縁結びの御祈祷

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縁結びの御祈祷

 近衛が姿を見せなくなった二日目。朝、投稿の前に鳥居をくぐり拝殿に手を合わせてはみたが、神使でも何でもない結子には何の声も聞こえなかった。  近衛が早く戻るように願おうとして──考える。  結木様に用事を言い付けられたのかもしれない。何と言っても、結木様は近衛の主なのだ。結子の糸結びは、結果としては結木様のためになるとはいえ、天秤にかければ結木様の方に傾くのは必然。  ならば、早く戻ってきて欲しいというのも滑稽な話だろう。  そもそも、戻ってきて欲しいというのもおかしいか。近衛の住まいは結木神社で、恐らくここに居るのだろうから。  戻ってきて欲しいというより、傍に居て欲しい。名を呼んで、返事がある距離に居て欲しい。  そう思うのは、甘えているのだろうか。近衛が居ると、頼れるから。慰めてもらえるから。  ──……。  結局、毎日の礼を伝え──それ以上は伝えずに学校へと急いだ。  その日の夕方。学校から戻って社務所に顔を出すと父から手招きをされた。 「どうしたの?」  そう訊ねると、申し訳無さそうに眉尻を下げて続ける。 「悪いが、結子。今度の土曜は空いているか」 「今度の? うん」  香菜とは何も約束をしていない。近衛が居れば糸を結びに出掛ける予定があっただろうが、まだ戻る様子はない。もし週末までに戻ったとしても、先約があるのだと言えば、近衛も無理強いはしないだろう。 「御祈祷の申し込みがあってな」  手伝って欲しいのだという。週末、母は戻ってくるだろうが、御祈祷の手伝いは難しいだろう。それに、平日は仕事をしているのだ、こちらに戻ってまで働かせるのは申し訳ない。できればのんびりとして欲しいのだ。 「あ、うん。全然──……」  頷きかけて、そういえば御祈祷は久しぶりだと気付く。縁切りを止めてから、御祈祷の申込みはぱたりとなくなっていた。  それは──まさか。期待が顔に出ていたのだろう。父は少し笑って頷いた。 「この前、お前が気にしていた方だよ」  慌てて追い駆けようとした所も見られていたし、こう提案してはどうか、と口出しをしていたのだ。父が笑うのも頷ける。  やっぱり、と喜んだのも束の間。  一人で来るのだろうか、という疑問が出てくる。離婚はしていないが、あの主婦の話を思い出すと近頃村上千鶴の姿を見かけないといっていたではないか。 「──……」  相談しようにも、近衛は居ない。  一人だった時はどうしようか。糸を結ぶ相手が居ないのだ。  考えすぎて眉間に皺が寄っていたらしい。 「どうした、結子。予定があるならそっちを優先して良いんだぞ」 「いや、そうじゃなくて。あ──……えっと、用意とか久しぶりだから、何からすれば良いかなって」  ぱっと出た嘘に申し訳無さを感じたが、父は信じたようだった。 「ああ、椅子は二脚で良い。他の細々としたものはお父さんの方で用意しておくから」 「二脚? 二人、来るの?」 「ああ、お二人で見えられるそうだ」  二人──それは、村上夫婦と期待して良いのだろうか。もしかすると不倫相手で、この縁を結びたい、というようなことではなかろうか。それは考え過ぎだろうか。  これ以上訊くのも妙に思えて、だから後は神頼み。拝殿に向かい、礼をする。大きな音を立てて手を打ち、結木様と近衛に、どうか──どうかと頼むのだ。  ──どうか、村上夫婦が来てくれますよう。  そして迎える土曜日。  予定の時間よりも少し遅れて、村上光也は女性を伴ってやって来た。  細い人だった。それが健康的な痩せ方ではないのはひと目で分かる。それで、彼女が村上千鶴だろうと分かった。あまり良いことではないのだろうけれど。 「すみません、外泊の手続きに時間がかかりまして」  今は入院中で、外泊の許可を貰ったのだろう。  受付に案内しながら、二人の手元を見る。糸は、確かに切れていた。  二人の様子を伺う。喧嘩をしてギスギスしているということもなさそうだ。かといって、仲睦まじい夫婦とも違う。  夫婦というよりも、友人のような、仕事仲間のような、あるいは──戦友のような。赤い糸ではないものが、二人を繋いでいるのだろう。  病の女性が一人にならなかったことは良かった。けれど、それは決して愛情が深いから、というようなロマンチックなものではない。別れるだのということを選択する──いや、そもそも選択肢として並べる余裕がないのだ。  日常の二人がどういうやり取りをしているのかは分からない。けれど、赤い糸が少しでも二人の会話を暖かなものにしてくれれば良い。  切ったことを心の中で詫びて、そっと糸を結んだ。  受付を済ませ、二人を拝殿に案内する。 「今日は、ありがとうございます」 「いえ、ご無理はなさいませんよう。途中、お立ち頂く所もありますが、難しければそのままでも差し支えありません」  そうして。太鼓の打鼓で、御祈祷が始まった。  立つことがあるとはいっても、そう長い時間ではない。それも可能かどうかと案ずるのであれば、容態は思わしくないのだろう。  始終、結子も傍について気を付けていたが、村上千鶴は、神前で失礼がないようにと気を張っているのか、背筋をぴんと伸ばし、支えられながらではあったがしっかりと規律もしていた。  