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再び深更、結木神社本殿
夜の本殿は静寂に満ちている──いつもならば。
それが、この夜は少し騒がしい。一柱の神が、仕える神使に詰め寄っているのだ。
今日は、神使は人の姿のままであった。手にしていたケーキの箱を御神体である鏡の前に置く。
『スフレチーズケーキを頂きました』
『どうして食べなかったんだい』
鏡の中の青年は、身を乗り出して訊ねる。さて訊ねられた神使はといえば。
『結木様は甘いものがお好きでしょう』
顔色ひとつ変えず、返すと、主は大仰にため息をついた。
『確かに好きだけれど。あの子は、近衛と一緒に食べたかったんだよ』
『……』
それは──分かっている。だから、敢えて食べなかったのだ。主と分けると適当なことを言って。
『気付いていて気づかないふりをするのは、意地が悪いよ』
眉間に皺が寄った。好き勝手に言ってくれるものだ。
『どうすれば、ご満足頂けるのですか』
好意を持つな、持たれるなと言った口が、日が経てばこれである。どうしろと言うのか。面倒くさい、と思うが出来るだけ顔に出さないようにする。
『別に、どうしろとも言わないよ。ただ、適当に誤魔化していたら、後々面倒なことになるかもしれないと言っているだけさ』
そこには、以前のような真面目さはなかった。からかうのを楽しんでいるのだ。
これからもずっと続くのでは面倒だ。この際、はっきりさせておいた方が良い。
『刷り込みのようなものです。神崎は、そういったことに免疫がないから──』
『刷り込みというと、親鳥のようなつもりなのかな』
『そのようなものです』
『だったら、頑なに姓で呼ばなくても良いだろうに』
『名で呼ぶ仲でもないでしょう』
あくまで、目的を果たすための協力関係なのだ。
そもそも、分かっているのだろうか。ことの始まりは神崎結子が糸を切ったことからだが、それを止めずに長年に渡って放置してきた主にも非はある。近衛が糸を結ぶ手助けをしているのは、主が出雲での神議りから追い出されぬためなのだ。
『だって、近衛は神使だろう』
思っていることに先回りをして釘を差してくる。
『無事、雛が巣立ってくれると良いねえ』
『……努力します』
主は人好きのしそうな笑顔で、なおも続ける。
『こちらとしてもね、このところ近衛が丸くなったように思うから、嬉しいんだよ』
主は鏡の中から手を伸ばし、ケーキの箱を掴もうとする。手が触れる間際、さっと箱を取り上げた。
『まだです、結木様』
『どうして。良いじゃないか。シールに"本日中にお召し上がりください"と書いてあるだろう。もうすぐ日付も変わる』
『買ったのは夕方です。また二十四時間経過していませんから大丈夫です。それよりも、本日のお仕事が片付いていないでしょう』
『食べながらするよ』
『いけません』
『……あの子には甘いのに』
そう言って、主は膨れる。
甘やかしているのだろうか、彼女を。そんなつもりはないのだが、傍からはそう見えるのか。
人付き合いが苦手で不器用で、これまでやってきたことに向き合っている姿を見ていると、放っておけない。
このケーキも、近衛のためにと買ったものだ。
『……』
箱を開けて、ケーキを取り出す。主のように甘いものを特に好む訳ではないけれど。
これは、食べなければならない気がした。
透明のセロファンを外し、一口、かぶりつく。
『あー! 半分ずつするんだろう!?』
咎める声も聞き流し、残りを二口、三口と食べる。
どんな思いで買ってくれたのだろう。
ケーキは、舌の上でとろけてゆく。甘い──甘い、味だった。
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