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結びたい縁
暗くなり始めた道を歩いているからだろうか。ぽとりと落ちた不安の種はみるみる育ち、芽を出して結子の中に根を張る。このまま放っておくと葉を出し花開き、きっと結子は不安に蝕まれる。
自分の罪はどれほどのものなのかが知りたい。知りたいが──怖い。
『神崎』
近衛の声も、聞こえてはいるが返事をする余裕がなかった。
神社の鳥居の前に着いたときには、辺りはもう暗くなっていた。茂った木々が影となり、鳥居の先はより一層深い闇に包まれていた。
『神崎、今日はもう──』
帰宅を促す近衛の言葉を遮るように、首を振る。
「確かめないと」
それはもう、近衛への返事というよりも独り言だった。暗い参道を突っ切り、拝殿の横に造られた絵馬所へと急ぐ。明かりはなくとも、幼い頃から知った境内だ、目を瞑っていても歩ける。暗闇を怖いとは思わなかった。
鞄からスマートフォンを取り出し、ライトを点す。ほんの僅かの範囲であったが、明るくなる。
鞄を足元に放り出し、絵馬を掴んだ。カラン、と絵馬同士がぶつかり音を立てる。
絵馬は定期的に回収して倉庫に仕舞っていた。神社によってはお焚き上げをするのだが、今のところ結木神社は全ての絵馬を保管していた。元は小さな縁結び神社で、その頃は絵馬を奉納する参拝者は少なかった。どっと増えたのは、この十年の話なのだ。結子の代になれば、どうするかという問題が出てくるだろうが──それはもう少し、先の話。
それよりも、今は村上夫婦の願い事が知りたかった。
縁切りを願う人の多くは、絵馬を書く。村上夫婦も──参拝が夫婦揃ってであったのか、それとも一人であったのかは分からないが──書いた可能性はある。
二年前に病が分かったのならば、まだ回収されておらず、ここに掛けられているのではないだろうか。
絵馬には、黒のマジックでそれぞれの願いが書かれていた。比較的新しいものや、雨で字が滲んだもの。軽い文章で書かれたものから、びっしりと絵馬に縁切りに至る経緯が書かれたもの。
《浮気性の彼氏と別れられますように。》
「ちがう」
無意識に安堵の息が漏れた。──大丈夫。
《妻が離婚を承諾してくれますように。》
「これも」
探しているものではない。──大丈夫。
《旦那と別れたい。》
「ちがう」
違うのだ、どれも。伴侶と縁を切りたいのならば、それでいい。けれど、そうではなく──いや、何と書かれた絵馬が欲しいのか。
そもそも、こんなことをするよりも先に、近衛に頼み、結木様へ訊ねるのが一番なのだろう。そうすれば容易に事実が分かる。
分かっていてそれが出来ないのは、受け止めるまでの器がないからだ。逃げていると分かっているのに、向き合えない。
『神崎、落ち着け』
「でも、私、切っちゃいけなかったのに──」
言いかけた言葉が途切れた。何を言っているのだ。絵馬を見て、何を安堵しているのか。何が大丈夫なのか。
そもそも、糸を切ってはいけないのだ。それなのに、これまでどうにかなっていたから、なんだ大丈夫じゃないかという気持ちになっていた。
近衛が姿を見せた夜に説明された時は怖かったはずなのだ。自分のしてきたことが。だが、次第に感覚が麻痺していたのか。
この前、近衛に言われたばかりではないか。そもそも、糸を切ること自体が悪いのだと。見えるからと言って、何も考えずに切って、だからこんなことになるのだ。
「どうしよう、近衛さん、私──わたし……」
もしかすると村上夫婦の他にも、人ではなく病や悪い癖との縁を切りたいと願った誰かが居たかもしれない。あの紙束の中の誰か。
絵馬がぶつかりあい、カラカラと音を立てる。それが、結子の焦燥感を煽るのだ。
『結子!』
