桔梗 四

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 酒と煙草、汗と人いきれ。  賭場の空気がそこにあった。  加えて、父親に憑いているそれが発する黒い靄も、独特の匂いを発しており、全てが混ざり合って實親には耐え難い腐臭となっていた。 『――――― さっさと終わらせないと、気が遠くなりそうだ』 「お公家さん、実体がねえのに難儀なことだな」  真白が気の毒そうに言うのに、實親はさらに顔を顰める。 『なぜ君は感じないのだ』 「さあ……匂いにも実体があるのと、そうじゃねえのがあるってことかもな」 『匂いの実体……零体の発する匂いはそもそもそこに存在しないも同然、ということか……?』  ひそひそと交わしている間に、父親はやっとのそのそと起き上がる。  腹を擦りながらひとつ咳を零し、濁った眼で真白を睨めつけた。 「……てめえ、何しやがる」 「おう、やっと起きたか。昼間っから酒浸りの父親に稼いだ金を取られそうになってる子供を助けただけだが、文句があるかい」  まったく悪びれた様子のない父親の態度が腹に据えかね、憤りのまま一息に告げる。  怒気を孕んだ声と吊り上がった眦。これほどに怒っている真白は珍しく、實親はおや、と目を瞬かせる。  随分と小鉄に情を傾けているようだ。  だが、父親の一存で離れ離れになってしまった兄妹が、それでもそれぞれに生きていこうとしている姿を見ていれば、實親もやはり情が湧くというもの。真白の怒りは至極真っ当、と諫める気もなかった。 「あんた、酒はともかく博打は昔っからなんだってな。その肩に乗っかってるやつは、いつ拾ってきた」  低く吐き捨てるように問う真白を、父親は眉を顰めて見返した。 「肩に乗っかってる? 何言ってんだ、てめえは。幽霊でも見えるってのか」  そう言ってさもおかしいと言いたげに、肩を揺らして笑う。  だが、真白は眉一つ動かさずに答えた。 「ああ、見えるとも。腹ばかり膨れて痩せ細った、餓鬼みてえなやつがこっちを見てらあ」  父親は顔色を変えて笑いを呑み込み、恐る恐る自身の肩を見回す。それから、はっとしたように真白に目を戻した。 「おかしなことを言って俺を騙そうったってそうはいかねえぞ。大体、てめえは何者だ」 「俺かい? 俺はしがない古着屋の店主さ。小鉄とりんが不憫でならねえから、ちょいと手を貸してやってるだけさ」 「りんのことも知ってるのか」  驚いたように目を丸くする父親に、顎を逸らして見下すような目を向けた。 「おうよ。働いて働いて、それでも食い詰めた末だってんならまだしも、酒と博打の借金の(かた)に売られた哀れな娘だろ」 「りんはちゃんと納得して」 「そんなわけねえだろ、甘えてんじゃねえ!」  激昂する真白を前に、父親は口を噤む。 「りんも小鉄も、納得せざるを得なかっただけだ! 親に言われちゃあ、呑み込むしかねだろうが!」  真白の怒声はびりびりと建具を震わせた。  鼻息荒く草履を脱ぎ捨てて畳に上がると、父親の胸倉を掴み上げる。 「てめえの酒と博打のために娘を売り、そのうえ倅の稼ぎまで奪おうたあ、女房に愛想を尽かされて当然だ」  落ち窪んで隈に縁取られた目を間近に睨み据え、唸るように言う真白の背後で、實親は袖で鼻を覆ったまま、じっと父親の肩にいる異形(いぎょう)を観察する。  そいつは艶のない浅黒い肌と、薄汚れてあちこちほつれた着物を申し訳程度に纏っていた。顔つきは父親とそっくりで、手足も体も骨と皮かと思うほど痩せ細っているが、腹だけは丸く膨れている。 『ああ、こいつはダメだな。不味そうだ』  真白を見て顔を顰める異形に、實親は目を眇めて問うた。 『なぜ、そう思う』 『大した欲がねえ。ほどほどでいい、って質だ。もっと儲けたいとか、あれが欲しいだとか、そういう欲が強くねえ』  顔を顰めて首を振る。 