江東香菜

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江東香菜

 家に帰ると、男物の靴が揃えてあった。  ──来てるのか。  以前ならば、仕事で忙しい父が帰ってきたと大喜びをしていたが、今は複雑だった。()()()()()に何と言っているのだろう。そんなことを考えてしまう。 「ただいま」  居間に声を掛けると、父が嬉しそうに顔を覗かせた。 「おかえり」 「遅かったのね」 「うん。神崎さんと寄り道してた」  そう言うと、母は案の定嬉しそうな顔をしていた。父は、初めて聞く名前に首を傾げていたが、香菜からは説明がないらしいと気付いた母が補足する。 「新しいお友達よ」 「そうか」  嬉しそうな声を聞き流しながら部屋に戻る。 「ご飯はー?」 「予習とかしてから」  また留年したら困るし、と喉まで出掛かったがそれは飲み込んでおいた。今ここでそんなことを言えば皮肉にしかならないことは、香菜だって分かる。  学校を休むきっかけは、結子に話した通り入院したことだったが、そのまま休むことになったのは、父の本当の家族が原因だった。  いや──原因と言えるような立場でもない。  香菜と母は、彼女らにとって"泥棒"なのだから。  父が、香菜の家とは別に家庭を持っているとは何となく分かっていた。だが、母も何も言わないので、訊いてはいけないことなのだと思っていた。  それが、小学生の頃だ。中学生になると、もう少し詳しく分かる。高校生になれば──嫌でも気付かされる。  入院したのは、肺炎をこじらせたからだった。心配した父は毎日のように病室へお見舞いに来てくれた・父親と毎日会えるというのはこれまでなかったから、入院も良いものだと、呑気なことを思っていた。  その女性の訪問は、晴れた日の昼下がりだった。香菜よりも少し年上のその女性は、梅雨明けしたばかりの季節に、淡い水色のブラウスと紺のスカートが爽やかで似合っていた。  長い髪をきれいに巻いて、一分の隙もなく化粧をした彼女は、香菜の記憶にはない。  ぼんやりとする香菜に、女性を案内した看護師はこう言った。 「久しぶりで忘れたのかしら。()()()()()()()ですって」  それで、ようやく察した。彼女は異母姉なのだと。 「大きくなったね、香菜ちゃん」  優しい声が怖かった。看護師が立ち去ると異母姉の顔から表情が消える。 「父が、いつもお世話になっています」  体温の感じられない声だった。黙って俯く。  どれほどの時間、そうしていただろう。長い長い、無言。 「あの……」  何を言おうとしたのか、香菜自身も分からなかった。ただ、沈黙に耐えられなかったのだ。何か言わなくては。だが、後を引き取ったのは彼女の方だった。 「母は、あなたたちに何も言わないから、認められてるんだって思っているのかもしれないけど。私たちは違うから。──泥棒」  泥棒。これまで意識してこなかったけれど、香菜と母は異母姉たちにすれば泥棒なのだ。  気付かないふりをしていた現実を急に突きつけられ、体温が下がる。 「香菜ー? 具合どお?」 「ノート持ってきたよ」  友人たちの声に、彼女は再び表情を、温もりのある声を取り戻す。 「ケーキ、良かったらみんなでどうぞ。それじゃあね、香菜ちゃん」  微笑んで立ち去る彼女の後ろ姿を、クラスメイトたちは憧れの眼差しで見送った。 「なあに、あの人!」 「綺麗な人ね」 「お姉さん?」 「あー……従姉の……」  それだけを返すので精一杯だった。  退院しても、頭が痛い、お腹が痛いと言い訳を続けて学校を休み続けた。出席日数が足りなくなると言われても、別に良いかとしか思わなかった。  泥棒なのだから、高校などどうだっていい。  母は、泣くか怒るかするだろうと思っていたのだが、そのどちらでもなかった。  昼間は仕事に行き、帰ってきて一緒に食事をする、これまでと何も変わらない日を過ごしていた。  あまりに何も変わらないから、香菜は訊ねた。 「私、居ないほうがいい?」  私なんて、と喉元まで出掛かったが、それはどうにか飲み込んだ。  ただ、香菜が居なければ母はもっと自由になっただろうと思う。もっと選択肢が増えたのではないだろうか。香菜が居るから、それを選べないだけで。 「どうして?」  だが、母は心から驚いたように目を丸くした。 「香菜が居ないと、ケーキ二つ買えないじゃない」  返ってきたのはそんな答え。馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばしてしまいたくなるようなものだが、からからに乾いていた香菜の心に沁みてゆく。 「そっかー……」  気付けば、大粒の涙が頬を伝っていた。ぼたぼたと、顎から滴り落ちるほどに。 「香菜が学校に行かないのは、何か嫌なことがあったんだろうなあって思う。何があったのって聞いても、きっと教えてくれないだろうなあって思うから、聞かない」  母はぼんやりした所があるけれど、それでも見ていてくれたのだ。 「ただね、誰かに何かを言われても、お母さんは香菜の味方だからね」  言葉だけを取ってみれば、ベタで手垢の付いたものだけれど、それでも嬉しかった。  傍から見れば泥棒とその子どもであっても。  母を悪く言われたくはない。だから、まずは高校に通おう。久しぶりに袖を通した制服は、冬物になっていた。  鞄の中でスマートフォンが震えた。緑のランプが灯っているのを見て、画面を操作する。 《明日、晴れたらお昼は中庭で食べよう》  別れ際に連絡先を交換した結子からだった。見た目の通り、飾り気も絵文字も使わないシンプルな文面に思わず口元が緩む。  結子をテレビで見たのは、異母姉が来た数日後だった。  病室で一人で居ると、異母姉のことばかりを思い出す。そこに「縁切り神社」という存在は強烈なインパクトを与えた。  そして、いつか母をここに連れて行こうと思ったのだ。  母は父親を愛しているようだから、別れて欲しいとは言いたくない。いや、言えば従ってくれるかもしれないが、悲しませたくはない。香菜もまた、父が嫌いではないから、だから神様が縁を切ってくれるのならば幸いだ。  高校生で神社の手伝いをしているという巫女を覚えていたのは、単に好きな顔立ちだったというだけだ。色白で、真っ黒の髪が、今時の高校生らしくなかった。  知り合ってみると、本当に今時の高校生らしくなかったけれど。 「絵文字とかさ、使えないのかね」  画面に向かって話しかける。 《いーよー》  その後に、親指を立てた絵文字を付けて送信した。  今時の高校生らしくはないけれど、香菜のこれまでを伝えても白い目で見なかった。哀れみもしなかった。  仲が良いと思っていたクラスメイトは、退院しても学校に来ない香菜に不満を感じていたようだった。学校に通うようになって、表面上では友達のように振る舞ってはくれたけれど、見えない溝があった。  結子とは、どうだろう。どうなるだろう。  できるなら、良好な友人関係が築ければ良いと、香菜はそう思うのだ。
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