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思いがけない
近衛が姿を見せなくなって、一週間が過ぎた。空気はじっとりと湿度を孕むようになり、肌に纏わり付く。衣替えの移行期間に入り、結子も早々に夏服に袖を通した。重かった身体が少し軽くなった気がした。
登校前、鳥居を潜り神社へとお参りをするのが決まりごとになった。
鈴を鳴らし、一礼。手を打つ。決められた作法通りに。
結子がお参りしたところで相手は神使なのだから、結子のお参りひとつなどどうでもいいのだろうとは思う。分かっているのだが、毎朝自然と脚は神社へ向いていた。
手元から、糸は確かに伸びていた。まだ近衛とつながっているであろう、糸。これを引けば、どこかに居る近衛が戻ってくるのだろうか。
だが、もし重大な務めの最中であったら?
糸を結ぶよりももっと、重要なことがあるのだろうか。
試してみようかと糸に触れてみる。少し力を込めて引けば──。
引けば良いのだが、結局できなかった。
「そのうち──戻ってきますよね」
誰にともなく呟いて、頭を下げる。近衛が戻ろうと戻るまいと、時間は過ぎてゆく。定期考査の時期も近くなった。梅雨入りも近い。
とりあえず、と踵を返して学校へと急ぐのだ。
神崎結子は、勉強が好きではない。だが特に嫌いという訳でもなく、学生なのだからそういうものだという認識を持っている。
こんなことを勉強して将来の何に役立つのか。そんな議論は馬鹿馬鹿しいと思う。
役に立つかもしれないし、立たないかもしれない。いくら不必要だと声を上げても、それが今の社会の決まりごとなのだから、従わざるを得ない。不必要だと思うのならば、自分がそれをどうにかできる立場に就いて変えてしまえば良いのだ。
だが、ひとつ。
体育は不要──いや、せめて選択授業にしてはもらえないだろうか。
学校指定の体操服とハーフパンツに着替えて、体育館に向かう道のりは刑期を言い渡される囚人のようだった。
体を動かしたいのならば、放課後の部活動がある。そこで各々が好きなスポーツに興じている。それで良いではないか。なぜ、わざわざ体育という時間を設けるのだろう。しかも、生徒によって身体能力は異なるのだ。それを無理やり同じクラスだからといって同じ競技を強要するのは如何なものかと思う。
せめて個人競技であれば納得もできよう。身体能力が低かろうと、誰にも迷惑をかけないで済む。
だが、団体競技。あれはどうにかして欲しい。失敗をすれば非難が集中するのだ。
体育の時間の改善は、今後の学校運営の大きな課題だと思っている。
あれこれともっともらしい理由──それも、途中で破綻している──を並べ立てたが、要するに結子は運動音痴なのだ。単なる我儘である。
体育館に着いて、用意されているバレーボールのネットを見て周りに悟られぬようにため息をついた。
「あー、なにネット貼ってんの」
背後から、通る声が聞こえた。振り返ると、まだ若い女性の姿。Tシャツにジャージを着て、髪はさっぱりとしたショートカット。体育の担当教員である。歳が近いから、皆から慕われている。
「え、先生、ネット用意してって言ってませんでした?」
「言ってない言ってない」
「でも、パスの練習飽きましたー」
「試合がしたいです、先生」
「じゃあ、ラジオ体操ちゃーんとできたらね」
「やったー!」
大喜びするクラスメイトの様子を見て、結子は一人、がくりと肩を落とした。今日は、ラジオ体操も気を抜けない。
先生も先生で、ラジオ体操の後は試合をすることに決めていたのかもしれない。今更、用意してあったネットを片付けるのも面倒なのだし。適当にチームが決められ、結子はコートの端に追い遣られる。有難いことに、運動音痴は皆が知ることだった。それでも、無理をしないで、でも取れるボールは取って、と少々無茶な要求をされたのだったが。
それでも、及び腰になりながらもどうにかボールを返していた。ボールは大きく弧を描き、高く上がる。
コートの中を走り回るクラスメイトの指には、綺麗な赤い糸。繋がっているもの、繋がっていないもの。様々ある。
あの糸は、どうなっただろうか。もう切れてしまったのか。同じチーム、コートの中央に立つ大倉友里の手元を見る。
友里の赤い糸は、まだ切れてはいなかった。糸の先は、川端雅史の小指だろうか。出来れば、そのまま繋がっていて欲しい。もし誰か別の相手であっても、一歩を踏み出せたということだ。
これまで糸を結んだ人たち、皆がそうやってこれまでのことを精算して前に──。
「あー!」
「神崎さん!」
「前! 前!」
周りが騒がしい。友里がこちらを向いている。盗み見ていたのを気付かれて少々居心地が悪い。だが、その友里は何かを必死に指差していた。
「え?」
指さされた先には、白い──いや、黒い?
