第3話 仕事

1/1
507人が本棚に入れています
本棚に追加
/30ページ

第3話 仕事

 甲斐谷と一緒に母屋へ行くと、僕達住み込みスタッフの他、普段は通いだけれど出産介助で泊まり込みのベテランスタッフなども含め、全員でその日の調理担当が作った朝食を食べた。  昼食は通いのトリマーさんが主に担当し、朝食と夕食は当番制で調理担当が作る。ただ、僕と甲斐谷は入社3ヶ月は当番免除されていた。  朝食後は犬舎へ向かい、まず約30頭の犬に朝食と排泄をさせることから始まる。1頭1頭フードの量も種類も決まっているので、ホワイトボードに書かれた表を見ながら、名前が書かれたアルミ製の皿に入れていく。  5皿ほどフードを入れたら、薬やサプリメント、缶詰めなどを添加する。そして皿を重ねて受け渡しテーブルに置いておくと、他のスタッフが犬舎へ運んでくれる。  重ねた皿をテーブルに置こうとした時、バランスが悪かったのか崩れかかった…瞬間、僕の手を覆うように、大きな手が皿の崩壊を防いでくれた。 「慌てたらアカンで」  にっこり微笑んで、皿を受け取った甲斐谷。 「あり…がと…」  支えられた手の温もりで心臓がドキンと跳ねる。食餌やりは甲斐谷に任せて、僕は引き続きフードを用意する作業に集中した。  その間、他のスタッフはトイレ出しと糞の回収などを順次進める。トイレ出しとは、犬を1頭づつ連れ出し、訓練所のグランドを一周させる業務だ。食後まで排泄を我慢出来ない犬や、夜中の間に排泄している犬を先に連れ出し、犬舎内の糞を回収してから食餌を与える。糞を踏まれると犬を洗う手間が増えるから迅速に行う。  全ての犬が朝食を食べ終わったら、食器を片して、次は食べたら出すタイプの犬をトイレ出しする。食べるのが早い犬から順に、リードを付けて犬舎から連れ出す。  訓練犬のタービュレンのハヤテを連れ出すと、犬舎の入口のところで9年先輩の男性訓練士・柏木先輩が連れたマリノアのカゲタカと鉢合わせしてしまった。ハヤテとカゲタカは非常に相性が悪く、いつも目が合っただけで大ゲンカをする。  今日も例に漏れず大ゲンカになり、すんでのところで犬同士は届かなかったが…柏木先輩にこっ酷く注意された。 「ハヤテとカゲタカが仲悪い事、まだ覚えられへんのんか⁈ ハヤテを出す時は、常にカゲタカの位置に注意せー言うてるやろ! 犬舎におらんかったらトイレ出しに決まってるやろ!」  僕と同じくらいの体格の柏木先輩は、普段から仕事に厳しい性格だけど、瞬間沸騰されると、より迫力が増して怖い。 「…すみません」  そこへ5年目の女性訓練士・林さんが発情期中で裏庭での隔離放牧予定のフラットコーテッドレトリバーのナミを連れて来た。 「ちょっと、ボサっとしてやんと早くハヤテどけて」 「あ…はい…!」  鋭い目で睨む林さんは身長150cmほどだろうか。小柄な女性なのに40kgのラブラドールをヒョイと抱っこしてしまう腕力の持ち主で、いつもは和かな人だけど、発情期中の犬を連れていると、どうしてもピリピリしてしまうようだ。  訓練所に入って数日。初日に説明を受けて以来何度か注意されているが、なかなかまだ他の犬の位置を把握しながら行動することが出来ない。頭では理解しているが、実践となると身体が動かない。  厳しい指導に溜息をついていると、甲斐谷に肩を叩かれた。 「先輩らが厳しいのは、犬やオレらが怪我せんようにやから。そのうち嫌でも覚えるから、頑張ろう」  ニカッと笑って見せた白い歯を見て、胸が高鳴る。フワリと甲斐谷の汗の匂いが鼻をくすぐり、下半身が疼くのを慌てて押さえ込んだ。  朝食と排泄が済んだら、犬舎の掃除が始まる。相性の良い犬をまとめてドッグランに出し、新人とベテランの2人組で監視、他2人が犬舎を掃除する。 c7e05f72-2731-411f-8e35-a313ac6a43a5  今日は甲斐谷と柏木先輩が監視に当たっているので、僕と林さんが犬舎掃除担当だ。ホースで水を撒きながら、糞尿の跡を流していく。その後、水切りワイパーで水を除去する。  犬を犬舎に戻して朝業務が終わるまで約2時間。食後2時間になるので、ここで一度犬舎の見回りをする。大型犬に起こる胃捻転という突発性致死病の症状を見逃さない為だ。  全頭に問題が無ければ、食餌が早かった順に訓練に入る。訓練は全頭するわけではなく、老犬は無し。預かり直後の犬などは、都度臨機応変に犬の状態に合わせる。競技会前の犬は先輩達が、競技引退犬は新人が担当する。  引退犬を新人が担当する理由は、型が崩れても構わないから。と言っても、実際に[型を崩す]のは難しい。ベテラン犬を新人が扱うわけだから、当然なめられる。  どのようになめられるかと言うと、スワレと命令する前にそっぽ向いたまま座ってしまうのだ。競技の順なども犬は完全に覚えているので、全て命令する前に犬が勝手にやってしまう。ガッツリ訓練の入った犬ほど、新人が扱うのは難しい。  それをオヤツ・オモチャを使いながら必死に集中させてやるわけだが、1時間もやればヘトヘトになる。そんな犬達も、先輩達が扱うとビシッと集中してキビキビ動く。何が違うのか、身体で覚えていくしかないんだ。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!