新しい日常

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新しい日常

 春が過ぎ梅雨に入るまでの貴重な晴れ。新しい学年にも慣れてきて、中間考査はもう少し先で、皆、高校生活を楽しんでいるようだった。  これまでの結子ならば、そんな周りをぼんやりと眺めているだけだったのだけれど。 「お待たせー神崎さん」  成り行きとはいえ、友人と呼べるような関係ができた。  昼休み、中庭のベンチで江東香菜と食事をするのも日課となった。クラスが違うこともあるが、香菜との距離は近すぎず、かといって遠すぎず、心地いい。 「やっぱり外はいいよねー」 「うん」 「あ、神崎さん。ちゃんと日焼け止め塗ってる?」 「え? や、塗ってない、けど」 「もー! 今の時期の紫外線が一番強いんだってテレビで言ってるでしょ。見てないの?」 「見てないなあ……」  これまでならば、テレビを見ないなんて、と笑われていたけれど、香菜からそんなことを言われたことはなかった。 「そうだろうと思った」  それも、少しも嫌味を交えずに言うのだから不思議だ。むしろ見ないことを期待されていたような──そんな風にも聞こえるのだ。 「……だったら言わないでよ」 「ごめんごめん。でもさ、せっかく色が白いんだから、大事にしなさいって言ってるの」  はあい、と間延びした声で返事をした。空を見上げると、五月晴れとでも言うのだろうか。雨には縁のない青空が広がっている。この青空も、あとひと月もすれば雨雲に覆われるようになるのか。 「梅雨になったらどこで食べよう」  さすがに傘をさしてまで中庭で昼食──とはいくまい。 「食堂はヤだよ」  横で香菜が膨れた。 「私も。静かな所が良いね」  友里たちが居るかもしれないし、何より騒がしい場所での食事は食べた気がしない。 「梅雨入りまでに人気のない所探そ。で、どっちが良い場所見付けられるか勝負!」 「え? 勝負って、何……急に」 「だって勝負にした方がやる気出るでしょ?」 「それは──……まあ、確かに……」  勝ち負けがある方がやる気が出る、のだろうか。納得できたような、できていないような。結子は曖昧に首を傾げたのだが、香菜はぐいぐいと押し切る。 「よし決まり。負けた方がジュースおごりね。私、いちごミルク!」 「なんで? もう勝った気になってるの?」 「だってもう目ぼしい場所あるもん」 「……ずるい」 「ずるくない。伊達にダブってませんから」  本来ならば暗くなるような話題もあっけらかんと言うものだから、清々しい。自ら校内を歩き回ることをしない結子に、食事ができる静かな場所など見付けられる気がしなかった。それでも、こうして盛り上がるのは楽しい。自分が()()()でないというだけで。  食事を終えて一息つくと、香菜は必ず胸のポケットから櫛を取り出してこう言う。 「三つ編みしていい? 今日は時間があるから、おさげ」  結子の長い髪は毎日適当にひとつに結んでいるが、香菜はそれを解き三つ編みにしたがる。長いから編み応えがあるのだという。 「どうぞ」  結子もまた特にこだわりもないから、好きにしてもらっていた。平日だから、帰っても手伝いがないから癖が付いても構わないのだった。  櫛で髪を梳きながら、香菜は何かを思い出したらしい。あ、と素っ頓狂な声を上げた。 「縁結びのお守り。あれ可愛いねー。ありがと」  神社は縁切りの祈祷を止め、縁切りのお守りもやめた。並べるのは縁結びのお守り。  参拝客は今のところじわじわと減っている。梅雨に入れば更に減るのだろう。それもまあ、仕方のないことか。  いずれまた、縁結び神社として名が広まれば良い。先のことばかり考えるのではなく、今は糸を結び直すことが先だ。  香菜には、縁切りができなかったことのお詫びとして、縁結びのお守りを贈った。 「あのお守り付けてたら、良い縁あるかな」  香菜に、ではなく母親に、だろう。 「あるよ、きっと。うちの神様、面倒見が良いから」  結木様はどんな方かは知らないが、近衛が仕える神様なのだから、きっと素晴らしい方だろう。結子が糸を切るのを十年もの間方っておいたりと無茶苦茶なことをしているけれど。 「元々、縁結びの神様だったんだね」 「うん」 「なんで縁切りの神様になっちゃったの」  香菜にとっては何気ない疑問だったのだろう。敬意を知らなければ誰もが抱くだろうと思う。縁切りの神様が、急に真逆の立場になるのだから。 「いや──……その、ね……」  両親が別居していたことを話す。もちろん、赤い糸が見えること、赤い糸を切ったことは伏せて。 「……そっかー」  櫛が髪を通るのを感じる。丁寧に、優しく。香菜に髪を触られるのは 「神様も驚いただろうね。急に縁切りのお願いなんてされたら」 「ほ……本当だよね……」  その原因は他ならぬ結子にあるのだけれど。かなりの後ろめたさを感じながら頷いた。  これまで切ってきた赤い糸。その糸は様々なものがあった。近衛に糸結びを命じられてすぐの頃には意識しなかったけれど。  ぼんやりと、近衛との会話が蘇る。  参拝に来た人たちの糸を、何も考えずに切ってきた。他人の縁を切って欲しいと願いに来た人も居ただろうに。切らなくていい糸も切ってしまったのでは──。  香菜と寄り道をした日、近衛に相談をした。近衛は腕を組み、頷く。 