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「──あ、そうだ。これだけは言っておかないと。」
「……?」
「悪いことは言わない。ヒナ、アイツには手を出さない方がいいよ。」
「……青柳さん。俺、そんな節操なしに見える?」
「見えるというか、実際そうでしょ。
……流石に喰ってはいないだろうけど、特にアキラと誉、かなりたらしこんでるだろう。二人のお前を見つめる視線は乙女そのものだぞ。」
呆れたような困惑したような顔で、青柳は言う。朝日奈は、ああ……。と思い当たる節があった様子を見せ、ぎこちなく目を泳がせた。
「だってオイタするもんだから、つい。……躾のつもりでちょこーっとからかっただけなんだけど。」
「ほら、言わんこっちゃない。いつか痛い目に遭うぞ。」
「……う、わかったわかった、もうスタッフで遊ぶのはやめとくから。俺って公私混同はしない主義だし。」
ヘラヘラ笑うと、青柳は「信用ならん」と言わんばかりの視線を飛ばしてくる。朝日奈は苦笑いを浮かべながら力無く手を振った。
"公私混同はしない"
人当たりの良い性格をしている為か、一見して軟派な様にみえる朝日奈だが、これでもプライベートと仕事はきっちり分ける方である。
効率の悪いことはしない主義、というべきか。可能性が低いとはいえ、万が一にも色恋沙汰へと発展すれば、間違いなく仕事に支障をきたすであろうことは、想像せずとも分かる。
そもそも、ホストはお客様の満足が第一だ。それが仕事である以上、客の望みは出来る範囲で叶えるべきであり、時には恋人のように甘く接することも決して珍しくはない。しかし、いくら朝日奈が「仕事だ」と割り切れる人間であったとしても、相手が必ずしもそうであると限らないところが、中々に難しいところだ。
そういった所から綻びができて、ついでに喧嘩なんかした暁には多少なりとも揉めるだろうし、周りに迷惑をかけてしまうことは明白である。そんな厄介事を、自ら撒いていく必要も無い。
けれどどうやら、その面倒ごとに発展する、寸前のところまできていたらしい。
……油断していた。
アイツらはヘテロだからと鷹を括っていた。これを機に自重しよう。
朝日奈は、まあ、それはそれとして。と、前置きを置く。
「心配しなくても、初めから、青柳さんの友達に手を出そうだなんて目論んだりしてないって。そんなに神経図太くないよ、俺。」
「ほんとかなぁ……」
「ほんとほんと。」
青柳の冷ややかな眼光から逃れるように、ふと、事務室の壁に掛けてある時計に目をやる。丁度、長針が12に差し掛かるところだった。
こうして青柳とのんびりしていられる余裕などもう無い。癒しのひとときが終わってしまうのは惜しいけれど、時間は待ってはくれないのだ。
それに、仕事は面倒くさいが、決して嫌いではない。
「んー、16時か……っと。」
朝日奈はひとつ大きな欠伸をし、寝そべっていた身体をのそのそ動かして起き上がる。そろそろ店の開店準備が始まる頃だ。ボーイ達はホールや店前などの清掃業務、本日出勤のキャストらも直に顔を出す頃だろう。
そんな中、ナンバーワンの朝日奈には、この時間を使って最近入ったばかりの新人ホストに手解きをし、時折模擬的なテストなどもしてやる役割がある。まあ、要は新人教育だ。
生意気なクソガキも多いので、これまた意外と大変な仕事なのだが、彼自身、それをあまり苦に思っていない。面倒見がいい、というのだろう。お節介が過ぎることもあるが、それ故に、朝日奈を慕うスタッフが絶えないのも事実だ。
一つ気合を入れようと、朝日奈が胸ポケットから小さな箱を取り出し、慣れた手つきで引き抜いた煙草を口許に運ぶ。そのままライターを持ってこようと手を動かすと、いつの間に傍に来ていたらしい青柳にやんわり阻まれた。
…しまった。完全に無意識だった。
多少動揺する仕草を見せた朝日奈だったが、すぐに困ったような歯痒いような顔をして青柳に笑いかける。
「なあに、青柳さん?」
「……千晴。」
「!……っはあ。もうほんと、過保護だなぁ、青柳さん。」
狡い人だ。
"千晴"だなんて呼ばれたら、辞めざるを得ないじゃないか。
敢えて名前で呼んでくるあたりが如何にも策士である。仕事には私情を持ち込まないように、と徹底して朝日奈に叩き込んだのはどこの誰だったやら。だからこそ、青柳が『朝日奈』でも『ヒナ』でもなく、"千晴"と言って制したのは正直予想外だった。しかも少し尖った声だった気がするのは、単なる朝日奈の思い過ごしなのだろうか。
とりあえず、これ以上この人の気が触れるようなコトはしない方が良いなと苦笑して、大人しく煙草を箱に納める。
「気をつけますよ、"オーナー"。」
後ろ手に閉めたドア越しに青柳はどんな顔をしていたのか、そんなこと、振り返らずとも簡単に目に浮かぶ。
少し複雑な気持ちになりながらも、朝日奈はノーセットの栗髪をぐしゃぐしゃに掻き乱すと、まだ静かなホールへと足を進めた。
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