桔梗 五

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 その日、蔦は大きな風呂敷包みを背負ってやって来た。 「綺麗に仕上がったよ」  弾んだ声で言いながら風呂敷包みを解くと、現れたのは腰巻の山。  最初にりんを探しに吉原に行った際、野田屋の呼び込みの男が教えてくれた朝倉楼で買い入れたものだった。どうやら悪質な買い取り屋に買い叩かれそうになって以来、なかなか買い手を見極めきれず、溜まりに溜まっていたらしい。野田屋の紹介だと言って相応の値段を提示すれば快く売ってくれた上に、これから贔屓にしてくれると約束までしてくれた。  染色は職人に頼むより自分でやった方が安くつく、と蔦が持って帰っていたのだが、それが染め上がったらしい。 真白はひとつ取り上げて矯めつ眇めつしてから頷く。 「へえ、上手いこと染まったな。さすがお蔦、器用なもんだ」 「ふふ、そうだろ」  得意げに胸を張った蔦と二人で、店先に床几を置き、そこに腰巻を並べる。 「吉原の腰巻! 新品同様だよ、おひとつどうだい!」  通りを行く人々に、真白が威勢のいい声を投げる。  すると、数人の女が興味を惹かれたようにやってきた。 「吉原の腰巻ですって。綺麗な緋色ねえ」 「あら本当、新品みたい。どこも傷んでないわ」  口々に言いながら手に取る彼女たちのおかげで、それ以上真白が呼ばわることをせずとも、お客は次から次へとやってきた。  これは好機とばかりに、真白と蔦は奥から着物も持ち出してきて、店先に吊り下げてゆく。  腰巻からそちらへと目を向ける客もいて、昼を過ぎる頃まで客足が途絶えることはなかった。  山ほどあった腰巻が売り切れとなり、表に出した着物も粗方なくなると、やっと客もまばらになり、蔦と真白は休憩をしようかと店先に出したものを片付け始める。  そこへ、實親が声をかけた。 『真白』  次いで、閉じた扇でつい、と一方を指し示す。  實親を見やってからその扇の先を追うと、小鉄がどこかへ向かうところだった。  両腕で抱えているのは、大工道具の入った箱。  小鉄の数歩先を行くのは、すっかり小綺麗になった父親の姿。髪の乱れもなく、紺の股引きと腰切り半纏に豆絞りの三尺帯を締めた、いなせな出で立ち。背筋を伸ばして大股で歩く様子は、なるほど腕のいい大工に見える。  その後を小走りに追う小鉄が、視線に気付いたのかふと振り向いた。  真白を見つけて弾けるような笑顔を見せ、大きく片手を振って道具箱を落としそうになり、慌てて抱え直す。  眉尻を下げて笑った真白は、「いいから行け」と手振りで示した。  小鉄はもう一度だけ手を振って、父親を追って駆け出す。  その顏はひどく嬉しそうで、輝いていた。 『いい職人になりそうだ』  實親が扇を口元に当てて微笑む。それに真白が大きく頷いて同調した。 「日本一の職人になるさ」  遠く人の中に紛れてゆく師弟の姿を見送って、真白はふと浮かんだ疑問を實親に投げかける。 「そういや、お公家さんの妹さんは、結局皇后様になったのかい」  すると、ちらりと目を向けた實親は、すぐに兄妹へと目を戻し、口の端で小さく笑んだ。 『皇后にはならなかったけれどね、天寿をまっとうしたよ。穏やかな最期だった』  そう語る實親の横顔の方がよほど穏やかだ、と胸中で呟いて、真白も微笑んだ。 「そうかい。そんなら良かった」  天は高く澄み、今日も穏やかに過ぎてゆく。  腰巻は全部売れたし、着物もいつもと同じかそれ以上売れた。商売繁盛、万々歳。  晴れ渡った空を見上げる真白に、蔦が暖簾を跳ね上げて声をかける。 「真白、お茶が入ったよ。休憩にしよう」  応じて暖簾を潜りながら、何の気なしに先を行く蔦の背中に目を留めた。  小鉄の父親を濁流の中から引き上げようとした時、及び腰になった真白を叱咤し背中を押してくれたのは、彼女だった。  実際に蔦がその場で何をしたわけでもないが、それだけ自分の心の中に彼女が当たり前のように棲んでいるのだと改めて思い知った。  真白は首の後ろを擦って、口をもごもごさせながら言葉を探す。 「あの、お蔦、そのなんだ……」  呼ばれて振り返った蔦が、口ごもる真白を怪訝そうに見返した。 「何、どうしたの」 「いや、その……いつもお前がいてくれて助かってる。ありがとよ」  しどろもどろになりながら、結局出てきたのはそんな言葉で。  蔦は怪訝な面持ちのまま真白を見つめ、たっぷりと間を置いてから「は?」と訊き返した。 「何だってんだい、突然。熱でもあるんじゃないのかい」  若干薄気味悪そうに言って、蔦が額に手を伸ばそうとするのを、真白は慌てて止める。 「熱なんかねえよ! ただ日頃の感謝をだな」 「ああ、そうかい。じゃあ、休憩の後もちゃあんと商売に励んでおくれよ」  いつものように憎まれ口を叩いてさっさと踵を返した蔦が、台所へ向かう際小さな声で零した呟きは、小上がりに座していた實親だけが聞いていた。 「――――― まったく、突然びっくりするじゃないか」  目の前を通ってゆく蔦の頬と耳が少し赤く染まっているのを認めて、實親は小さく含み笑う。 『真白はもう少し雰囲気というものを学んだ方がいいようだ。 ――――― だが……蔦の君がここに住まうことになる日も、そう遠くないかもしれないな』  楽しげに呟いて、實親は優雅に扇を揺らした。
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