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興味
図書室というものは静かに過ごす場所である。
故に、騒がしい利用者は──。
「退室してください」
そうなるのが定め。結子は、一度大きな声を出してしまって睨まれていたし、声を掛けてきた彼女はレッドカードで一発退場、と相成った。
目尻を吊り上げた私書殿から廊下につまみ出されてしまったのだが、さて名前も知らない相手である。どうするのが良いのだろう。挨拶、というのも妙だろうし。
「あの──」
とりあえず、と声を掛けると彼女は深々と頭を下げた。
「ごめんなさい、急に大声出して。本、借りるつもりだったんでしょ?」
「いや、それは──別に。ただの暇潰しだったので」
「そっかー。それは良かった」
ほっと胸をなでおろしている。だが、待って欲しい。まだ名前もクラスも知らないのだ。同学年らしい、というのは上靴の色で判断したけれど。
「あの、名前──」
結子から恐る恐る訪ねて、彼女はようやく気付いたようだった。
「そっか、そうだった。私、エトーカナ。エトーはエヒガシって書いて、江東ね。で、香る菜っ葉で香菜。よく、エフジのエトーって間違えられるのよ」
エヒガシ──は江に東、エフジは江に藤、だろう。それぞれの文字を頭の中で書いて、なるほどと納得する。
「あなたは? 巫女さんの名前」
「あ、私は神崎です。神崎結子」
「神崎結子さん。可愛い名前!」
友達が少ない──今は皆無と言っていい──こともあるが、結子は家のことをあまり話さない。昼食を取っていた友里たちのグループは一年の付き合いがあるから話したけれど、他の生徒で結子の家が縁切り神社だと知る者は少ない。
しかも、全く見ず知らずの生徒が。
彼女──江東香菜は、結子の名すら知らなかった。生徒だったことにも驚いているようだったから、結子をこの学校の生徒としてではなく、先に巫女として認識していたのだ。
参拝客だろうか。
ちらりと手元を見るが、小指の糸に切られたような痕はない。不審を言葉にするより前に、香菜が既知の理由を明かす。
「前に、昼過ぎのテレビに出てたでしょ。それを見たの」
「テレビ?」
確かに、神社には時々取材に来るが、ほとんどは父が出る。結子が出たのは──。懸命に記憶を辿り、思い出したのは去年の夏頃。一学期がもうすぐ終わるという時期、平日の昼下がりに放送されるローカル局の情報番組だった。
わざわざ録画をするような番組でもないが、たまたま学校を休んでいたのだろうか。
「面白い神社があるなーって思ったの。でも、巫女さんが高校生とは言ってたけど、まさか同じ学校だとは思わなかったな」
そうだ、家業の手伝いではあっても高校生の巫女は話題になると言われて半ば無理矢理マイクを向けられた覚えがある。何を話したのか全く覚えていないし、恥ずかしくて録画など見られなかったから、テレビに出たことそのものが記憶の彼方に追い遣られていた。
「それは──どうも……」
そう返すのが正しい答えなのかは分からないけれど、間違いでもないだろう。
自己紹介が一段落ついたのを見計らったかのように、予鈴が鳴り響いた。
「あ、もう昼休み終わり? もっと話したいのに。次体育なんだよね。えっと、神崎さん──今度、神社にお参りに行っていい?」
「え、あ、うん──」
「よかった!」
香菜はまぶしいくらいの笑顔で喜びを現す。そうして、結子の両手を掴むと、マンガのようにぶんぶんと上下に振った。
「じゃあ、またね!」
また、と返事をするよりも先に香菜は制服のスカートを翻し廊下を駆けていた。始終、香菜のペースであった。
次の時間が体育なのは、何組だろうか。それを訊く間もなかったが。
口を挟むこともできずにずっと黙っていた近衛が隣で漸く口を開く。
『高校生なのに、渋い趣味だな』
「縁を切りたい人が居るんじゃないですか?」
これまでだって、縁を切りたい若い参拝客は大勢居たではないか。今更、近衛も妙なことを言う。だが、近衛は呆れた様子でちらりと結子を見るのだ。
『糸は誰とも結ばれていなかったろう』
「あ」
言われて、思い出す始末。
『……おまえは、抜けているな』
「よっ……余計なお世話です」
的確な指摘に、ふいと顔をそらす。
「近頃は神社好きの女子高生も居るみたいですよ」
情報番組のコーナーで紹介されていたように思う。突っ込まれては困る浅い知識を披露する。
『そういえば、神崎。先程何か言いかけてはいなかったか?』
今の騒動で忘れていたが、近衛に訊ねようとしていたのだ。もやもやと引っかかる感情の意味を。
「あの、あの──ですね」
どう言葉にすれば良いのだろう。近衛の気遣いは嬉しい、けれど何故か残念に感じている。どうして欲しいのだろう、近衛に。もっと気遣ってくれ──とは違う。
もっと──もっと。
──「私」を見て欲しい?
