6.***名無***

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6.***名無***

 朝から屋敷は騒々しかった。子供が増えると騒がしくなるとは聞いたが、藍人(あいと)が大人びていたので安心していた。それを裏切る賑やかさだ。  寝不足と軽い二日酔いで縁側に伸びている真桜の前後を、白い狐の子と白い子供が追いかけっこしている。ばたばたと板の間を蹴って走る音も、子供特有の甲高い声も、今までの真桜に縁薄いものだった。膝枕したアカリは目を閉じて動こうとしない。 『藍人、食事を先になさいませ。そちらの子狐は何を食べさせてよいのかしら』  母親のように藍人の面倒を見る藤姫は、昨夜のうちに増えた子狐に困惑の表情を浮かべた。元は帝の血を引く姫君である。当然、野生動物である狐の食事など知るわけがない。それは式神である華守流(かるら)華炎(かえい)も同じだった。 『真桜、狐には何を与えればいい』 「さあ?」  母狐は何も言わずに消えたので、何を食べさせていいのかわからない。数日分の食料も置いて行ってくれたらよかったのだが……。怠さと頭痛に悩まされながら身を起こし、走り抜ける子狐の尻尾を掴まえた。 「きゅーっ!!」  じたばた暴れて逃れようとする子狐を胡坐をかいた膝の上に乗せ、掴んだ尻尾を何度か撫でてやる。落ち着いた子狐の両脇に手を入れて持ち上げた。目線を合わせると、綺麗な青い瞳が瞬きする。 「うん、とりあえず人形(ひとがた)を取らせるのが先か」  人間の形を取らせることができれば、食事や名前を聞くこともできる。獣のままでは意思の疎通が(まま)ならない。真桜は子狐を膝の上に戻し、右手の指を八重歯で噛み切った。滲んだ血で素早く狐の尾に字を描き、背中にも記号をいくつか記す。 ≪血は知となり、智となって血に還る≫  白い毛皮を汚した赤い血は吸い込まれるように消え、続いて膝の上の重さが増した。幼子が俯せに膝の上に乗っている。心得たように華炎が差し出した布を手早く巻き付けると、膝の上に座らせた。  まだ7歳前後だろうか。思っていたより子供だった。藍人と同じ年齢ぐらいだと推定していたが、人形を纏えない年齢だと考えると当然なのかも知れない。母親そっくりの白い肌に黒い髪、しかし目の色だけが違う。  母親である求未(きゅうみ)は赤い瞳、子狐は青い瞳だった。それが人形を纏わせたら、紫色に陰ったのだ。真桜の血の影響かも知れない。 「話せるか?」  血の滲んだ指先をぺろりと舐めた真桜の問いかけに、子狐は少し首を傾げたあとで「あ~、う~」と声を確かめていた。 「うん」  落ち着いたのか、にっこり笑って頷いた。可愛いと頬を緩める藤姫の隣で、藍人が弟が出来たと喜んでいる。この2人に世話を任せて問題なさそうだと判断しながら、真桜はひとつ欠伸をした。 「名前は?」 「ない」 「ん??」  いま奇妙な答えが返ってきたと、真桜は欠伸をやめて子供の顔を覗き込む。アカリはくすくす笑い出した。まさか言葉が通じても話が通じない事例があるとは、考えが及ばなかった真桜が「うーん」と唸る。 「求未……母親になんと呼ばれていた?」  名前という単語が理解できていないと判断した真桜の問いに、子狐だった子供は「吾子(あこ)」と返す。どうやら母狐は名前を付けずに過ごしてきたらしい。それが怠慢なのか、別の理由があるのか判断できず、真桜は頭を抱えた。  吾子とは子供に親しみを込めて呼びかける名称だが、固有名詞ではない。妖狐である九尾に『求未』の固有名があるように、子狐にも名が必要だった。単に呼びかける対象として以上の役目があるのだ。  名前はそのモノの本質を表す――つまり名前に存在を縛られる。名前のない妖は存在が不確定なため、この世に留まる力が弱く、容易に他者に害される可能性があった。求未も当然知っているはずだが、彼女は息子に名を授けていない。 「勝手につけていいのかな」 「構わぬであろう。真桜の配下にしても良いと申したほどだ」  アカリはまだ笑いながら、昨夜の母狐の言葉を引用してきた。確かにそんな話をしたなと思い出しながら、膝の上で両手を珍しそうに眺めている子供の黒髪を撫でる。  自分の手足が変化(へんげ)したのが興味深いのだろう。足や背中にぺたぺた触れて、後ろを振り返ろうとして失敗する。狐の時は背中にも容易に舌が届いたが、人の身体でそれはできない。興奮しながら出来ることと出来ないことを確かめる幼子を見ながら、真桜はぼそっと呟いた。 「名づけの儀式でも、するか」
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