桔梗 四

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 ぶわり、と膨れ上がった熱気が、未だ渦を巻いていた濁流を一瞬で蒸発させる。  實親は冴えた眼差しで異形を見つめ、刃を下段に構えた。 『どかねえなら、焼き尽くしてやる!』  ぼぼぼっ、と音を立てて、先ほどよりも一回り以上も大きな火の玉が異形の周囲に現れる。  異形がカッ、と気合の声を発すると、火の玉が一斉に實親に向かった。  無軌道に飛んでくるそれを、僅かな足の運びと肩を揺らすだけの動作で躱した實親は、同時に閃かせた刃で斬り捨てる。  動きに合わせて翻る黒い袍の袖と裾、閃く刃が照り返す炎。舞のようなそれに、異形は一瞬目を奪われ、次いで悔しげに地団駄を踏んだ。 『おのれ、まだまだ!』  癇癪を起こしたように甲高い声で叫び、異形はさらに体を燃え上がらせた。  異形から距離を取った真白は、父親の体を揺さぶる。 「おい! 起きろ!」  べちべちと遠慮なく頬を叩くが、ぴくりともしない。まさか死んでしまったのでは、と恐る恐る胸に耳を押し当ててみるが、心臓は確かに動いている。  それなら、と体を起こしてがくがくと揺さぶった。 「起きろって! 寝てる場合じゃねえんだよ!」  異形と實親の様子をちらちらと気にしながらも、めちゃくちゃに揺さぶるうちに、ごぼりと父親が墨のような水を吐き出した。  そのまま何度か咳き込むと、怪訝そうに辺りを見回す。 「おう、目が覚めたかい」  父親の目がはっとしたように真白を捉え、うんざりしたように眇められた。  だが、真白は構わずその胸倉を掴んで逃げられないようにその場に押さえつける。 「あんたはもううんざりだろうが、今は四の五の言ってる暇はねえ。いいか、耳の穴かっぽじってよーく聴きやがれ!」  反論する余地を与えないとばかりに、真白は口早に捲し立てた。 「俺には、女房も子供もいねえ。だから、てめえの子供を可愛いと思えねえ気持ちも分からねえ。子供ってのは、無条件に守られるもんだって思ってたからな。だが、世の中ってのは広い。あんたみてえな人もいるだろう。だからもうそこは言わねえ」  眉を寄せて鬱陶しそうな顔で見返している父親と、ぐっ、と力を込めて目を合わせる。 「あんたにとっては、いてもいなくても大して変わりゃしねえかもしれねえが、小鉄やりんにとっては、あんたはたった一人の父親だ。……小鉄が言ってたよ。あんたのこと、腕のいい大工だって」  噛み締めるように告げたそれに、父親は眉間に刻んでいた皺を緩めて、その目を微かに見開いた。 「今だって、きっとそう思ってる。俺が聞いたのはつい先達てのことだからな。なあ、あんた。小鉄のことが可愛いと思えねえってんなら、弟子だと思ったらどうだい」 「弟子……?」 「おうよ。あんたのことを腕のいい大工だって言ったときの小鉄は、そりゃあ誇らしげな顔だった。普段は触らせてくれない仕事道具を取りに行けと言われたときは、認められたんだと嬉しかったと目を輝かせてた。あんたに憧れてるのが、よく分かったよ」 「俺に、憧れてる……?」 「子供として可愛がることはできねえなら、弟子として。あんたが持てる技のすべてを、小鉄に教えてやってくんねえか」  噛んで含めるような口調でどこか必死に訴える真白を、父親は不思議そうに見返した。 「なんで、他所の事にそんなに必死になれるんだ。てめえには関係のねえことだろうが。小鉄のことも、りんのことも」 「確かに、俺はまったくの他人だ。でもな、袖振り合うも他生の縁って言うじゃねえか。俺が小鉄と出会ったのも、何かしらの意味があるに違いねえ。それだけじゃ理由にならねえか」  父親は、は、と呆れたような息を吐き、口の端に皮肉気な笑みを浮かべた。 「とんだお人好しもいたもんだ。それとも、何か得でもあるのか」 「得? そんなものはねえよ。当たり前じゃねえか」  何を分かり切ったことを、と言いたげに片眉を跳ね上げる真白に、父親は吹き出すように笑って乱れ落ちた髪を撫でつけた。 「――――― 思い出した。俺も棟梁に憧れて大工になったんだった」  髪を撫でつけた手のひらを、懐かしむように見つめて呟く。ふん、と鼻を鳴らして手を握り込み、「分かった」と頷いた。 「俺も腕を錆びつかせるのはやぶさかじゃねえ。弟子としてなら、やってみてもいい」  真白は目を瞠って父親を見返し、数瞬の間の後に喜色満面の笑みになった。 「そうか、そうかい! 小鉄のことをよろしく頼む!」  力任せに父親の肩を叩きながら言って、「あ、俺の子じゃねえけどな」とおどけて笑う。  父親は「痛えよ」と顔を顰めながらも、つられるように笑った。  晴れやかなその顔に、真白はちら、と目だけで異形を見やる。すると、何やら様子がおかしい。思わずそのまま凝視する。 『な、なんだ……力が流れてこねえ……! 俺の糧が……! 』  眩しいくらいに光を発していた異形の体が、じんわりと鉄が冷めてゆくように色を変えてゆく。自身を見回していた異形は、弾かれたように真白と父親の方へと目を向けた。  ばっちりと目が合い、真白は「げ」と声を漏らす。  父親が不思議そうに「なんだ、どうした」と訊ねるも、真白の耳に届いたのは異形の怒りを孕んだ低い声。 『おのれ、そいつに何をした……! 』 「うわ……! 」  怒りを燃え上がらせた目を向けられて、真白は引き攣った声を漏らして後退りする。 「おおおおお公家さん!」 「は?」  思わず叫んだそれに、父親が思い切り眉を顰めるが構っていられない。真白は異形から目を離すことができないまま、「早く早く!」と實親を急かした。 『まったく、君は騒々しいな』  呆れたような溜息と共に、實親は滑るように一歩踏み出して異形と距離を詰める。はっとして目を戻した異形が、大きく口を開いて真っ赤に滾る火の玉を作り出すのと、實親が上段に構えるのが同時。火の玉が放たれようとした刹那、刃は異形を袈裟懸けに一閃した。  異形の断末魔の叫びが辺りを揺るがし、びりびりと建具を震わせる。  これにはさすがに父親も目を丸くして見回した。 「なんだなんだ、地震か?」  天を仰いで叫びを上げた異形の体は、めらっと自身の炎に焼かれて灰も残さずに燃え尽きてしまう。  實親が姿勢を戻して刃を鞘に納めると、腰に佩いた刀はすうっと、こちらも消えてしまった。
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