最終章 幻想即興曲

1/1
8人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ

最終章 幻想即興曲

 私は不安定な気持ちを忘れるために、『幻想即興曲』の練習に没頭していた。でも気持ちの不安定さははっきり音に出ていたと思う。それでも意地になって熱中していた。  冒頭からのドラマティックなテーマを弾けるようになる為に、南先生について右手と左手、片手だけの練習にひたすら取り組んだ。最初はもどかしかったが、1ヶ月もすると両手で弾いてもリズムの拍感がつかめるようになった。  洋平君は遠くからいつも私をみていた。何か言いたそうに。  ある日、南先生から 「智子ちゃん、よく頑張ったね。本当にいい音で弾けてるよ。中間部にあなたらしい優しい表現が出来るようになった」  と褒められた。 「私らしい優しい表現? 私に優しさなんてあるのかな」  戸惑いながら先生に尋ねていた。 「私は智子ちゃんのことが全部わかるわけではないわ。しばらく、智子ちゃんの音が何かを探して尖っていたのは感じていたの。それでも単調ともいえるような練習に耐えて、今は情感がある優しい調べを奏でているよ。音に人格が全て投影されることはないけど、やっぱりあなたの音はわかるよ。だてにずっと智子ちゃんのピアノを聴いていないんだから」  そう言って微笑みを浮かべた。私も、つきものが落ちたように力が抜けた笑顔で先生に 「ありがとうございます。また次回もお願いします」  と挨拶出来た。   ******     私は私の決着を付けなければ。 「山口さん、私、洋平のこと好きだよ」  すれ違いざまに妙な告白をした。  彼女は鳩が豆鉄砲くらったみたいなびっくりした表情で、今までのとりすました顔よりずっと可愛らしい顔をした。 「北さんってやっぱり変わってるよ」  山口は涙目になりながら言葉を続けた。 「残念ながら私は、貴女には勝てないみたい。北さんが『幻想即興曲』の練習しているの見てて私には絶対に出来ないなって思った。北さんのがむしゃらさに背筋が冷たくなるときがあったもん」 「そんなに、私怖かった?」  おどけて初めて彼女に冗談を言った。私たちは何故か軽く抱き合っていた。努力は大変だけど、一歩踏み出せないことはもっと辛いって、私はどこかで知っていた。彼女のしたことは嫌なことだけど、私たちまたやりなおせるよ。 「洋平、音楽室に放課後来て下さい。あなたに聴かせたいたい曲があるの」  直接言うのは照れくさくて付箋を放課後に渡した。  音楽室で待っている間、ピアノの前で何度も書き込みをした『幻想即興曲』の譜面を見直していた。今日は三十分だけ音楽の先生に頼んで、音楽室を借りさせてもらった。洋平君は来てくれるだろうか?  彼は約束の時間の三分前に彼は息を切らせて音楽室に入ってきた。 「北さん遅くなってごめん」 「いいよ。今から洋平のために一曲弾くから聴いて下さい」 「はい」  神妙な面持ちで洋平君が、音楽室の真ん中に陣取る。  私は今日まで練習したことの全てをかけて『幻想即興曲』を弾いた。それは、未熟さがある演奏だったかもしれない。だが、私にとって今まで弾いたどの演奏より心を込めたものだった。 「ありがとう。こんな俺の為に弾いてくれて。ここまで弾けるようになるのが、どんなに大変か、北さんを見つめていた俺にはわかったよ。やっぱり俺はまっすぐな北さんが好きだよ。自分にはない実直さや、気が短いけど優しいところが好きだ。狡猾な俺にありったけの想いをぶつけてくれて、君は馬鹿だよ。でも愛おしいよ」  洋平君は泣いていた。涙で顔を濡らしながら私に何度も、 「ごめんね」  を繰り返した。 「洋平の音、今度は私に聴かせてね。それまでは許さないから」  洋平君は、私の瞳をしっかり見つめて頷いた。その顔にもう涙はなかった。    
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!