『確かに、他人の縁切りを願いに来た者も居たな』 「だったら、なおさら早く結ばないと」 『確かに、早く結び直して欲しいが──まあ、落ち着け』 「でも」  近衛は三本、指を立てる。まずは人差し指に触れて説明を始めた。 『願いに来るのは、大きく三通りだ。交際している、もしくは結婚している相手との縁を切りたい』 「はい」  次いで、中指。 『公にできない関係の交際相手と、その伴侶。その糸を切りたい。要するに、不倫相手を離婚させたい、というものだな』 「……私、高校生ですけれど」  そういう話はあまり好ましくないと思うのだ。だが、近衛もまた容赦ない。 『これまで神崎がしてきたことだ。聞きなさい』 「はい……」  最後は、薬指。 『最後に、自分の伴侶とその不倫相手を別れさせたい。他にもあるのだろうが──大まかにはこの三通りだった。わたしの記憶している限りはな』  一つ目は、両親であったり友里であったり。二つ目は願いに来ても糸が誰とも繋がっていないからそもそも切るものがない。 『まあ、双方で不倫をしていて縁切りを願いに来る者も──』 「止めて下さい。不倫とか、不倫とか……不倫とか。……きもちわるい」  拗ねたように唇をとがらせる。 『そうは言うが、世の中にはそういうことをしている者たちも居るのだ』  不倫、と再度言わなかったのは近衛なりの配慮だろうか。 『それに、江東香菜を"きもちわるい"と思うか?』 「江東さんは不倫していませんし……」 『あの母御はしているのだろう』 「……」 『苛めている訳ではない。世の中には様々な人間が居る。それぞれの違いを否定していては誰とも付き合えんぞ』 「それは、確かに……そうですが」 『だからといって、今の日本で不倫は認められるものではないがな』 「今の、とは?」  不倫が認められる世の中があるのか・ 『昔ならば、一夫多妻であったろう』  正室であったり、側室であったり。正妻、妾──。  一人の男性が複数の女性を囲うのが当たり前、むしろ甲斐性だと思われていた時代は、確かにある。 「昔の話です」 『時代が変われば、価値観も変わるということだ』  それはそうかもしれないが。 『それはいいとして、だ。三つ目の場合は切る糸があるからな。願いとは異なる縁が切れたことになる』 「……まずいですね」  別れなくとも良い夫婦が別れてしまっているのだ。それは、まずい──そう思う。 『安心しろ、神崎』 「え?」 『糸を切った時点で充分にまずいことをしている』  確かに、そもそもがまずいのだった。 「ねえねえ、神崎さん」 「なに?」  名を呼ばれ、ぼんやりと近衛との会話に引きずられていた意識が戻る。 「あのね、"かんざきさん"って六文字でしょ。長いなあって思うの」  か、ん、ざ、き、さ、ん。一文字一文字、指を折って確かめる。確かに六文字。それが長いのかは分からないけれど。 「ゆ、い、こ、だと半分になる」 「うん」 「そして、もう一つ。大きなメリットがある」 「なに?」 「距離が縮まる」  近いような、けれどまだちょっと余所余所しさの残る距離。それが、呼び方ひとつでぐんと縮まる。 「え、と、う、さ、ん、は五文字」 「か、な、だと二文字だよ」  半分以下になるのか。  そして、また少しの沈黙。遠くで午後の授業開始の予鈴が聞こえる。 「もう、ちょっと……待ってね」 「うん」  いつ、名を呼ぼう。不自然でないのは。別れ際だろうか。だが、あれこれ悩まなくとも今だという時は分かる。きっと、人付き合いの苦手な結子のために用意してくれたのだろう。 「でーきた。今日は編み込みにしてみたよ。楽しかった!」  今、言うと良い、そうしないとタイミングがなくなってずるずると呼べないままになってしまうから。  そう、香菜から背中を押された気がした。 「ありがとう──……香菜」  振り向いて礼を言う。 「いえいえこちらこそ、結子」  そうして、目を見合わせて思わず吹き出した。  友里たちとも名前で呼び合っていたけれど、少し違う。足元がほんの少し、浮いているように感じた。単に浮かれているだけかもしれないけれど。  友里たちとの関係は、単なるクラスメイトのままだ。今はまだ近付けないけれど、そのうちどうにかなる、のだろうか。もう少し、成長すれば。  家に帰る前、神社をちらりと覗くと父が何度も頭を下げていた。縁切りを辞めてから、そんな光景を見る機会が増えた。幼かったとはいえ、結子の軽率な行動が父に頭を下げさせているのだと思うと、たまらなく申し訳なくなる。  相手は、父よりも年長であろう男性。  どうにかならないのか、と男性も中々引き下がらない。  その指には、先の切れた赤い糸。自然に切れたものではなく、切られたもの。結子の手で。他にも赤い糸が見えて、それを切ろうなどという不届き者が他に居なければ、の話だが。もう何度も見た、すっぱりと切れた糸。 「何か事情がお有りでしたら、お伺いいたしますが──」 「いや、それは……」  男性は詳しくは語らず、仕方なく諦めたようだった。渋々立ち去る後ろ姿を見送る。 「お父さん」 「ああ、おかえり結子」 「今の人──……」 「縁切りをしたいそうだよ」  まだまだ居るなあ、とため息をつく父の横で首を傾げる。  糸は切れているのに、切りたい縁。  香菜が母親の縁を切りたがっていたことに似ている。あの縁は──と、思い出して、さあっと血の気が引いた。
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