そう思った時にはもう、何かが顔にぶつかっていた。
試合中によそ見をして、飛んできたボールを受けることも避けることもできず、顔面にぶつけてしまった。倒れてしまったが意識はある。
この時ばかりは近衛が居なくてよかったと心から思った。
「だいじょーぶ!?」
「顔面? 顔面いっちゃった?」
「頭打ったの?」
「ほんっと、ごめん!」
倒れた結子の周り、ざわざわと人垣ができる。
「や、私がよそ見してただけだから……」
大丈夫、と笑ったのだが、騒ぎは収まるどころか一層激しくなる。
「保健室行っておいで」
「保健委員誰だっけ」
「神崎さん付き添ったげてー」
「そんな、大げさ……」
だが、鼻の辺りに違和感がある。生暖かいものがたらりと皮膚を伝っているような──。
「鼻血出てるの」
なるほど、と納得がいった。その後は有無を言わさず誰かが肩を掴み、立ち上がらせる。
「保健委員とかいいから、私連れてく。ほら、行くよ」
そう声を掛けてくれたのは、友里だった。
「あ、うん……ごめん、ありがと……」
「じゃー試合続きー」
少しの中断を置いて、試合が再開される。結子を囲んでいた人垣も崩れ、元のポジションに戻ってゆく。結子と友里が抜けた穴は他のチームから入れるようだった。授業での試合だから、どうにでもなる。
結子は、友里と共に体育館を後にした。
「失礼しまーす」
友里がそう言って扉を開けると、保健室特有のにおいが鼻をついた。薬品や、消毒用アルコールのにおい。
だが、ちょうど席を外しているのか、もぬけの殻だった。休んでいる生徒もいない。
「じゃ、勝手に使わせてもらいまーす」
誰もいない養護教諭の机に向かって断りを入れると、棚から何やら取り出す。
「ほら、入って閉めて」
「あ、うん」
そうして、綿やらガーゼやらを手渡すのだ。
「あとは詰められるでしょ」
「うん、ありがと」
壁に掛けられた鏡で鼻の下を拭いガーゼを詰める。これで放っておけば、そのうち止まるだろう。授業に戻っても隅で見学をするしかないだろうけれど。
だが、友里は戻るどころか堂々と長椅子に腰を下ろした。
「じゃ、チャイム鳴るまでゆっくりしてよ」
「体育館に戻らなくていいの?」
「体育嫌いなのに、変なとこで真面目だよね」
「ああ……うん」
「鼻血が止まらなかったとか適当に言うからいいよ」
そう言われては、結子だけ戻る訳にもいかない。壁の時計を確認する。授業が終わるまであと三十分弱。なにを話せば良いだろう。
居心地の悪い沈黙を破ったのは、当然というべきか友里だった、
「なんで私の方見てたの」
だが、あろうことかさっきの件を持ち出される。
「え、っと……その」
「何か付いてた?」
「ううん」
言っていいものかどうか。適当に誤魔化そうかとも考えたが、そんな器用なことはできない。結局、言葉を選びながら事実を伝える。
「その後、どうかなって」
「どうって?」
「川端くんと」
「あー、それ。ていうか興味ないでしょ?」
確かに、そう言うだろうと思う。実際、それまで興味などなかった。それは結子には何の関わりもないことだったからだ。だが、今は違う。気になる。友里が嫌でなければ知りたい。
「ある」
「めずらし。誰かのおせっかいのお陰で、どうにか続いてます」
「そっか」
良かった。友里の小指の糸は、あれから切れていないのだ。きっと、もう結び目も馴染んで消えてしまっている。
対して、結子の手元は。近衛と繋がっている糸は、切れてはいない。だが、ボールが顔面に直撃しても姿を見せなかった。命にかかわることではないからだろうけれど、やはり落ち込むのだ。ため息が漏れた。
「どうしたの?」
「え?」
「最近、ぼーっとしてる時があるけど。何かあったの。……前もぼーっとしてたけどさ」
そんなに、ぼうっとしていたのか。
「川端のことでお世話になったから、少しは役に立とうかなって思ってんの」
「……うん。ありがと」
友里の厚意は嬉しい。だが、近衛のことをどう話せば良いのだろうか。
「話したくないなら、いいけど」