跡継ぎとしてでなく。
それはどうしようもなく我儘なことだろうに。
「何でもありません」
『そうか』
近衛もまた、それ以上は追求しなかった。あの時、香菜から声を掛けられなければ口にしていたのだろうか。そうなった時、近衛は何と答えただろう。迷惑な表情をしただろうか。
近衛のそんな表情は見たくない。教室に戻りながら、そう思った。
一週間を終えた金曜日の夜。波乱まみれの月曜日から始まった週だったが、残りの日々は、平穏無事に経過した。
一人で過ごす学校生活が寂しそうに見えたのだろう、近衛は学校内にも付き添ってくれるようになった。
「そんなに寂しそうでした?」
そう訊ねると、近衛はため息をついてこう返す。
『神崎が抜けているから心配なのだ』
確かに、これまで全て人任せにして流されていたから、ぼんやりしている所は認めざるをえない。
糸を結ぶコツも掴めてきた。朝や放課後に、いくつか糸を結んで、紙を燃やす紅い火を眺める。
『一週間、疲れたろう』
「月曜日はどうなることかと思いましたが」
燃え尽きた紙が消える。今日、放課後に結んだ糸だ。いつもは通過する駅で降り、結んだ糸は、男性営業マンとケーキ屋さんの女性店員。
ついでにと買ったケーキを食べながら、思い出す。
糸を結んでも、二人は話をする様子はなかったけれど──すぐにではなくとも、そのうち何かしらの変化があるのだろうか。
ケーキを箱に入れてくれた店員の女性は、綺麗な人だった。
結子が選んだのはスフレチーズケーキ。アプリコットジャムが表面をつやつやに輝かせている。フォークを入れると、しゅわしゅわと耳に心地良い音を立てて切れる。一口、頬張ると口の中で生地がとろけてゆくのだ。
少し高いケーキだったけれど、せっかくだからと買ってみて良かった。
「近衛さんは食べなくて良いんですか?」
一週間、息苦しいと文句を言っていた学校に付き合ってくれたお礼にと近衛の分も買ったのだが、頑なに食べようとはしなかった。箱に入れたまま、大切に持っている。
『結木様と一緒に頂くつもりだ。ありがとう』
何よりも「結木様」が一番なのだ。神使だから、それは当然──とは分かっていても、寂しい。
「結木様の分も買ってくれば良かったですね」
そうすれば、近衛はここで一緒に食べてくれただろうか。
『高校生の少ない小遣いに、そこまで無理はさせられんよ。結木様も、神崎の気持ちは承知しておられる』
本当は、そんな結木様への思いではなかったのに。自身が浅ましく思えて、残りのケーキを食べる。軽くて甘いケーキが胃に重く溜まる。長く生きた神使は、結子の我儘や浅ましさに気付いているのだろうか。気付いていて、口に出さないのか。その優しさが、少し苦しい。
皿の上を空にして、少しだけ話題を変える。
「でも。よりを戻しても、別れても。お二人が幸せになれれば良いですね」
『そんなことを言えるようになったのか』
茶化したように言われるが、これまでの結子を思えばそれも当然か。別れたいのならば早々に別れてしまえと問答無用に糸を切り続けていたのだ。
「そりゃあ、まあ……」
多少なりとも成長しているのだろう──きっと。
『そういえば、あの娘は本当に来ると思うか』
「あの娘?」
『図書室で会っただろう』
「エヒガシの江東さん?」
『中々、面白い表現をする娘だったな』
あれきり、香菜には会っていない。本当にお参りに来るのかは分からないが、近衛の言葉にどこか好意的な雰囲気を感じて、少し引っかかる。
