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その話に眉を寄せた實親は、同じく潜めた声で訊ねる。
「お前は見たのか。その、……人影を」
若苗は申し訳なさそうに首を振り、さらに声を低めた。
「いいえ。でも、姫様の首に、くっきりと指の痕が」
實親が目を瞠って若苗を見ると、彼女は真摯な眼差しで見返し、一つ頷いた。
腰に回る細い腕が更に力を増して抱きついてくるのに気付いて、實親は妹のつむじを見下ろす。
「そうだったのか……それは恐ろしかったことだろう」
「お兄様。お願い、私を連れて帰って」
「桔梗……すまないが、それはできない」
弾かれたように顔を上げた桔梗の顔は胸が痛くなるほど悲痛なもので、声にならない「どうして」の問いが聞こえてくるようだった。
「お前は将来、春宮の妻となる身だ。入内を済ませた以上、勝手な真似は許されないのだよ」
桔梗の顔がくしゃりと歪み、あっという間に涙が決壊する。
ほろほろと落ちる涙に、實親は困ったように眉尻を下げた。
「ああ、泣かないでおくれ、桔梗」
子供のようにしゃくり上げて泣く妹の背を撫でて宥めながら、若苗に目を戻し訊ねる。
「その人影はそれ以降も現れているのか」
若苗は吸い込んだ息を呑み込むように口を噤み、目を伏せる。
それから、こくり、と一つ頷いた。
「――――― 毎夜、姫様の寝所に現れるそうです」
「やはりお前には見えないのだな」
「はい。……ですが、首の痕のこともありますし、嘘や気のせいなどとは思えません。姫様がすっかり怯えてしまわれて……お食事も喉を通らず、お可哀想で」
声を詰まらせた若苗は、袂をそっと目元に当てて滲んだ涙を拭う。
現天皇に嫡子は春宮一人。
いずれ天皇となり、政に携わるようになる。
すでに争いは始まっているということか。
入内している女御はいずれも桔梗と年の変わらない者ばかり。やっと大人の仲間入りをした姫たちが、いくら皇后の座を射止めるためとはいえ、自分以外の誰かを呪ってまで蹴落とそうなどと考えるだろうか。
中にはいるかもしれない。
だが、恐らくは。
「……女房か、それとも、家の誰かによるものか」
實親の呟きに、若苗が表情を引き締める。
「元々、幽霊騒ぎはあったようでございます」
内緒話をするように口元に袂を添えて囁く。實親は目を鋭くして問い返した。
「まことか」
「はい。姫様が入内したその日に、他の女房たちに言われたのです。幽霊が出るからお気を付けなさい、と」
「幽霊……。どのような障りがあると?」
「大抵は此度の姫様と同じように、寝所に現れるそうです」
「現れて、やはり襲うのか」
「いえ、それが、首を絞められたのは姫様だけで……。他の女御たちは驚いて悲鳴を上げると消えた、と。そんな話ばかりでございました」
神妙な顔つきで話す女房に、實親は眉を寄せる。
「桔梗だけ……? 何か気に障ることでもあったのか……?」
相変わらずしがみついている妹の背中を、落ち着くように撫でてやりながら呟くと、若苗が窺うように身を乗り出した。
「……あの、實親様。実は……最初に女が現れたその日の昼間に春宮がお越しになったのでございます」
「春宮が? ここに?」
「はい。……姫様のお転婆ぶりがどこかからお耳に入ったらしく、興味をお示しになられたと……」
「お転婆ぶり……」
微かな眩暈を覚えてそっと額を抑えると、恐る恐るといった様子でそろりと目を上げる桔梗と目が合った。
しばし決まりが悪そうに見上げてくる妹を見つめて、ふと眉尻を下げて微笑む。
「桔梗、春宮とお会いしてどうだった」
柔らかい声で訊ねると、妹は目を瞬かせてからやっと頬を緩めた。
「とても楽しい方よ。今度蹴鞠を教えてくださると約束をしたわ」
「蹴鞠……そうか、相変わらずだな、桔梗は」
思わず苦笑を漏らして、實親は妹の黒髪を梳くように撫でる。二人の様子を見ていた若苗が安心したように顔を綻ばせた。
「良かったですわ、姫様。實親様が来てくださって。ここ最近はずっと笑顔が見られませんでしたから、心配していたのですよ」
「ごめんなさい。夜は怖くて……。ねえ、お兄様。今夜はここに泊まってくださらない?」
他でもない可愛い妹の頼み。側に控えた若苗もその顔に期待を滲ませている。
二人の顔を見比べて、實親はそっと息を吐いて頷いた。
「分かった。今夜だけだよ」
「ありがとう、お兄様!」
再び實親の袍に顔を埋める妹の背を軽くぽんぽん、と叩いて、若苗に目をやる。
「明日、知り合いの陰陽師に相談してみよう。できるだけ早くここに術を施してもらうか……何か対策を立ててもらうように」
若苗はややほっとしたような顔で頷き、深く頭を下げた。
「よろしくお願いいたします、實親様」
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