第五章

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夕日が差し込んでくる。 結子は自分の部屋の鏡の前で、自分と向き合っていた。 そこにいるのは、ただの中学生だ。 背だってそれほど高くないし、弓を引く右手以外は牛蒡のように細い。 知略のなければ、技もない。 どうしてこんな感じなのか、深いため息が漏れた。 「おい、結子。髪結いはどうしたらいい? この赤い金魚のようなものは、女子用か?鮮やかではないか。 いや、しかし、この金の輪も強そうだな」 (そして、なんで、この男はこんな空気が読めないんだろか) 侍装束の時貞は結子が昔に使っていたヘアゴムが入った箱をひっくり返していた。 「その黒いゴムにして」 「ゴム?」 「黒い輪のやつ!」 結子のあらぶった声に時貞は少し体を反らす。そして、「何を怒ってるんだ」とぶつぶつ言った。 「まったく、さっきの緊張感はどうしたのよ。 その能天気さ、信じらんない」 怒られた時貞はくちびるを尖らせる。 「あー、もう。拗ねないで!早く髪、結んで!」 「自分ではできぬ」 「え?」 「自分では結べんのだ」 「え、だから朝、あんなにぐちゃぐちゃだったの?」 時貞は唇を尖らせたまま頷いた。 結子はさらに深いため息をついた。 「早く背中向けて。お兄ちゃんたち待ってるから」 いそいそと背を向ける彼に櫛を通してやる。 「え、なんか砂ついてんだけど」 「先ほどまで、空き地とやらで、ゲンツキ……とやらに乗せてもらったのだ。 あれはすごいな!わしはこの時代に来て、食パンの次に驚いたぞ!」 「なんで、食パンの次なのよ」 時貞は、貴明の持つ通学用の原付に乗せてもらったらしい。 兄の原付は昔、父が貴明を乗せて出かけることを夢見て、二人乗りのccを購入した。 今のところ、その夢は叶っていない。 「近所の人に変な目で見られてないでしょうね?!」 「いちゃ、いちゃするな!という声援はもらったぞ」 だめだ。女子と間違えられている…… もう何も言わず、結子は時貞の髪に櫛を通した。 彼の鋼のように黒い髪は、滑るように櫛を通す。結子は彼がこれから向かう戦いに、髪が邪魔にならぬよう。サイドを編み込んでやり、オイルをつけてまとめてやる。 「すまんなぁ、結子」 「別にいいわよ。このくらい。 それより、なんで私は呼び捨てなのよ。 お兄ちゃんには『殿』って敬称付けてるじゃない」 「結子は……ゆいこだからな」 「え、下に見てんの?!」 「いやいや。けしてそんなことはないぞ」 「絶対、うそ」 「本当だ!天狗に臆することなく、弓を放った姿にわしは心震えたぞ」 「あれは必至だったから……」 「いや、それだけでは、あの命中はなかっただろう。 鍛錬を怠っていない証拠だ。 わしも弓を引くからわかる」 結子の胸にぐっと何かが入ってきた。 こんなところで褒められるとは思っていなかった。 弓道をやっていれば最初は、古風だの、かっこいいだのともてはやされた。 けれど、鍛えれば鍛えるほどに「将来なんのためになるのか」 「女子が強くなってどうする」と言われてきた。 しまいには、「嫌いな相手を射るためか」と揶揄されたこともあった。 ーーーなんのために 問われれば、問われるほどに結子はわからなくなったっていた。褒められるところなんて、何もない。 「時貞はなんで弓をひいてるの?」 時貞は視線をさまよわせ、言葉を探す。 「狩の時に役にたつし、戦にでることがあれば戦力となるからな」 結子の弓道とはかけ離れた、実用性のある回答だ。 結子の求めている答えとはほど遠い。 「まぁ、普通はそうよね」 「鹿や猪を狩るときもある。 狐を射るのも得意だぞ」 「日和がいるのに、よくそんなことできるわね」 黄金色のふわふわが、満面の笑みを思い出す。 「だがそれだけではない。 時々、的と一つになる時がある」 嬉しそうで、楽しそうで、その瞬間が特別であるとわかるような優しい顔。 「わしはその瞬間が好きだ。 そういう時は、矢は迷いなく的へ飛んでいく」 あぁ、まぁ、わからなくもない。 何百本に一度あるかないかの瞬間だそうだ。 先輩達がよく言っているが、結子はまだ体験したことはない。 「結子」 鏡越しに見る彼は、まっすぐで強い光を湛えていた。 「いつかお前にもそういう瞬間が来る」 確信に満ちた時貞に、結子は返事をせず再び手を動かし始めた。 まっすぐな目はわずか14歳とは思えないほどだった。 それは、結子に自分があまりにもぼんやりと生きているのとを目の当たりにさせたし、同時に恥ずかしくもさせるほど、強い光をたたえていた。
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