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「家庭訪問……」
週明け、幸せ気分で満たされていた允の気持ちをあっという間に沈みこませたのは、恒例のそのお知らせだった。仕事から帰宅して息子から手渡された用紙を手に、溜息を抑えることができない。
「お父さん、何でそんなに暗い顔してるの?」
ノアが不思議がって訊いてくるのだが、こればかりは正直に話すわけにもいかないだろう。
とは言え、あちらも軽い気持ちで声を掛けてきただけであるかもしれないし、いつまでも気にする必要もないはずだ。そうやって気持ちを奮い立たせようとするも、心のどこかでは警鐘が鳴っていた気がする。
そして、嫌なことほどすぐに訪れてしまうもので、家庭訪問当日はあっという間に来てしまった。
「こんにちは」
相変わらず目が眩むほどの美貌を振り撒きながら、柊木稜は現れた。高級そうではあっても単なるスーツだというのに、無駄にスタイルの良さを主張されている気がしてならない。
「こんにちは……」
引き攣った笑みで挨拶を返し、部屋に招き入れるために脇にどくと、今日はシトラスとは違う香りが鼻腔を擽った。完璧な男は日頃から匂いにも気を遣うものなのか。
柊木は初対面のふりでもしてくれているのか、それともすっかり忘れているのか、特に態度に表すことなくリビングに入って来た。
「柊木先生、ようこそ」
そこで待っていたノアは、柊木を見た途端に満面の笑みを浮かべた。子どもは正直な生き物であり、息子がこんな態度ならば警戒はしなくても大丈夫かと思い直しかける。
ところが。
「ノア君、ちょっと先にお父さんと二人で話がしたいから、部屋で待っていて」
「はあい」
元気よく返事をして、ノアが自分の部屋に行ってしまうと、柊木は突然身を寄せて来た。
「ちょっと、何を」
慌てて距離を取ろうとするも、ぐっと強い力で腰を抱き寄せてきて、耳元に囁いてくる。
「ノア君に聞こえるから、静かに」
「っ、……」
口を噤むと、柊木は耳朶に口付けてきて。
「やめっ……」
突き飛ばそうとしかけた時、柊木は言った。
「一目惚れなんだ。唐木さん、俺のものになってよ」
「やっ、ぼ、僕には好きな人がいるので、そういうのは……」
「ふうん。それって、唐木さんの番?でも、首元には噛み跡もないよね」
いつの間にかチェックされていたらしい。首元に手を当てながら後退る。
体に跡が残っていないのも無理はない。以前番だった夜次に噛まれたのは、最初の一度きりで、それももう何ヶ月も前の話だ。いっそ跡と共に番も効果が切れていたら良かったのにと思う。
「番、ではないです。でも、僕にとっては何よりも大切な……」
「番ではないんだ。じゃあ、チャンスはあるよね」
「勝手なこと言わないでくだ……っん」
最後まで言い終える前に、流れるような動作で唇を塞がれた。
番の効果が切れていたらいいのにと常々思っていたが、皮肉なことにそのおかげで今は救われている。心理的な面の影響がいかほどかは分からないが、香晴が相手だと拒否反応も起こらなくなったキスは、柊木が相手だと唇を啄まれただけで吐き気を催してきた。
「……っ」
気が付けば、思い切り渾身の力で柊木の頬を叩いていた。荒い息をついて柊木を睨みつけていると、室内に音が響いたのを聞きつけたのか、ノアが部屋から顔を出す。
「どうしたの?なんかすごい音がしたけど」
「何でもない。先生、家庭訪問なんですよね。早速ノアを交えてお話をしましょう」
「ええ、そうですね」
柊木も允に合わせてくれたのはいいのだが、何食わぬ顔でノアの学校でのことを話し始めるのを見て、かえって尚更不快な思いが込み上げた。
そして、これから二年間はこの男と関わる機会があるのだと思えば、暗澹たる思いに覆われていった。
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