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迎えてくれたのは桔梗が小さなころからついてくれている女房だった。夏に彼女が好んで着ている襲の色目から、桔梗は「若苗」と呼び、姉のように慕っている。入内の際には父は他に三人付けようとしたのだが、桔梗が彼女だけでいいと頑として譲らなかった。
御簾越しに若苗が声をかける。
「姫様、實親様がお見えですよ」
その声に反応してか、かたん、と何か軽いものが落ちる音の後に御簾が跳ね上がり、腕の中に小柄な影が飛び込んできた。
「お兄様、ここはいや。帰りたい」
滅多に泣いたことのない妹が声を震わせて頼りなく訴えてくるのに、實親は面食らう。
「桔梗、一体どうしたというのだ。まずは顔を見せておくれ」
宥めるように優しく言えば、桔梗は怯えた様子で顔を上げた。
青褪め、すっかりやつれた妹の様子に驚いて、言葉を失う。
一度は顔を上げた桔梗だったが、また實親の袍に顔を埋めてぎゅうぎゅうとしがみついてくる。
訳が分からず實親は若苗を見た。
彼女は困ったように眉尻を下げて、思案するように目を伏せる。
それからそっと桔梗の背中に手を添えて訊ねた。
「姫様、私からお話してもよろしいですか」
桔梗は顔を上げないまま頷く。それに頷きを返して、若苗は實親に向き直った。
ちらりと目で辺りを窺い、僅かに身を乗り出して口を開く。
潜めた声で告げられたのは。
「――――― 誰かが呪詛を飛ばしているようなのでございます」
實親は目を大きく瞠って若苗を見返した。
「……呪詛、だと」
彼女は神妙な顔で頷いて気遣うように桔梗の背中を見やり、實親に目を戻す。
「……ほんの三日ほど前の夜のことです。姫様は几帳の向こうでお休みになられていたのですが……」
誰もが寝静まった真夜中。
桔梗は胸の辺りが重苦しくて目を覚ました。
薄く目を開けると、闇に慣れた目にぼんやりと天井が見える。
胸を擦ろうと手を上げて、目だけを胸元へ向けると。
黒い、人影が。
「――――― ひ、」
大きく目を見開いて、悲鳴を上げようとするも、喉が詰まったように声は出なかった。
顔は闇に溶けて分からない。着ている着物の柄も色も分からない。
ただ、長く美しい黒髪が肩を滑り落ちて床に広がっている。
内裏に住む女たちはみな髪が長いのだから、手がかりにはならない。
「だ、誰……」
普段の勇ましさもどこへやら。辛うじて絞り出した声は掠れて頼りなく、酷く小さかった。
その人影が、手を伸ばしてくる。
ゆっくりと。
桔梗はひゅう、と息を詰めて反射的に身を翻した。
もとより身軽な姫だ。几帳の向こうには若苗が寝ている。彼女に助けを求めようと上に掛けていた衾から抜け出そうとしたところで、その人影に腰に取りつかれ、体勢を崩した桔梗は床に這う形になった。
それでも几帳に手を伸ばそうとする桔梗の首に、後ろから細い指が絡む。
「きゃ……!」
さすがに上げかけた悲鳴も、ぐっ、と首を締め上げられて留まった。
絡む指を解こうとするが、自分の首を引っ掻くだけで首を絞めているはずの手に触れることができない。
背筋を冷たいものが駆け上がり、桔梗はいよいよ恐怖が頂点に達して必死に畳を這い、手を伸ばす。指先が几帳に触れた。手繰り寄せるようにして掴み、思い切り払うと同時に勢いがつきすぎたのか、畳についていた手が滑って帳台から落ちる。
がくん、と傾いて落ちる上半身。それには人影も不意を突かれたのか、驚いたように離れる。桔梗の体はそのまま床に音を立てて落ちた。
反射的に大きく息を吸い込んでしまい、さっきまで塞がれていた喉を刺激して咳き込む。物音に跳び起きた若苗が、慌てて桔梗の側に駆け寄った。
「姫様! どうなさいました、大丈夫ですか!」
背中を擦って問うも、当の桔梗は一度刺激された喉は治まらず、大丈夫、という代わりに咳き込みながら頷く。
「今、お水を」
離れていこうとする若苗の袖を咄嗟に掴み、「行かないで」と首を振る。
「姫様?」
結局その夜は若苗にしがみついて朝を迎えた。
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