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第11話 契約
翌朝は足に力が入らなくて、所長の言葉に甘えて昼出勤した。甲斐谷はもちろん朝から出ていたが、僕と目が合うと心配そうな目線をよこしつつも、近寄っては来なかった。
勤務して早2週間。事あるごとに僕に話しかけてきた甲斐谷がピタリと距離を置くようになると、普段から言葉を話さない犬を相手に仕事している先輩達は敏感で。
「甲斐谷と喧嘩でもしたんか?」
いつも厳しい柏木先輩を心配させてしまった。
どんよりと曇る昼下がりのグランドで、タービュレンのハヤテを散歩させながらの会話。犬は15分程度しか集中が続かないので、無理に続けず、間に散歩を挟んで気分転換させる。
「喧嘩…でもないですが、プライベートに口出しされたので、ちょっと怒りました」
歩きながら苦笑いで答える。本当は[口出し]どころか[手出し]され[ちょっと]怒った程度ではない。が、柏木先輩はすぐに僕の肩を持った。
「あー、そら甲斐谷が悪いわな。アイツ、お節介そうやからなぁ。でも仕事に支障きたすなよ」
「…はい」
そこに外出から帰って来た所長が、グランド横を通りかかった。所長は訓練にも付き合うが、主に接客や営業をしている。僕達が犬に対応しているのに対し、所長は人間に対応していることが多い。普段あまり姿を見ないので、見つけた時に文句を言っておかないと、取り逃がすとまた何をされるか分からない。
「柏木先輩、ちょっと所長に話があるので行ってきます。所長!」
僕が柵越に走り寄ると、所長は足を止め、僕の方へ身体を向けた。
「どうした、誠? 昨日は疲れたやろ、身体は大丈夫か?」
気遣う言葉をかけてはくれるが、このオッサンは信用出来ない。柏木先輩が見ている前でおかしな行動はしないだろうが、言葉の罠などが無いか最大限警戒した。
「所長、昨日のアレは何ですか⁈ 巻き込まないでとお願いしたのに!」
少し離れた所でハヤテの訓練をしている柏木先輩には聞こえない程度に、強い口調で抗議した。
「なんや気に入らんかったんか? その割には可愛い声でよがりまくってたで。こんなオッサンに抱かれるばかりやと可哀想やと思ってサプライズしたったんや。やっぱり好きな男に抱かれるのは違うやろ? どうやった、甲斐谷は? ん?」
子供のように目をキラキラさせて話す所長。心から今の状況を楽しんでいるようだ。完全にイカれてる。
「……所長のが…いいです」
選択肢は無い。甲斐谷の方が良いなんて言った日には、何をされるか想像も及ばない。ここは所長を立てておいた方がマシだ。
「そうかぁ、誠は可愛いな。今すぐ可愛がったりたくなる。でも昨日の今日で疲れてるやろうから、今日は我慢や。訓練士は身体が資本やからな、無理したらあかん。せやな…ワシの相手は基本3日に1回でかめへん。あれやったら、間に甲斐谷とやってもかまへんで」
ニコニコと嬉しそうに話す所長を見ていると目眩がする。話が常識から逸脱していて、ちょっと何を言ってるのか分からない。
3日に1回所長の相手をしながら、甲斐谷と関係を続けても構わないと言う意味か。バカな…そんな、これ以上弱みを作るような事誰がするか。
「所長だけがいい…です」
恐らくは想定内。僕に選択肢は無く、そう答えるしかないのも、全て熟慮した上で遊んでいるのだ。猫が鼠をいたぶるように。
「じゃあ、しばらくしっかり休んで、明後日の夜にまた所長室に来なさい。大丈夫、ワシは優しいで。誠の事は可愛いて大好きやからな、無理はさせたくないんや」
優しい? 何をどう解釈すればそうなるんだ。肉体的には大した負担になっていなくても、心は絶望を強いられている。
所長はポンポンと軽く僕の肩を叩くと、母屋の方へ姿を消した。
明後日…それまでは平穏に過ごせる。
ハヤテの訓練に戻らなくては。
顔を上げて柏木先輩を探すと、先輩とハヤテの横に甲斐谷が居た。
ドクン…
心臓が絞まる。所長と話しているところを見られた。複雑な、何か言いたげな表情の甲斐谷。
甲斐谷にあんな顔をさせているのは僕か…。
無関係で居て欲しかった。せめて…せめて、これからは。
雲の隙間から覗く太陽が、少し角度を付けて降りて来た午後。春の生温い風に髪を乱される中、柏木先輩と甲斐谷の元へ戻った。
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