「どうして、そんなに気にするんです?」
少し、棘が混じってしまった。そんなつもりはなかったのだ。突っかかるつもりはなかったのに。どうしてだろう、嫌な気持ちになるのは。
『神崎の友人にどうだろうかと思っていたのだが』
「ともだち?」
思いもしなかった。友達、など。別のクラスに所属する誰かとも友達になれるのか。
『面白そうじゃないか。週末は出かけずに待ってみるのも良いな』
「神社に興味があるんでしょう?」
『そこから、神崎に興味を持ってもらうこともできるだろう』
そこから、どうやって結子へ興味を向けさせるのか。
「そういうものなんですか?」
『関係の始まりは、そういうものだろう。どういう人か知りたい、から始まり、それがいずれ愛情なり友情なりになる』
「でも、何だか覗きみたいじゃないですか?」
『知らせたくないことまで知ろうとすれば、そうなるだろうが──神崎は興味を持たなすぎる』
興味、と言われても持てないのだから仕方がない。
『例えば、あの娘がなぜお参りに来るのか、気にならないか』
「特には……」
縁切りが目的でないのなら、神社に興味があるのだろう、という程度にしか思わない。
『あの娘でなくとも、そういう者は居ないのか』
誰かのことが知りたい、とは──。虚空を眺めて見知った顔を一つ一つ思い浮かべてみるが、特に強い興味を抱く相手は居なかった。
視線を戻し、近衛を見る。
そこで漸く気付いたように、あ、と口を開けた。居るではないか、ここに。
「近衛さん」
言うべきかどうかと考える間はなく、そしてこの前のように割って入る誰かも居なかった。
『どうした?』
「近衛さんのことが知りたいです。……どうしてだか、分かりませんが」
これは、何の情だろう。友情だろうか──それとも。この前からずっと、近衛の言動ひとつひとつが気になる。
近衛がなぜそんなにも結子を気遣ってくれるのか、そこには何か理由があるのか。知りたいと思うのだ。
近衛はそれを聞いて困惑した表情を浮かべ、銀の糸のように輝く髪を掻く。
『それは──……』
答えにくいことを言ってしまったのか。近衛は少し考えて、手を掲げてみせた。結子とを繋ぐ糸が確かにそこに巻かれている。
『それは、この糸のせいだろう』
「糸、の?」
『こんな糸が得体の知れない相手と繋がっているのは嫌だからな。だから、わたしのことを知りたいと思うのだろうさ』
「糸……」
それだけなのか。他に、参考になるような経験もないから、納得するしかない。
糸が切れるのは、あの紙束がなくなった時。その時は──。
「……近衛さん、いつかいなくなるんですよね」
近衛が居なくなる。
『この社が取り壊されない限り、ここに居る』
それはそうだが、こうして傍に居て話はできなくなるのだ。
『この厚さだ。まだまだわたしはここに居るさ。神崎が嫌がってもな』
「褒めて伸ばすのはどうしたんです」
『気休めは止めて欲しいのだろう?』
「確かに、言いました」
そう言って笑う。
全ては、この糸のせいなのか。近衛がそう言うのならば、そうなのかもしれない。そうなのだろう──きっと。
引っかかる何かはあるけれど、そのうち──糸が切れるまでにはきっと、その理由が分かるはずだ。
まだまだ、近衛との縁は切れそうにないのだから。
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