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切りたい縁
糸は繋がっていないけれど、切りたいもの。
それは、今繋がっている縁。それはきっと──あまりよろしくないものだ。
「結子、お父さん帰るまでに少し時間がかかるから──」
父が何か言っているが、その言葉は右から左へ抜けてゆく。
「ちょっと……用事、思い出したから」
「結子?」
呼び止められているのも聞かず、そう言い残し踵を返す。
なぜ、すぐにぴんとこなかったのだろう。そうすれば、引き止められただろう。父には無理を言って、どうにか理由を付けて御祈祷をする機会を作れば糸を結べたかもしれない。
こうしている場合ではない。すぐにでも後を追わなければ。
『神崎、どうした。落ち着きのない』
「近衛さん」
狩衣の袖をふわりと膨らませて、近衛が姿を現す。
『家に戻るのではないのか』
「糸を──」
そう言えば、近衛ならば察してくれるだろう。説明を全て放棄する。思った通り、近衛は察してくれたのだが、続いたのは母親のような言葉。
『夕食の時間だろう』
「それは、あの、後回しで」
『日も暮れる』
「多少は暗くなっても大丈夫です」
近衛と糸が繋がっているのだから、何かあれば伝わるはずだ。だが、近衛からの許可は下りなかった。
『熱中してくれるのは有難いことだが、そう慌てるな』
「でも」
過去に結子が糸を切った人物が、縁を切りたいと言っているのだ。わざわざ神社に足を運んで。これは好機ではないのか。
『急いては事を仕損じる』
「……でも」
それは分かっている。それでも、素直に頷いて従えはしなかったが、納得はできない。その葛藤から、反論の声は弱々しいものだった。
『糸を結ぶのが遅くなっても、結木様はお怒りになることはない』
近衛がそう言うのならば、そうなのだろう。以前ならば、本当かと疑っただろう。けれど、今ならばその言葉がすとんと落ちてくる。
「……もし、お怒りになられたら」
屁理屈なのは分かっていた。嘘ではないと思いながらそう訊ねたのは、もしかすると構って欲しかったからか。
『わたしが一緒に謝るさ』
「……」
『今日は、大人しく帰ろうか』
「はい……」
初めて近衛に会った時は、恐ろしさや理不尽さや──とは言っても、結子が悪いのだが──そんな負の感情しかなかった。
それが、実際はどうだ。
近衛の側の都合ばかり押し付けてくることはない。むしろ、結子のことをしっかり見てくれて、気にしてくれる。夜遅い時間に外を歩かせないし、放課後に用事があると言えばそれを優先させてくれる。むしろ、結木様の立場が心配になるほどなのだ。
『どうした』
「近衛さんは優しい方だな、と」
そう言うと、近衛は綺麗な顔を顰めてしまう。
『世辞を言っても、紙束の厚みは変わらん』
「はい。それは──分かっています」
お世辞などではなく、心からそう思うのだ。
近衛が居なければ、香菜と友達にはなれなかっただろう。
神使として仕方なく──であっても。結子にとっては有難いのだ。
食事を終えて、結子の部屋。紙束を挟んで向かい合う。近衛は座る姿まで絵になりそうだった。
『あの男がどこに住んでいるか、事前に調べてからの方が何かと都合が良いだろう』
「駅で結ぶ時は名前も確認しなかったじゃないですか」
『その場に糸を結ぶ相手が居るならば別の話だ』
「なるほど」
はらり、とかすかな音を立てながら紙が捲られる。
『ふむ』
村上光也
村上千鶴
「まだ、離婚はされていないのですね」
そのことに、少し安堵する。両親と同じように別居しているのだろうけれど。
近衛の指が、紙の上をなぞる。名前の字から、何かを読み取るように。いや、実際に読み取っているのだろう。
『住まいは──近いな』
「でしたら、明日の帰りに寄りましょう」
やや前のめりになりながら言うと、近衛は苦笑を浮かべながらも頷いてくれた。
「他に、分かることはあるんですか?」
『他に? 何が知りたい』
「いや──……」
何が知りたいか、と訊ねられると返答に困る。情報はあれば役に立つかもしれないが、知りすぎるとプライバシーに踏み込むことになる。
答えに窮する結子を見て、近衛は笑う。
『案ずるな。わたしもそう多くは分からない。結木様であれば、何を願われたのかも分かるのだがな』
「近衛さんには分からないんですか?」
『当然だ。皆、結木様に願っているのだからな』
「確かに、それは……そうですね」
いつも見守ってくれるお礼と、これからのささやかな願い事。それを聞くのは神使ではなく神様の務めだ。御祈祷を受けたのならば、神職がそれに多少触れることはあっても、深い心の中までは分からない。
『結木様にお訊ねしてみようか』
「え!?」
『必要なことであれば、もしかすると教えて下さるかもしれない』
何しろ、結木様の進退もかかっているのだから、と言う表情は、冗談とも本気ともつかない。
「いえ、それは──……むしろ、この紙に記されている方々は被害者でもありますし……」
『大げさだな』
笑いながら、紙束が仕舞われた。
学校の最寄り駅のひとつ隣、家からは逆方向にある駅が、木村夫婦の住まいに近い。放課後、近衛の案内を受けながら見知らぬ街並みを歩く。駅を中心に、放射状に街が開けていた。昔ながらの商店街には、惣菜屋、本屋、喫茶店、と地域に馴染んだ店が続く。そこを、夕食の買い物を終えた主婦やお小遣いを握りしめた小学生が彩りを添えていた。
『そこの角を左に曲がった先にある店のようだ』
