第12話 予定

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第12話 予定

 2日後…今夜は所長室へ行く日だ。  刻々と傾く太陽を背に、虎鉄のザラリとした被毛を撫でる。暖かな春の風が吹く中、僕はグランドで虎鉄を散歩させていた。  身体の調子は万全…シャワーで準備していけば、早ければ30分ほどで終わるであろう"残業"。  はぁ…それでも、心は気乗りしない。仕方がない、僕はここから逃げたところで行く当ても、職も、技術も、金も無い。  深い溜息をつくと、虎鉄が耳をピクリと動かしてこちらを見た。 「何でもないよ」  犬は言葉の意味を理解しているわけではないが、声色や雰囲気で感じ取る。だから本気で怒っているか、上面で怒っているフリをしているだけか、すぐに見破られてしまう。  虎鉄は僕の側に座ると、足元に伏せた。「何でもないこと、ないだろ?」とでも言うように。  僕が入所する少し前に入ってきたという柴犬の虎鉄。虎鉄はこの訓練所に来て3週間になるだろうか。僕以外のスタッフにも少しは慣れ、人の手から餌を食べるようにもなってきた。虎鉄の場合は虐待による噛みのようだから、焦らず時間をかけて人間を信頼してもらうのが大事だと、林さんが言っていた。  だから訓練というよりは散歩。名前を呼んで、来たら褒め。たまにオスワリ。のんびり、それの繰り返し。ちょっと走ってみたり、一緒に座ってみたり…虎鉄はいつも僕の方を見ないけど、背中を僕の方に向けてくれてることが嬉しかった。  虎鉄を犬舎に戻すと、夕食準備。それぞれの犬に合わせたフードを、朝と同じ要領で与える。そのうち1頭分の皿が無い事に気付いた。 「林さん、皿が1つ足りないです」 「あ、今日来た預かり犬のマリンや。皿要らんから、フード、床に撒いたって。皿回収出来へん子やねん」  中には餌入れに執着して、回収時に攻撃的になる犬もいる。看守本能というそうだが、犬の場合、犬を変える努力をするより、問題そのものを無くせるならその方が手っ取り早い。  フードを計量カップに入れたまま持って行き、床にザラザラと撒き与えた。 「餌やり終わりました」 「んじゃトリミング室行ってタオル洗濯してから夕飯食べに行って。食べ終わったら洗濯出来てるやろうから干してから上がって。こっちの2時間後の見回りは私がやるから」  大型犬が多い訓練所では、食後2時間で見回りをする。胃捻転という急性の病気があるからだ。胃が捻れて血流が止まり、手術で胃を元に戻したとしても、止まっている間に固まってしまった血液や毒素が全身に流れてショック死してしまう。早期発見が生死を分ける、予後不良で致死率5割以上とも言われる事故のような病気だ。  夕食は17時。その2時間後なら、もし胃捻転を発症しても、まだ動物病院は診察時間内。それ以外でももちろん起こることはあるが、リスクを少しでも減らす為、交代で見回りをすることになっている。  僕は皿回収を林さんに任せてトリミング室へ寄り、通いトリマーの橘さんに洗い物を受け取ると洗濯機に放り込んだ。  母屋で、今日は柏木先輩が作った夕食を食べた後、再び洗濯機の前へ。洗濯機の横にある柵の向こうの草むらが何処に続いているのか気になりつつ、タオルを干した。  柏木先輩に先に上がるよう言われ、部屋に戻ったのが20時。少し流れが分かってきたとはいえ、まだまだ覚えることが多過ぎてそれなりに疲れてはいる。が、そろそろ"夜勤"の準備をしなくては。  風呂は1人15分。それでも4人居れば1時間かかる。僕は最後だから、まだ順番が回って来るまで少し時間がある。この前準備に30分もかかってしまったから、今日は先に準備しとくか。少しでも早く終わらせれば早く眠れる。  トイレのウォシュレットで何回か洗浄し、そろそろ甲斐谷が風呂から上がって来る頃かと、タオルや下着を用意していたら、ちょうどノック音がして甲斐谷が顔を出した。 「風呂、先にもろたで」 「あぁ、今行くよ」  風呂上がりの濡れた髪の甲斐谷はやっぱり良い男で。僕より10cmほど背が高いところも、切れ長の目も、浮き出た鎖骨も長い指も、好みのタイプなんだと再認識してしまう。  でも僕には今から行かなければいけない部屋がある。やらなければならないことがある。  甲斐谷の顔を見て密かに溜息をつく。すると、いつもなら顔を覗かせるだけなのに、何故か甲斐谷はドアの中にまで入って来た。 「何? 待ってなくてもすぐ行くよ」 「…所長んとこに行くんか?」 3d11f3d8-f9e4-4c23-9ac0-fba26ee06e1e  思い詰めた顔をして、甲斐谷は玄関ドアに鍵をかけた。
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