その、通る声にようやく結子の手が止まる。冷たい手が肩に触れた。温もりはないはずなのに、不思議と暖かい。
『大丈夫だ。大丈夫だから、安心しろ』
何を根拠に、そんなことを言うのだろう。それなのに、そう思いながら、しかし近衛が言うのだからきっとだいじょうぶだと、そんな安心感もある。
涙が、次から次に溢れてきた。
「……ごめんなさい」
『よしよし、泣くな』
「ごめんなさい──……近衛さん」
大きな手が頭を撫でる。そのまま、狩衣の胸元に押し付けられた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……結木様……」
ごめんなさい──ごめんなさい。いくら謝っても謝り足りない。どれほど重大なことか。どれほど皆を不幸にしていたのか。
人の立場でありながら、他人の縁を勝手に切ることの恐ろしさが、ようやく分かった。
不倫をするから駄目なのではない。浮気をするから、結び直さなければならないのではない。
そもそも、結子が手を出してはならないことなのだ。
「私、ばかだ……」
ようやくそれに気付くとは、本当に愚かしい。
『どうして、わたしに相談しない』
「だって」
少しでも、役に立つと思われたい。何も出来ない奴だとは見られたくないのだ。
それを伝えたかったが、嗚咽がこみ上げてきて言葉にできない。
『何のためにわたしが居ると思っているんだ』
何のため、とはよくよく考えたことがなかった。
「……見張る、ため、ですか?」
結子が間違った糸を結ばないように。怠けず、ちゃんと結ぶように。そのためのお目付け役ではないのか。
『それもひとつ、役目としてはあるな』
「まだ、他にも……あるんですか?」
しゃくりあげながら訊ねると、近衛は思わずといった様子で吹き出した。
『ずっと手伝いをしていたろう』
糸を切られた者同士を引き合わせてくれていた。それは──確かに。
「はい」
『わたしは、おまえの相棒のつもりで居たのだがな』
「あいぼう、ですか」
相棒。一緒に仕事をする、仲間。
近衛はそう見てくれていたのか。
『薄情なやつめ』
「すみません」
顔を上げると、近衛の指が目元の涙を拭う。冷たい指がひやりと心地良い。
『あまり泣きすぎると目が腫れる』
「はい」
『深呼吸をしてみろ』
深く息を吸って、吐いて──それで少し、気持ちが落ち着いた。
『何度も言うが、放っておいた結木様にも非はある。自分だけが悪いのだとは考えるな』
「……」
けれど、それは責任転嫁だろうに。素直に頷けないでいると、近衛は返事を再度求める。
『分かったな』
「……はい」
『まずは、糸を結ぶことだけを考えておけ。近いうちに、また村上光也が来るように手配しておく。そうだな、父御に御祈祷を受けるように提案しておくと良い』
「どうやってですか?」
もう、縁切りの祈祷は受けないことにしたのだ。それを今更、どうやって引き受けさせるのだ。
『結木神社は、縁結びの神社だろう?』
「はい」
『ならば、切りたい縁でなく結びたい縁を願えば良い』
切りたい縁でなく──結びたい縁。
「健康、と……」
正解とも不正解とも言わなかったが、きっと謝りではないとは、その表情を見れば分かった。
『そう、提案してみろ』
泣き止んだのを確認した近衛は、結子を離す。
『結木様に話をしてくる。案ずるな、全て上手くいく』
「すみません……私は、何もしないで」
『ばかを言うな。わたしでは糸を結べないのだ。互いに、出来ることをすれば良い』
それは近衛なりの慰めなのだろう。今はそれがありがたい。
家まで送るという近衛の申し出を断り、家に帰る。夕食の支度を整えて待っていた父は、結子の姿を見てようやく安堵したようだった。
「食べなかったの?」
いつ帰るかも分からなかったのだ、先に食べていれば──と思ったのだが。
「おまえが帰っていないのに食べられるか」
