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桔梗 五
紅堂に戻ると、蔦と並んで小上がりに腰を下ろしていた小鉄が、弾かれたように立ち上がった。
「おっとうは?」
不安そうに訊ねてくるのに、真白は微笑んでその頭を撫でてやる。
「もう大丈夫だ」
その一言では納得がいかないという顔をしている小鉄の前に、真白は膝を折ってしゃがみ込み、目線を合わせた。
「なあ、小鉄。お前さん、本当は棒手振りじゃなく、大工になりたいんじゃねえのか」
すると、小鉄は大きく目を瞠って真白を見返し、「なんで」と呟く。真白は「ははっ」と笑って続けた。
「帰ったら、お父っつあんに『仕事を教えてくれ』って頼んでみな」
「でも……」
「ダメで元々、当たって砕けろだ」
真白の言葉に、小鉄はぱちぱちと目を瞬かせた後、唇を引き結んで頷いた。
「よし、りんのところに行くか」
「うん!」
雲一つない青い空の下、小鉄と梅千代が団子を片手に笑っている。
他愛のない話をして笑い合う兄妹を見守る真白に、實親が訊ねた。
『蔦の君が小鉄をここに連れてくることはできないのか』
「ああ……。ここはな、男は出入り自由だが、女の出入りには厳しいんだ」
『なぜ』
「出入りする女に紛れて、遊女が足抜けしたら困るからさ」
『足抜け?』
「脱走するってことだよ。吉原はぐるりと深い溝がある。お歯黒どぶ、ってんだが、あれも簡単に遊女が抜け出せないように作られてんだ」
『……牢獄のようだな』
「そう。まさに牢獄。男にとっては華やかな別世界。だが、女たちにとっては逃げることも敵わねえ苦界。――――― そのうち、あの二人も世間を知って、この吉原の現実を目の当たりにすることになる。特に、りん……梅千代は今以上の覚悟を迫られる日が来る」
『見世にいれば、そうなるだろうな』
真白は団子のなくなった串を噛んで頷いた。
「十五になったら、見世に出される。楼主に気に入られてるようだから、張見世には出さずに、楼主の信頼のおける上客を宛がわれるだろう。それが、幸か不幸かは分からねえが」
實親は真白の横顔から、兄妹へと目をやった。
陽射しの下で笑う小鉄と梅千代。
彼らの笑顔が嘘なわけではない。だが、先を思えば不安を感じることもあるだろう。
梅千代の笑顔に、桔梗の笑みが重なった。
『――――― 誰もが、憂いなく笑える世が来ればいいな』
ぽつりと零れた實親の呟きに、真白はふと彼に目を向ける。それから、目元を和らげて頷き、「そうだな」と兄妹に目を戻した。
それからしばらくして、見世へと戻ってゆく梅千代を見送ってから、小鉄が振り返った。
「真白、これ、りんから」
「ん?」
握った手を差し出してくるのに、つられるように手を出すと、ぽとん、とそこに何かが落ちてきた。
手の平に乗ったそれは、深い青に白い小花があしらわれた大粒のとんぼ玉。
「どうしたんだ、これ」
「俺と会わせてくれたお礼だって」
そう言う小鉄を複雑な顔で見返し、手の平に目を戻す。
見世で最低限の衣食住は賄われるが、梅千代の自由になるものなどないはずだった。
このとんぼ玉ひとつとはいえ、簡単に手に入れられるものではないはずだ。
ここで「これは受け取れない」と返すことは容易だが、それはこのうえなく野暮に思えた。
何も訊かず受け取っておくのが、粋ってもんだ。
真白はそのとんぼ玉を握り込んで、小鉄に笑みを向けた。
「じゃあ、遠慮なく貰っておくぜ。りんにもよろしく言っておいてくれ」
満面の笑みで頷く小鉄に、真白も歯を見せて笑った。
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