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辺りを覆って部屋を薄暗く見せていた靄が晴れたのを視界の隅に捉えながら、真白は掴んだ父親の胸倉を突き放し、ちら、と目だけでその肩に乗っている異形を見る。驚いたように目を見開いて實親を見返している様子を認めてから、目を父親に戻した。
「女房が出て行って、子供たちを見てやれるのはあんたしかいねえのに、何やってんだ。情けねえ」
吐き捨てるように言うと、父親はぎろりと充血した目を向けた。目の縁を染める隈のせいで、見得を切る歌舞伎役者のようだ。
「……てめえは、女房がいるのか」
「いや、いねえけど……」
濁っているくせに、ぎらぎらと魚の腹のように鈍い光を照り返している目が薄気味悪く、真白は知らず身を引きながら答える。
「独り身のてめえに何が分かる。仕事から帰ったら、影も形もねえんだぞ。子供だけ置いて行きやがって……くそっ」
顔を歪めて俯き、畳を拳で打つ父親を見つめて、真白は僅かに眉を寄せた。
「あんた、子供が可愛くねえのか」
「ああ? 可愛いとか可愛くないとか、そんなこと考えたこともねえ」
「……いてもいなくても同じってことか」
「まあ、そうだな」
肩を揺らして鼻で笑う。
「分からねえな。てめえの子供でも可愛くねえのか」
「だから、考えたこともねえって言ってんだろ。他所のことに首を突っ込んでくるたあ、てめえは余程の暇人なんだな」
揶揄するような口調にカチンと来たところで、父親の肩の異形が口から何かを吐き出すのが視界の端に映った。
「え?」
そちらを確認するより早く、異形の口から吐き出された黒く濁った水は父親を頭から呑み込んでしまう。
「な、なんでえ、こりゃあ……!」
思わず顔の前で両腕を交差させるが、墨のようなそれはまるで増水した川の濁流のように襲ってくる。到底防げるわけもない。呑まれる!と思った刹那。
實親がつい、と前に出てまっすぐに腕を伸ばし、閉じた扇をまっすぐに立てた。
襲ってくる濁流を見据える目が僅かに見開いたと思うと、扇を振り上げ下へと一閃した。
濁流は振り下ろした扇の先を避けるように二つに分かれ、實親と真白の両脇を勢いよく流れてゆく。
「お、おお……」
目を白黒させながら、真白は轟音を立てて流れてゆく濁流を右、左と忙しない動きで見る。部屋を満たした濁流は、壁のように真白と實親を避けて渦を巻き、異形はばくん、と口を閉じた。
周囲を流れる濁流の壁を眺め回してから目を戻すと、父親はすっかり濁流に呑まれて姿が見えず、あたかも異形がその水面にいるかのように佇んでいる。
『チッ、呑み込んでやろうと思ったのに……意外とやるじゃねえか』
忌々しそうに舌打ちを漏らして呟く異形の言葉を、涼しげな顔で受け流す實親の後ろで、ぎょっと目を剥く真白。
「おいおい、これ、呑まれちまったらどうなるんだ……?」
墨を混ぜたような濁った水は、どう見ても体に良いようには見えない。しかもあの異形が吐き出したものだ。呑み込まれてただで済むとは思えなかった。
真白の呟きを聞きつけたのか、前に立った實親は扇を異形に向けて構えたまま、真白にだけ聞こえるように囁く。
『真白、私が異形を引きつける間に、あの男をどうにかして引き上げろ。恐らく、このままでは、あやつにすべて呑み込まれてしまう』
「呑まれる……そりゃあ、死んじまうってことかい」
『端的に言うと、そうだ。あの男を動かしているのは欲だ。いつもであれば、あの異形が男の欲を煽り、それを啜っているが、今この場ではただ吸い上げるだけになる。そうなればいくら際限がないとはいえやがて枯渇する。煽るものがないのだからな』
「て、ことは……今あるだけの欲を吸い上げちまったら……」
『人としての思考能力を失くしてしまう。たとえ命があっても、意思のない人形と同じだ』
異形がゆらゆらと体を揺らし始めたのを注意深く見つめながら言う實親に、真白は顔を歪めて身を震わせた。
「……あんな餓鬼みてえな形して、そんなおっかねえのか」
それなら、早いところ父親を引き上げてやらなくては、と袖を肩まで捲り上げる。
『君が呑まれないように、気を付けろよ』
さらりと告げられた實親の忠告に、勢いよく突っ込んでいこうとした真白はたたらを踏んだ。
そうだった。考えなしに突っ込んでは自分も呑まれて終わり。
人を助けるつもりが自分も巻き添えで命を落とすなんて、いただけない。
真白は腰を低く落として様子を窺う。
それを肩越しにちらりと見やって、實親は口の端で微かに笑んだ。
ゆらゆらと揺れる異形の体が、まるで内側から焼かれるように赤く染まってゆく。赤から橙、黄色から白へと色を変え、眩いほどの光と熱を発し始めた。
いよいよ体全体が焼けた鉄のようになったところで、異形はその双眸をかっ、と見開いた。
同時にがぱりと口を大きく開く。
『カッ!』
裂帛の気合と共に吐き出されるのは、無数の火の玉。
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