「ううん」
話せば、少し気分が変わるかもしれない。どう言えば伝わるか、事実をぼかしながら、けれど嘘が混じらないように。
「お世話になってる人が居て。いつも私のことを心配してくれるんだけど。近頃、会えなくて」
「うん」
「多分、仕事が忙しかったりとかで、大したことじゃないとは思うんだけど、心配で」
間違ってはいない。近衛が神使だということを隠しはしたけれど。友里は少し間を置いて口を開く。
「仕事っていうなら、社会人?」
「うん、まあ……」
そもそも、人ではないけれど。
「じゃあ、高校生には分からない事情があるんじゃない? もうちょっと待ってみたら、連絡があるかも」
「そう、だね」
糸はまだ繋がっているから、近衛との縁が綺麗さっぱり切れてしまった訳ではない。もう少し、待ってみよう。自分一人で言い聞かせるよりも、力が出る。そうしよう、という気力が湧いてくるのが不思議だった。
「その人、男の人? 女の人?」
「男の人」
恐らく、そうだろう。だが、次いだ友里の質問に、頭が真っ白になる。
「──好きなんだ」
「へ? や、好きとか、そういうのは……私がそんなこと思っちゃいけない相手というか……」
「え、既婚者?」
「ちがう」
首を横に振ってすぐさま否定する。それはない、と、思う。神使の妻帯が可能かどうかは知らないが、想像してみようとして──すぐにやめた。何か、嫌だ。
「じゃあ、問題ないでしょ。年の差とかもさ、まー今は高校生だから、そういう趣味の人じゃなかったらお断りされるかもしれないけど」
「でも、好きとかそういうことを思っちゃいけない相手だから」
「なんで? 別にいいでしょ。ダメなら向こうから断るだろうし。こっちが好きでいるのは自由だって」
「そうかなあ……」
「じゃあ、次会えた時にドキッとしたら、それ絶対に恋」
そんな程度で恋なのだろうか。そもそも、あの美しい顔立ちだ。見た者はどきりとするのではなかろうか。
「すっごい綺麗な人だから、恋じゃなくてもドキッてすると思う」
「出たノロケ。いくら美形でも、芸能人見てかっこいいなあって思うのと、好きな人見てかっこいいなあって思うのは違うって」
「そういうもんかなあ……」
「絶対、そういうもん。あと、その人に彼女がいるかもって想像して、嫌だなって思ったら恋。私はそう決めてる」
そう言い切るからには、友里がそうなのだろう。川端雅史にどきりとするのだろうし、自分以外の女の子が隣に居ると想像して不快に思っているのだろう。結子は初めて知る感覚だ。
「でもさ、結子とこういう話ができるとは思わなかった」
「うん、私も、驚いてる」
友里と話ができたことも驚きだ。
「恋だって分かったら、もっと詳しく話してよ」
「その時があったら、ね」
ないような気もするけれど、とは言わないでおいた。
鼻血も無事に止まり、残りの授業は無事に終えることができた。
帰宅していつものように自分の部屋へと向かったのだが、違和感を覚えた。扉の向こうから、何やら声が聞こえる。戸締まりはしたはずだが、窓が開いていたのだろうか。動物が上がり込んで部屋を荒らしているのかもしれない。
鞄を盾代わりにして、そっとノブを回す。そして、ゆっくりと引いた。引きながら、もし泥棒だったら、という可能性を考えた。早まったかもしれない。
結子の机の上に堂々と、真っ黒の人影があったのだ。それが泥棒などではないと分かったのは、水干を纏っていたからだ。
袴は膝下までの長さで、足元には高下駄。肌こそ結子と変わらないが、髪も装いも下駄までも全てが黒であった。
瞳の色は、淡い青。
年の頃は、結子よりも少し下、中学生くらいだろうと思われた。
呆然と立ち尽くす結子に気付いたらしい。少年は青い瞳を細めて、口の端で笑う。
『あんたからすれば、初めましてだな。しばらく、兄者の代わりを務める結木様の神使だ』
少年は、どうだ、とばかりに胸を張ってそう言った。
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