村上光也

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村上光也

 村上光也は、妻の千鶴とは家が隣同士だった。歳は千鶴が三つほど下だった。物心ついた頃には隣に居るのが当たり前で、だから明確に、いつ恋をした、ということを光也は覚えていなかった。  成人して、そうするのがごく当たり前であるかのように籍を入れた。  子宝には恵まれなかったが、夢だった小さな洋菓子店を持つことができた。  ささやかながら幸せだと思っていた矢先──。  ──風邪か?  ある時から、千鶴がよく咳き込むようになった。それも、痰がからむようなものではなく、空咳である。  市販の風邪薬を飲んでみたが治らず、客商売であったから、病院に行ってみるように進めた。近所の小さな診療所で薬を処方してもらったが、それでも治る様子はなかった。  ──病院に行っても治らないし。  薬を全て飲みきっても治らない千鶴は、そう言っていた。マスクをして、接客はアルバイトに任せて、あまり表に立たないようにしていたが、その頃から背中が痛いと言うようになった。  今度は市立病院の整形外科にかかった。  原因は分からず、リハビリをしてみたが一向に治らず、次第に千鶴はふさぎ込むようになった。  そうして、大学病院の心療内科に罹って──検査をしたのだ。  光也はその日、店を開けていた。千鶴は一人で車を運転し、病院に行ったのだ。昼過ぎに電話がかかってきた。  電話口の声は、明るかったように思う。  ──癌だって。肺の。転移してるみたい。  そのまま入院となった。千鶴は帰ろうとしたそうだが、大学病院というものは入院待ちの患者が多いのだそうで、緊急入院でねじ込まなければ順番待ちになってしまうのだという。  すぐさま店を閉めて病院に向かった。  なぜ、一人で行かせたのだろう。千鶴は一人で、どんな思いで医者の話を聞いたのだろう。考えれば考えるほど気持ちが沈んできた。  病室で、千鶴は何度も謝っていた。  お店を閉めたこと。入院になったこと。病にかかったこと。  何も悪いことはしていないのに、むしろ一人で病院に行かせたことを謝らなければならないのに。  喋ると涙が零れてしまいそうで、だから光也は始終ぐっと歯を食いしばっていた。  担当医師からの話は、あまり良いものではなかった。  進行度合いを示す、ステージ。五年生存率。これまでの生活には全く馴染みのなかった言葉が次々に伝えられる。最初はそれらを整理するので精一杯だった。  投薬での治療が始まり、しばらくして千鶴は退院した。退院したからといって今までのように働ける訳でもなく、店は畳むこととなった。  アルバイトには理由を話して申し訳ないが辞めてもらった。  病院に通いながら、癌に効くというものは片っ端から試してみた。  いい温泉があると聞けば、遠くまで車を走らせた。  それでも、千鶴の髪は抗がん剤で薄くなり、元々細かった身体はさらに細くなっていった。  ある時、テレビで取り上げられていた神社を見て、千鶴は興味を示したようだった。  ──世の中には、面白い神社があるのねえ。  そこは、特に若い人たちの間で話題になっている神社のようだった。よく縁が切れるのだという。  近頃の若者は、別れ話も自分から切り出さないのかと、光也は少し呆れもした。呆れた後で、そういえば自分も別れ話など誰にも、一度もしたことがないと思い出し、苦笑する。  ──お参りしたら、私の縁も切れるかしら。  何の縁を、と訊き返しそうになって、すんでのところで言葉を飲み込む。千鶴が切りたい縁ならば、病との縁に相違ないだろう。  ──試してみようか。  そうと決まれば、すぐにインターネットで場所を調べた。幸いにも、神社は近くだった。  車を走らせて着いたのは、思っていた以上に小さな神社。鳥居の先には真っ直ぐに伸びた参道が続く。境内には木々が生い茂り、そしてテレビに取り上げられたからだろう、境内は人が大勢居た。それぞれ、手を合わせて何やら願い事をしている。その間を、テレビでも見かけた若い巫女が駆け回っていた。手には何かを握っているようだった。  折角だから、御祈祷をして絵馬を書いて──そのつもりだったのだが。  ──そこまでしなくていいわよ。  千鶴はそう言って笑った。  ──人が多いし、待つのは疲れるから。  実際、千鶴の体力は落ちていた。順番を待って、祝詞を聞くのは確かに疲れるだろう。後日、改めて光也一人で来ても構わないだろう。だから、拝殿にお参りだけをした。  例の巫女が、二人の傍に来た。その時、ようやく手に握っていたものが何か分かった。  ──チョキン!  糸切りバサミだった。  切ったものは何もなかったが、他人の手元にハサミを向けるとは何事だろうかと思った。  だが、文句を言う者は誰ひとりとして居ない。  ──ああしてもらえると、よく縁が切れるそうよ。  だったら、と引き下がり帰宅した。  少しはお参りの成果もあるかと期待したが──困ったときの神頼み、これまでお参りを疎かにしてきたせいか、定期検査の結果はあまり良いものではなかった。  季節が移り変わり、千鶴は何度目かの入院をした。  入院先は、呼吸器内科。個室は寂しいから嫌だと言って、いつも大部屋だった。千鶴はいつの間にか友人を作り、いつも楽しそうにしていた。  ──へんねえ。  ある時、見舞いに行った光也に、千鶴は不思議そうに首を傾げた。  ──縁切り神社なんて、やっぱり嘘なのかしら。  そんなに信じているとは思わなかったから、光也は少し驚いた。そして、ならばもう一度改めてお参りをすると伝えた。  帰り際、千鶴から妙なことを訊ねられた。  ──ねえ、あなた。私のこと、好き?  好きか嫌いかなど考えたこともなかった。  そんなことを考えるのは、余裕のある人間くらいだ。誰のせいで余裕がないと思っているのか。苛立ちを覚えたが、千鶴にあたっても仕方がない。何より、辛いのは、苦しいのは本人なのだから。  病院からの帰りに、光也はあの神社に寄った。今度は絵馬を書いて、御祈祷を申し込めば千鶴も満足するのではないかと思ったのだが──神職の男は、もう縁切りに関することを受け付けていないのだという。どうにか食い下がってみたが、駄目だった。病のことを持ち出せばあるいは、と思ったが、それは何となく嫌だった。  調べてみれば、その神社──結木神社は、元を正せば縁結びの神社なのだという。神社の氏子に何か言われたのかもしれない。寺社仏閣も近頃は大変だと言うではないか。  そう納得させようとしたが、千鶴の顔がちらついてしまう。光也自身のことならばどうにか諦めがついただろうが、千鶴のこととなると、後悔したくはなかったのだ。  そして──結局、もう一度、鳥居を潜ったのだ。
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