第三章

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春の夜は、寒くもなく暑くもなかった。 吹いた風は草木の匂いを運んでくる。 (150年前はどんな匂いがするのだろ?) 車がなくて、プラスチックがなくて、今よりももっと油の少ない時代。 結子にとって、当たり前のものは時貞にどれほどの差となって襲っているのだろう。 見たところ能天気そうだし、天狗に襲われても物怖じすることなく戦ったのだから、大丈夫だと思う。 昼と間違うほどに煌々とついた蛍光灯の下で、結子はぼんやりとアイスケースを見つめていた。 「結子、まだ悩んでるのー?」 レジ前の母が声をかけてきた。 では、結子が逆の立場だったらどうだろう? ーーーまず、電気のないところで生きていける自信はない。 きっと、今日あった部活のことも、普段は口喧嘩する母のことも恋しくて仕方なくなるかもしい。 口にしたバニラアイスの甘みが妙に沁みる。 結子は、窓から流れる街灯を眺めながら、明日からのことを考えていた。 風呂から上がり、部屋に帰ると、濡れ髪の女子が部屋にいた。 いや、違うロン毛の男だ。 「え、なんで私の部屋にいるの?」 「貴明殿の部屋は、本だらけで隙間がないから、ここに来るように言われた」 「え、でも、日和は?」 「あいつは貴明殿と話がしたいそうだ。 何、迷惑をかけるようなことはしないだろう」 そういうことじゃない。そういうことじゃないぞー。 結子は頭を抱えた。本当は悲鳴を上げ、クッションを投げつけたかったが、自己防衛本能がなんとかそれを押しとどめた。 これ以上、ドタバタしたら確実にバレる。 (それにしても、兄よ。年頃の妹の部屋に男子はないだろう) 時貞は何ら気にすることなく、用意された枕を「柔らかすぎやしないか?」と言いながら、拳で軽く叩いていた。 「もう、早く髪の毛乾かして寝るよ」 「拭いたぞ」 「違う。違う。 ドライヤーよ……あ、ドライヤー知らないのか」 結子は洗面台からドライヤーを部屋に持ってきた。 「なんだ、この筒は」 「髪の毛乾かす道具なの。はい、そこ座って」 結子は時貞の背中に回り込み、ドライヤーのスイッチを入れた。 ブーンという機械音に、時貞がびくりと肩を震わせる。 「わしはこのままでもいいのだぞ」 「風邪ひいたら、困るからダメ」 肩をすくめる彼の髪をすくい、ドライヤーを小刻みに動かす。 温かい風が気持ちよかったのだろう、時貞の肩からの徐々に力が抜けてくる。 「すごいな。髪を乾かす道具など、考えたこともなかった」 「これをしてるとしてないじゃ、明日は大違いだから」 「お前、わしに使えるどの侍女よりもうまいな」 「お褒めに預かり、光栄です」 「この道具を持って帰れたら、城の者達はさぞ喜ぶであろうな」 彼の見つめる先には、きっと城で彼と共に生きる人々がいるのだろう。 彼の優しい微笑みに、彼が如何に愛されてきたかがわかる。 艶やかな髪を、結子は大切に大切に扱いながら、櫛を入れてやる。
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