心配して待っていたんだ、と小言が続く。今日は、そう遅くならないだろうと踏んで連絡を忘れていたことに気付く。
「……ごめんなさい」
今更のようにスマートフォンの画面を見れば、父からの着信が何件も表示されていた。
「まったく、何のための携帯電話なんだ」
それはまあ、その通りで何も言い返せなかった。
「気をつけます」
「まあ、今までが遊ばなすぎたんだろうな」
「……でも、だからって心配かけて良いことにはならないし」
いつもより遅くなった夕食を取りながら、ちらりと父の様子を伺う。何と前置きをして話を振ればおかしくないか。
「近頃、忙しい?」
「どうした、遊びに行きたいなら行ってきて良いんだぞ。ちゃんと連絡さえしてくれれば」
「いや、その。昨日も縁切りの御祈祷をして欲しいって方が来てたけど。どうなのかなあって」
「ああ──……」
遠回しに、不自然にならないようにと振ってみた話題は、そうおかしなものではないようだった。
「そうだなあ。まだ、縁を切りたいという人は多いなあ」
口コミで拡散された縁切り神社の噂は早々に消えるものではないか。これから、恐らくは倍以上の時間をかけて消さなければならないのだろう。
ならば、村上夫婦だけでなく、結子にも関わってくる話になるか。
「あのね、考えたんだけど──」
「どうした」
「いや、あの。子どもの浅知恵だけどね。参考に、ね……」
「うん、言ってみなさい」
父は笑って、先を促してくれた。
「営業みたいで嫌かもしれないけど、縁を切りたいって人が来たら、逆に縁結びの提案をしてみたらどうかなって……」
「縁結びの?」
「いや、その、逆の発想というか。縁を切りたいなら、縁を結びたいものがあるかもしれないでしょ。結木神社は縁結びの神社だっていうのもアピールできるかなって……」
最初は良いと思えた案も、口にしてみると何だか穴だらけのものに思えてくる。咄嗟に考えたものだから、それは致し方ないのだろうけれど。
それでも、父は笑い飛ばすことも馬鹿にすることもなく、黙って聞いてくれた。
「結子も考えてくれているんだな。ありがとう」
「いや、その──」
神社のことよりも先に、犯した罪の償いのためだが──。いや、それも回り回って神社のためになるのか。結木様の進退がかかっているのだから。
「そうだなあ。断ってばかりも駄目だな」
うん、と父は頷いてくれた。どこまで伝わったかは分からないが、結子ができるのはここまでだろう。これ以上の口出しは、父娘とはいえ神職である父に失礼だ。
「だから、その、無理はしないで、ね」
「ありがとう」
父がどこまで結子の案を採用してくれるのかは分からないが、何も言わないよりはましだろう。部屋に戻り、ベッドの上に身体を投げ出す。そうして、長い長い一日を振り返る。
洋菓子ムラカミの前で話を聞いて、神社に戻って──。
結子、と呼ぶ声が蘇る。
そういえば、初めて名を呼ばれたのだ。名字で呼ばれるよりも──呼ばれるよりも。
呼ばれるよりも、なんだ。
抱き締められた腕を思い出し、じわじわと頬が熱を持つのが分かった。今更、何を照れているのか。
近衛は、結子を相棒と思って慰めてくれたのだろうに。
思い出して、照れるなど近衛に失礼だろう。それは分かっているが、どうにも落ち着かない。だから、近衛の不在は幸といえば幸いだった。朝になれば、落ち着いているだろう。
いつもと変わらぬ朝が来て、今日はどうする、と簡単な打ち合わせをして。
──だが。
朝、近衛は姿を見せなかった。話が立て込んでいるのだろうか。夕方には話ができるだろうと思ったが、学校から帰り神社を覗いてみても、近衛は姿を見せないまま。
こんなにも長い間、近衛と顔を合わせないのは初めてのことだった。
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