第五章

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暗闇にその背中が消えた頃、貴明が結子の元に走ってきた。 「いやー!インドア人間に走らすなよ。 あー!口から肺がでるー」 膝に手をついて、荒く息を吐いている貴明を結子は見ることもできなかった。 それよりも、雲で月灯りをなくした夜に消えた背中を探している。 「お兄ちゃん、どうしよう。 ツグ姫が時貞とは結婚できないって」 「え?」 「よりによって、天狗のこと好きだなんて!」 結子はあの荒れた土地や、悲しげな時貞のことを思うと地団駄を踏みたい気持ちだった。 (どうしてこうなった) ここまでくれば他人事ではなくなった、結子の心に彼らの現実が重くのしかかる。 だが、貴明は、 「そっか、やっぱりな」 落ち着き払って言った。 「待って、どういうこと? 何その、全部知ってました。みたいな言い方」 貴明は背負っていたリュックを下ろすと、中から「月桜物語」を取り出した。 「第20章 天狗と女の事 今は昔。天狗に惚れし女あり。 天狗は鈴鹿山の天狗で、妖術、神通力に長けておった。 二人は祝言の約束までしておった。 しかし、その女。薬加賀家の娘であった。 薬加賀家は、娘一人のため婿をもらうこととなった。 娘は三日三晩、泣き続け、その姿を現わすことさえしなかった。 そして、婿をもらう日、娘はついに自害した」 貴明が読み上げ終わると、結子の背中は冷きっていた。 「お兄ちゃん、これ、知ってたの?」 貴明は本を閉じ、リュックにしまった。 「天狗と姫と聞いて、嫌な予感はしてたんだ。 もしかしたら、神隠しにあった侍の章と、天狗の章は一つの物語なんじゃないかって。 しかも、まさか本当の話だったなんて」 「だったらなんで、本当のこと言わなかったの⁈」 「言えば歴史が変わってしまうかもしれないだろ!」 それは貴明の悲痛な叫びだった。 「いいか、結子。歴史ってのは、たった一人でできてるんじゃない。 たくさんの人がいてできてるんだ。 僕たちが彼らに別の選択肢を与えれば、未来が変わってしまうかもしれない。 いいかい?どれほど辛い現実があっても、たくさんの人がそこに生きて作り上げたものなんだから、簡単に変えちゃいけないんだ」 全てを察していた兄は、ずっと一人でこの苦しみと戦ってきたのだ。 声は掠れ、悲しみがこもっている。 浅はかな結子は何も言えずに立ちすくんだ。 そして、結局、何の役にも立たなかった自分を呪った。 その日、部屋に帰ると、時貞はいなかった。 どこに行ったのか心配になったが、貴明が代わりに探しに行ってくれた。 結子は、一人で寝る支度をして天井を見上げる。 部屋が妙に広い気がして落ち着かなかった。 ぼーっと代わり映えのしない天井を眺めていると、また、今日の出来事が流れ星のように流れては、消えて行った。 その光の後を追いながら、結子は眠りにつく。
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