第15話 紅い印

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第15話 紅い印

 翌日、外から犬の声が聞こえて来る中、静かな自室で目が覚めた。浴室から帰って来て、汚れた服を全部脱いで寝たから素っ裸だ。  そっと尻の穴を触ると、少しヒリついたが、薬を塗ってもらったからか、かなり回復していた。夜までには痛みは消えるかな…はぁ。  丸い目覚まし時計を見ると12時半。気だるい身体を起こし、壁にもたれる。自分の身体の見える範囲に、紅い桜の花弁のような鬱血痕が満遍なく散らされていた。昨日の甲斐谷は僕の妄想じゃなかったのか。 647e4b7a-7cec-415b-a719-fddcf6ed16c0  服で隠れない所に付けてないだろうな…  ノロノロと立ち上がって玄関横の小さな洗面台の前に立ち、汚れた鏡を見る。首にキスマークは付いてなくてホッとしたが、うっすらとヒゲが伸びているのが気になった。  体毛は薄い方で、毛の色も薄いから、毎日剃る必要は無く、2日に1回ほどしか髭剃りせずに済んでいる。寝ぼけた頭を覚ます為、洗顔ついでに少し端が錆びた刃を手に取ると、首筋を伸ばしながらヒゲを剃った。  顔を洗って、やっと目覚めた意識で再び鏡を見ると、白い肌に紅い唇をした、ゾッとする色気を纏った青年が映っていた。  これが僕か。どこが訓練士? 誘っているような顔をして…  何故、甲斐谷のような体格じゃないんだろう。僕の母方祖母はドイツ人だから、色素が薄いのは仕方がないとは言え、どうせなら骨格もドイツ人なら良かったのに。  細いから組み敷かれても大した抵抗は出来ず、女性を好きになることも出来ない。何故、女に産まれなかったのだろう? こんな中途半端な男の身体なんて要らない。生まれ変わって、やり直せたらいいのに。  白い左手首にカミソリを当てると、プツと小さな紅い血が盛り上がった。そのまま横へスライドさせると、紅い線がスッと浮き立つ。浅い、まるで殺傷能力など無い細い線。  これを深く切れば、何も考えなくて済むようになるのだろうか。  皆が忙しなく働いている時間だというのに、午後の静かな部屋で手首を見ている自分が滑稽で仕方ない。  日本では年間何万頭も犬が殺処分されている。その1頭でも救えたらと訓練士の道を選んだが…まだ1頭も救えていない。  虎鉄が命令に従い人間を信頼するようになってくれれば、まずは1頭救えた事になる。  このまま深く手首を切り、とにかく現状から逃げ出したいと思うも…虎鉄の黒い目を思い出しカミソリを置いた。あの目を裏切れない。裏切りたくない。  服を着て母屋へ行くと、板の間のリビングで皆が揃って昼食を食べていた。僕を見てそれぞれ声をかけてくれる。 「誠、おつー」 「おそようw」 「おつ」 「……遅くなってすいません、お疲れ様です」  昼食は通いトリマーの橘さんが作ってくれる事が多い。家でも家族のご飯を作っているからか、手際が良くて美味しい。今日はチャーハンだ。 「はい、誠君の分。夜勤ご苦労様」 「…ありがとうございます」  皆TVのニュースを観ながら食べている中、甲斐谷が不満そうに僕の方を見た。夜勤だと伝達したのは所長だからだ。つまり、あれから所長の元へ行った事がバレてる。  甲斐谷の斜め前の席が空いていたので座ると、黙ってチャーハンを口に運んだ。良い香りの温かいチャーハンだったが、甲斐谷に見られているせいで砂を噛んでいるように味がしない。  夜勤…柏木先輩と林さんは、それをどう解釈してるんだろうか。犬の出産でもないし、新人に事務仕事を手伝わせているとでも?  おそらく2人とも知っているんじゃないか、所長の趣味を。そして黙認している、自分に飛び火しないように。  昨日は所長とは何もなかったけど、そういう関係である事に変わりはない。  居心地が悪い……  ふと、甲斐谷が僕の左手を見ていることに気が付いた。思わず作業着の袖を伸ばし、先程のカミソリ痕を隠す。目を逸らし、チャーハンをかき込むと、林さんが立ち上がって口を開いた。 「今夜から雨やって。今から追及訓練行っとこか」
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