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第21話 琴線
コンビニからの帰り道、甲斐谷は車中で一言も言葉を発しなかった。何かを聞かれても何て答えればいいのか分からない僕は、その方がありがたかったので黙って助手席から窓の外を見つめていた。
訓練所に着くと、ドアポケットのファイルにある用紙に、時間と走行距離を記録して車を降りる。
何も聞かれないうちに部屋に帰りたい。早足で部屋に着いたが、部屋の鍵を開けている間に甲斐谷に追いつかれてしまった。
甲斐谷は有無を言わさず僕の部屋に押し入ると、僕を布団に押し倒し、ズボンとパンツを乱暴に引き下ろした。尻に当ててあったトイレットペーパーがポロリと落ちる。
「何やねん…これ…」
少しではあるが鮮血が付いたトイレットペーパーを見て、流石に驚いたみたいだ。ちょっとは自分のした事を反省しろバーカ。
「痛むんか?」
「全く」
心配そうなフリをして僕の尻をひとしきり覗き込むと、僕を起こして、甲斐谷の足の間に座らせた。
「なぁ、キスだけしたい」
「…ダメ」
キスは…特に僕からの口へのキスは、本当に心を許した人としかしない。
「じゃぁ、抱きしめてもかまへんか?」
僕が答えないでいると、甲斐谷はそれを了承と受け取ったのか、温かい毛布のように優しく僕を包み込んだ。
ごめん…
言葉にはしなかったが、甲斐谷がそう言ったように感じた。
一回り大きな手で、左手に指を絡ませてくる。僕の目を見ながら、左手首にまだ残る細く紅い線に唇を当てた。
甲斐谷の口が開き、温かくて柔らかい舌が傷の上を這い回る。時折もたらされる微かな痛みが、身体の芯に火を点けそうになった。
こういうのはダメだ…
「甲斐谷、やめろ…」
温泉のような気持ちのいい体温に包まれながら、それを拒否する苛辣さよ。
「誠、好きや…好きや…」
「……出てけよ」
好きだと囁き続ける甲斐谷を振りほどき、血のついたトイレットペーパーとナプキンを手に取ると、甲斐谷に背を向けたままトイレに行った。
トイレットペーパーを流し、ナプキンを開封する。ビニールから出すと裏面がシールのようになっていた。
へー…便利だなと思いつつ下着に貼り付ける。初めてのナプキンは、なんだかゴワゴワして気持ち悪かった。
トイレから戻ると、甲斐谷はもう居なかった。
はぁ…と胸の奥から溜め息が溢れる。
指に血が付いたので洗面台の前に行くと、鏡に少しヒゲが伸びた僕が写った。今日は預かり犬のお客さんが来る予定など聞いていないし、夜の風呂か、明日の朝に剃ればいいか。
手を洗いながら考えるのは明日の"夜勤"。
出血を理由に休ませてもらえるだろうか。言えば所長は休ませてくれる気がする。
でもそんなのは、問題を先送りするだけに過ぎない。ここから巣立つまで、僕は所長の物なのだ。
そしてまたカミソリが目に入った。
僕の意思と無関係に勝手に出た血と…僕が自分の意思で流した血は違う。
気がつくとカミソリを手にして、また左手首に当てていた。深く切れば、いつでも全てをリセット出来る。
サクッと切れば、異世界転生出来ないかな。そうしたら、ドラゴンの調教師でも目指すか。巨乳の可愛い女の子で、竜騎士の彼氏と両想いがいいな。
だが、まだこの人生を終わらせる気は無い。
ただちょっと死に方をシュミレーションしておきたいだけだ。
僕はまだ治っていない傷をなぞるように、前回より少しだけ深くカミソリをスライドさせた。
白い肌に紅い血がみるみる盛り上がる。パタッと床に落ちた血を右手で拭い、全てを水で洗い流した。
わりとすぐに血が止まってしまった左手は、ジワジワと痛み、僕に生きている感覚を与えてくれる。ほらあの、夢の中で自分の頰をつねるのと同じだ。
切って痛かったら現実。
鏡には冷め切った目をした男が写っている。笑い方も泣き方も忘れたように見えるその若い男は、傷付いた左手首がもたらす痛みだけを頼りに現実に留まっていた。
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