洋菓子 ムラカミ
そこが、今日の目的の店。夫婦のどちらかの住まい。
商店街を真っ直ぐに抜けて、角を左に曲がる。そこに、洋菓子ムラカミはある──筈、だった。
いや、店舗としては存在するのだ。白と赤のストライプのテント。そこに、店の名前が確かに書かれている。
だが、シャッターが下ろされている。
今日がたまたま店休日なのだろうか。しかし、どうも雰囲気はそれとは違うように見える。張り紙がしてあったのだろうが、風雨にさらされて剥がれ落ちてしまっているのだ。今日だけが休みならば、そんなことにはならないだろうから。
『休みか』
「そうみたいですね」
『どうするかな』
「お店の後ろが家だったりしませんかね」
せっかく来たのだから、多少の前進を求めてしまう。それとも、帰った方が良いのか。そう考えていると、不意に声を掛けられた。
「あなた」
びく、と肩が跳ねてしまう。近衛の声は聞こえないから、独り言を聞かれてしまったのだろうか。不審者として見られたなら、二度とこの辺りを歩けなくなる。まだ糸を結ぶどころか村上夫婦のどちらとも会えていないのだ。それは避けたい。
「は、は、はいっ!」
できるだけ不審がられないように返事をしたかったが、意識すればするほど怪しくなってしまう。恐る恐る振り返ると、人の良さそうな主婦の姿があった。
「このお店に来たの?」
「は──……い、……そう、です」
みるみる力が抜ける。確かに、冷静になって考えればそうだろう。洋菓子店に何をしに行くか。買い物に決まっている。警戒しすぎていたのだ。
「もうずいぶん前にお店を畳まれたのよ。美味しかったのに、残念だわ」
「そうなんですか」
「残念ねえ……」
主婦は会釈をして立ち去る。結子もそれを見送っていたのだが。
『どうして休んでいるのか、今なら訊いてもそこまでおかしくはないだろう』
近衛に囁かれて気付く。なるほど、そうか。そんなことをしてもおかしくなかったのか。
「あの」
そう呼び止めると、主婦は不思議そうな様子で振り返る。
「いつから──どうして、お店を閉められたんでしょうか……」
踏み込んだことを訊ねるのは妙だろうか。そう思うと、理由を言わなければいけないような気がして、慌てて続ける。
「いえ、あの、いつかまた営業されるのか、とか」
これだけではおかしいだろうか。考え始めるときりがない。
「母が、ここのケーキを好きだったものですから」
結局、嘘に嘘を重ねて罪悪感で押しつぶされそうになった頃に、主婦が結子の質問を引き取る。
「そうねえ。私も食べたいけれど、難しいんじゃないかしらねえ……」
『こういう時は、短い相槌を打っておく方が良い』
近衛のアドバイスと主婦の言葉とで頭の中がごちゃごちゃになる。人の良さそうな主婦は、幸いにも話し好き、噂好きなようだった。高校生が相手でも、知っていることを教えてくれる。
「そうなんですか」
「奥さんが、ねえ」
「はあ」
「お若いのに──」
若いのに。主婦特有の、というのだろうか。重要なポイントをぼかしている話し方は、何か事情があるのは伝わってくるが、その事情が分からない。
「何かあったんですか?」
「ほら……」
主婦は口元を手で隠しながら、声を潜めた。
──癌で。
言葉にも重みがあるのかもしれない。聞いた途端に、身体が重くなったように感じる。それはきっと、錯覚なのだけれど。
主婦は話したいことをひとしきり話して満足したようだった。適当なところで切り上げて、立ち去る。近衛と共に、結子は店の前に立ち尽くしていた。
『帰るか』
「……はい」
近衛に言われて、ようやく身体が動く。脚が鉛になったように重い。
二年ほど前のことだ。村上千鶴に、癌が発見された。
それまで咳をしていたが、風邪だろうと判断し薬を飲んでいたが中々治らない。近所の診療所で診てもらっても良くなる気配がない。時間を見付けて市立病院に行き、これは大きな病院で診てもらった方が良いと大学病院を紹介され、肺に癌があると告げられた。
村上光也はすぐさま店を閉め、妻の看病をしているのだという。
恐らくは商店街界隈で情報のやり取りがなされたのだろう。まるで見てきたかのように、主婦は事細かに説明してくれた。
離婚はしていないのだという。元々、仲の良い夫婦で、病にかかったからといって離婚をするような仲ではなかったそうだ。だが近頃は、一緒に居る所を見ないという。
病状は一進一退、病院だけでなく頼れるものには何でも頼っているような状況なのだという。温泉や、神頼み。
──神頼み。
電車に揺られながら考える。
村上夫婦がお参りに来たことを覚えてはいない。一人で来たのか、それとも夫婦で連れ立って来たのか。結子はただ、お参りに来た人たちの糸を何も考えずに切っていたのだから。縁切りの神社なのだから、赤い糸が繋ぐ縁を切りたいのだろうと信じ、疑わなかった。
けれど、もし──村上夫婦がそうではなかったら。
切りたい縁が、夫婦を繋ぐ糸ではなかったら。
電車を降り、改札を抜け、帰路を急ぐ。日は傾き始め、夜がじわりと広がり始めていた。
近衛は、夫婦が何を願ったのかは知らないだろう。だから訊かなかった。いや、それだけでなく──訊けなかった。怖かったのだ。事実を突きつけられるのが。
──癌と、縁が切れますように。
そう願っていたのなら、結子は切ってはならない縁を切ったことになる。
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