『ほう。ならば、今お前が取り憑いているその男は、よほど欲深かったのか』  袖で覆っているせいでややくぐもっていたものの、異形の耳には届いたようだった。  それは黒く塗り潰したような眼球の中、赤黒く発光する瞳だけをきょろりと動かして實親を見た。  にたり、と笑う。 『なんだ。あんた、こいつの守護かい。随分と雅な(なり)をしているな』  くく、と喉奥で笑って、異形は口の端を大きく引き上げた。  そいつが体を揺らして笑うたび、匂いは強くなる。 『賭場にこいつが現れた時、俺は跳び上がって喜んだね。何しろ勝負に対する執着が強い。勝つまでやらなきゃ気がすまねえ。こりゃあいい餌が来た、と取り憑いたのよ』  楽しげに歌うような抑揚をつけて語る異形から発される匂いは、いよいよ強くなる。どうやら気分の高揚に比例するらしい。 『お前がその欲を煽っているのではないのか』 『まあそりゃ、ちいっとはな。こういう人間は、煽れば煽っただけ欲を吐き出すもんだ』  引き上げた口の端を歪めて、ひひ、と笑う。 『その欲が、お前の糧か』 『ああ、そうだ。酒が呑みたい、金が欲しい、勝負に勝ちたい。人間ってのは欲にキリがねえからな。酒を呑めば博打をしたくなる。博打をすりゃ勝ちたくなる。勝てばもっと儲けたいと思う』  實親は目を眇めて異形を見据えた。 『欲には際限がない。無限に続いて行くというわけか。……命が尽きるまで』  ひひひ、と異形が肩を揺らして笑い、靄と匂いの密度が増す。『だが』と實親は扇を握り直した。 『――――― お前にその男の命を吸い上げられては困るのだ。このまま消えるならば見逃してやるが……』 『見逃してやる? おいおい、面白いことを言うじゃねえか。まるで俺を退治できるような言い方だなあ?』  おかしくて堪らないとでも言いたげにゲラゲラと笑う異形に、すう、と實親が目を細めた。 『できないと、なぜ言い切れる』  低く言いながら、鼻を覆う袖と交差するように扇を構え、ぱしん、と音を立てて器用に開く。途端、實親を取り巻く空気が変わった。  異形もその変化を感じ取り、不意に笑いを収めて頬を引き締める。きゅう、と黒い闇の深淵のような目を細めて、赤黒い瞳でじいっと實親を見据えた。 『お前……』  異形の言葉を待たず、實親は扇を打ち振った。  それは一見優雅に。  大きく薙ぐように横にひと振りしただけだったが、扇の軌跡を追うように生まれた風が、ごう、と音を立てて螺旋を描き、辺りを塗り潰そうとしていた異形の発する靄を絡め取る。まるで糸を巻くように靄を呑み込んで、天井を擦り抜けて消えていった。  匂いが無くなり、實親はほう、と息を吐いて袖を下ろす。 『これで集中できる』  口の端に挑発するような笑みを載せて異形を見やると、大きく見開いた目とかちあった。見開いた真っ黒な眼球の中に浮遊する、赤黒い光を発する瞳。事態を把握するとともに、その瞳の中をぐるりと炎のようなものが渦を巻いた。  怒り。 『おのれ……、俺の領域を荒らすとは、覚悟はできてるだろうな』 『覚悟? お前こそ、覚悟はできているのか』 『そんなもん、必要ねえ!』  金切り声で叫んで、異形はかっ、と口を開けた。  四角い歯が並んだ口は、まるで鮫のように大きく開き、明らかに閉じていたときと間口の大きさが違う。 『ほう、和邇(わに)のような口だな、些か品がない』  小さく笑って批評すると、實親はぱしん、と扇を閉じて構えた。  異形は大きく口を開けたまま、ぐん、と後ろに身体を反らせて息を吸い込む。ただでさえ丸い腹が、空気を取り込んでさらに膨れ上がった。  反り返った体を勢いよく戻すと同時に、開いた口から墨のような濁流を吐いた。
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