時間にして二十分ほど。御祈祷を終えると、時計を見た村上千鶴は慌てて鞄を探った。 「もうお薬の時間」  その横で、すかさず夫の光也が伺いを立てる。 「すみません、ちょっと薬を飲んでも宜しいでしょうか。外に出た方が──」 「ここで構いませんよ、どうぞ」  鞄から出した大粒の錠剤を口に入れ、ペットボトルの水を飲み込む。 「ありがとうございます」  大変ですね、というのもわざとらしく思えて、だから始終黙っていた。こういう時はどうすれば良いのだろう。  彼女にとっては、そんな同情も慣れているのかもしれない。 「御祈祷、頑張れたねえ」  薬を飲み終え、そう言って夫に笑いかけているのだ。  戦友なのだろう、二人は。癌という病と戦う。  だから、伴侶を結ぶ糸が切れても、離れないのだ。 「頑張ったな」  そう励ました後、村上光也は立ち上がり、父に頭を下げていた。 「今日は本当にご無理を言ってすみません。ありがとうございました」  その間、彼女は結子に会釈をした。 「お茶をお持ちいたしましょうか」  何の気遣いもなくぼんやりしていたことを詫びると、村上千鶴はゆったりとした所作で首を振った。 「ありがとうございます。でも、お気持ちだけ。お薬の後は、飲んだり食べたりしちゃ駄目なんですよ」 「そうなんですか……」  薬の後、一時間は飲まず食わずだという。これからの季節、喉が渇くだろうに。そんなことを言っても良いのか分からず黙っていると、彼女は独り言のようにぽつりと言葉を紡いだ。 「縁が切れなかったのは、こちらが縁結びの神様だったからなんでしょうねえ」  御神体が祀られた方を眺めながら。  彼女が望んだであろう、病との縁はまだ切れないままだ。  結子の手で切れるものならば、そんな縁は切ってやりたい。だが、見えるのは人と人とを繋ぐ赤い糸。切れるのは、人との縁だけ。  無力で、何の役にも立たない力。  だからせめて、病が治るように祈りたい。 「しっかりと、お伝えいたします。健康とご縁を結べるよう」  近衛が仕える神様なのだ、きっと良い縁を結んでくれる。力強く言うと、村上千鶴は細い肩を震わせて笑った。 「はい。健康になって──ずっと一緒に居なさいということなんでしょうね」  夕暮れの頃。父は先に家へと戻り、結子は後片付けをしていた。  そっと本殿に入る。近衛に会うまでいつも行ってきたことだ。だが、つい足音を忍ばせてしまうのは、少し疚しく思う気持ちがあるからだろうか。  結木様は──御神体の鏡は、今日も変わらず綺麗だった。映り込む結子の表情は冴えない。  いや、こんな表情のまま向き合うのは失礼だろう。深呼吸をして表情を引き締める。  御神体に向けて、二礼。そして、大きな音を立てて手を打つ。天井に、音が反響した。 「いつもお世話になっております。ここの神職の娘の、神崎結子です」  まずは、いつも見守って頂いている礼と名乗りから。  当然ながら、鏡からの返事はない。だが、近衛が言っていたではないか。結木様はいつも結子の言葉を聞いていたと。返事はなくとも、姿は見えずとも、きっとどこかで聞いているのだ。 「近衛さんにも、いつもお世話になっています。ありがとうございます」  他に──他に。結木様にお願いしたいことならば他にもある。 「本日、お見えになっていた村上千鶴さんの病状が良くなりますように。健康と、ご縁が結べますように。どうか、どうかお願いいたします」  声の反響の後、本殿の中は再びしんと静まり返る。その静寂が、これで終わりかと訊ねているように感じたのは、考え過ぎだろうか。  終わりにしても良いだろう。いや、終わりにした方が、きっと良い。だが──だが、しかし。もうひとつ、喉に引っかかった魚の小骨のようにもやもやと渦巻いているものがある。  言うか、言うまいか。言ったところで聞き入れられないかもしれないことは承知している。しかし、これからどうすれば良いか分からないのも事実。  今は、近衛の顔が見たくて仕方がなかった。 「近衛さんが、戻ってきますように!」  思っていた以上に大きな声が出ていた。  近衛に会いたいのだ。声を聞いて、糸を結んだことを伝えたい。それは結子の我儘かもしれないし、甘えたいだけかもしれない。  けれど、どうか戻って欲しいと心から思う。戻る──戻る? それは、どこに。  勢いで言ってしまった言葉は今更取り消すことはできないから、慌てて補足をする。 「あ、いえ、近衛さんのお住いはここなんですが──その、次にどうしたら良いか、とか──その、このままだと結木様にもご迷惑になりますから」  しどろもどろになりながら謝る。 「すみません、近衛さんの不在は結木様のご迷惑だろうとは思います。分かっています。けれど、どうかもう少しお力添えを、お願いいたします」  再びの、静寂。  伝えたいことは全て吐き出した。どうしてだろうか、言ってしまってから恥ずかしくなるのは。  深々と頭を下げて本殿から退散する。  部屋に戻ると、近衛が居るのではないか。そんな淡い期待を抱いたが──しかし、叶うことはないのだった。
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