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 朝六時に目を覚まし、窓を開けると、春の心地よい風がリビングに舞い込む。その空気を胸にいっぱい吸い込み、人心地つくと、早速家事に取りかかった。  出勤の準備自体はすぐに済むのだが、食べ盛りのノアのためにも、できるだけ簡単な朝食ぐらいは準備することにしている。大抵前日に作り置きした物を残しているので、そう時間は掛からない。  白米を焚いている間に、残り物の惣菜に少しアレンジを加えて盛り付けていき、ちょうど完成したところでノアが起きてきた。 「お父さん、おはよう」  わりと朝に強い方の息子は、起こしにいかなくても毎朝きっちり七時くらいには目を覚ます。我が息子ながら感心だ、と親ばかのように密かに誇らしく思う。 「おはよう。さ、席に着いて。食べようか」 「お父さん、寝癖ついてるよ。鏡見たの?」 「えっ、ほんと?」 「ほんと。後ろの方だから見えないでしょ。ちゃんとしないと駄目だよ」  ノアに笑われながら洗面台に行くと、確かに鏡では少し見えにくい位置の髪が束になって跳ねていた。急いで整えてリビングに戻り、食事をする息子の髪型を眺めてみるが、寝癖どころか綺麗にまとまっている。  年々しっかりしてくる息子に反して、自分の抜けたところが目立つようになってきている気がするのは気のせいではないだろう。少し情けなくなりながら、ノアの正面に座って手を合わせる。 「いただきます。そう言えば、ノアは今日あれか」 「あれじゃ分からないって」 「ほら、新学期。新学年。今日から五年生だもんね」 「うん、そうだよ。それがどうしたの?」 「えっと、ほら……」  言いにくいのを誤魔化すように箸を動かし、ご飯を掻き込む。とっくに知られていることなので、今更恥ずかしがっても仕方がないことなのだが、どうにも息子が相手だと思うとこうなってしまう。 「あっれ、お父さん顔赤いよ」 「えっ、うそ、ほんと?」  慌てて顔を触っていると、向かい側のノアのにやついた目とばっちり合ってしまった。 「もう、分かりやすすぎ。早乙女先生のことでしょ」 「うっ、だってほら、二年置きに担任が変わるんだよな」 「うん。そうだね。でもそんなこと気にしなくても、先生をうちに呼べばいいんじゃない?」 「簡単に言わないで。大人としては立場ってものがあるんだからな」 「ふうん。いろいろめんどくさいね、大人って」  つまらなそうにするノアを見ながら、苦笑を浮かべる。  四年生の最後の学期の時、ノアのいじめの問題を解決してもらう手助けをしてもらってから、担任の早乙女香晴とはなんとなく恋人に近い関係になった。だが、担任と保護者という立場上、現実的に考えて世間の目というものがあり、なかなか堂々と二人で会ったりすることはできない。  あの時はノアの問題があったため、家庭訪問という名目があったのだが、解決した今はまた話が違ってくる。そのため、なかなか進展しないまま時間が経ってしまった。  そして、そうこうするうちに担任と保護者という繋がりもなくなってしまう。このままではどう足掻いても、進展どころか関係が切れてしまうのではないかという危機感があった。  それに――と、允はもっと頭を抱えたくなる問題を思い出した。たとえ関係が続いたとしても、プラトニックなままで良好な関係など築けるのだろうか。 「これからじっくり慣らしていきましょう」と言ってくれた言葉を信じているが、未だ苦痛を伴うセックスを、本当にいつか気持ちよくできる日が来るのだろうか。もっと言えば、それまでの間彼は待ってくれるのかどうかも不安だった。  思わず重々しい溜息をついてしまうと、ノアは食事を終えて立ち上がりながら言った。 「そうだ。俺、先生にお父さんが会いたがってるよって言っておくよ」 「えっ、ちょっとそれは……」  あまりにも直球過ぎないかと慌てふためく允を置いて、ノアはごちそうさまと元気よく言って、学校に行く準備を始めるために部屋に引っ込んだ。  ノアの提案は恥ずかしささえ我慢してしまえば、むしろ渡りに船と言える。本当なら自分の口から伝えるべきことなのだが、あいにく連絡先もまだ交換していない。担任の自宅の連絡先くらいならクラス全員に伝えてあるのだが、もし同居している家族がいたらなどと余計な心配をして掛けられなかった。  それならば、せめてと思い立ち、ノアに持たせるために簡単な手紙を用意することにした。近況を軽く伝えて、思い切って自分の携帯の番号と直接会って話ができないかどうかを書き上げた時、ちょうどノアが支度を終えて部屋からでてきた。 「お父さん、行ってくるね」 「あ、ちょっと待って。ノア、これ持って行って」 「何これ。手紙?」  手渡された無地の封筒を不思議そうに見ていたが、敏い息子は何も言わずに察してくれたらしい。 「オッケー。これを先生に渡せばいいんだね」 「そう。任せたよ」  すると、ノアは歯を出して笑い、親指を立てて見せた。 「うん、絶対渡すよ。じゃあ行ってきます」 「行ってらっしゃい」  手を振って見送りながら、期待に騒ぐ胸を抑えて允も出勤の準備に取りかかる。もし香晴からの連絡が来たら、仕事中ににやけてしまいそうだった。
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