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 都会の空気が肺に溜まる。中から私が腐っていく。  フロリダ州マイアミ。地名しか知らないその場所から、男はやってきた。それを片手に現れた生え際の白髪が目立つ初老の男は、私を見てもっとパンパンみたいな奴が良かったと言った。  私が受け取ったのは首の据わっていない静かに眠っている赤子だった。赤子を受け取った私は首を傾げて、その言葉の意味を問うたが男はそうかぁ、もういないのかぁ、と焦点の定まっていない茶色く濁った目を空港の高い天井に向けて呟いただけだった。  パンパンとはなんだろうか、私は考えたが見当もつかなかった。男がパンパンみたいな奴だと安心できたんだけどなぁ、とぼそぼそ言っているのに腹が立ったが、ここで無駄な時間を過ごすと、厄介なことになるだけだから、押し黙って相手の次の行動を待つ。 「気持ち悪いとか、怖いとか、ないの」 「その気持ちがあるなら、このシゴトはしないです」  男は唇を持ち上げて、笑った。会話もろくに成立せず、なにを考えているか分からない男が初めて見せた明確な表情だった。  私はプチプラの化粧下地で固めた顔面にBBクリームをべったりと顔に塗り付け、オークル色のファンデーションで頬を強く打っていた。唇には赤い口紅を広げ、瞼には薄くアイラインを引いている。  鼻頭に浮かんだ汗の玉を指の腹で拭うと肌色のクリームが指紋の隙間に入り込んでいた。  赤子を抱きかかえていても注目されないよう、私は丸い輪郭を化粧で尖らせ、クリームは濃い物を選んでマスカラやつけ睫毛は使わないようにした。  今朝、部屋で化粧をした私が鏡の前に立つと、実年齢よりも老いて見える自分がいた。しばらくしたら化粧がはがれて豊麗線がより浮き出てくれば更に老けて見えるだろう。  空港の片隅で、私は受け取った赤子を覆う白い布を解いた。腕時計と搭乗券を見比べながら早歩きをして通り過ぎたサラリーマンの黒いキャリーバックが、私の扁平足の足の指先に乗った。窓から差し込んでくる夏の太陽の熱が、痛みをかき消す。  布を解いていると暑さと自分が抱いているそれへの緊張感から汗が噴き出し、額に玉をいくつも浮かべた。自分だけが見えるように覗き込む。黒人だった。肌は黒く、うっすらと生えた髪の毛は短く縮れていた。鼻は平に広がっていて、唇は分厚く突き出ていた。布の間から石けんの芳香剤の匂いと防腐剤の匂いが漂ってきて、その後にゆっくりと脳を溶かしていく甘ったるい匂いがしてきた。赤ちゃんは甘い匂いがすると言うが、これはその赤ちゃん特有の生の匂いではないと思った。私は思わず顔を顰めて、その匂いを布で一旦遮断した。  覚悟はしていたが、やはり、堪えた。  男はもう片方の手で引きずってきたキャリーバックを、震える指先で開いて、中を物色しつつ咳き込みながらもなんとか言葉を紡いだ。 「新鮮、新鮮だからな。早々、腐ることはないよ。でも、この暑さだからな、どうだかな」 「腐る前に、さっさと終わらせますよ。……この子ごと、渡せばいいの」  男はキャリーバックから視線を外し、ゆっくりと顔を上げて私の方を見ると頷いた。彼の瞳はこちらを向いておらず、右目は左を、左目は上を見ていた。男は追加の防腐剤を手渡してくる。私はそれを受け取って、肩に引っ掛けていたトートバックにねじ込んだ。  金属部分が錆びている腕時計をかいま見ると、男は頼んだ、と一言だけ言って私に背を向けた。それだけですか、仕事マンですね、私は心中でそう呟いて赤子の身体を布の上からまさぐり、腹のあたりの長方形の堅い感触を探り当てると再び搭乗口に向かって行く男を見送った。
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