ふきげんの原因

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ふきげんの原因

 水干を着た少年──彼の言葉を信じるとすれば、結木様の神使らしい──は、歯を見せて笑った。その人懐こい笑顔に、つい警戒が緩みそうになる。  けれど、挨拶もせずに勝手に部屋に上がり込んでいるのだ。不審者には変わりない。警戒は、まだ解くべきではない。 「なにか、用事?」  一文字一文字、確かめるように口にした。敵意を剥き出しにした問いかけだというのに、少年は少しも気後れする様子はない。  何気ない様子で、さらりとここに来た理由を答える。 『近衛の兄者はしばらく結木様の仕事で遠くに行ってるからさ。その間の糸結びの手伝いは兄者の代わりに俺がすることになったから』  理解が追いつかなかった。充分すぎるほどの間を置いて、出てきたのは間抜けな音。 「は……?」  それだけだ。  言葉──というよりも、音か──を発して、少し思考に余裕が出てきたのか、少年の発言が徐々に消化されてゆく。  今の、彼の言葉には重要な情報がたくさん詰まっているのではなかろうか。  近衛は、結木様に言われた仕事をしている。それは遠方で、今は不在で、だから代わりが来た。  どうやらそう言っているらしい。だが、それを理解できたかというとまた別の話。眉を寄せる結子など構わず、少年は続ける。 『俺様は十夜(とおや)。十の夜って書いて十夜。結木様が付けてくれたんだぜ。いい名前だろ。十夜様でも十夜さんでも好きに呼んでくれて良いぞ』  そんなことは、まだ後で良いのだ。今、知りたいことはもっと別の──。  だが、何をどう切り出していいのか分からず、話の主導権は向こうに握られたまま。  少年──十夜の手元には、結子が糸を切った人々の名を綴った紙束が握られている。近衛が持っていっていたものだ。言っていることは、確かに事実なのだろう。 『それで、早速あの紙束見させてもらったけど。ひっどいな! 兄者は何やってんだよ。こんなトロトロやってたらあんたが婆さんになっても終わらねえって。嫌だろ? ずっと結婚でき──』 「それはいいの!」  ようやく、言葉が出た。  十夜は驚いたように、少しつり上がり気味の双眸をぱちぱちと瞬かせた。 『え? ……結婚、できなくてもいいわけ……?』 「違う! あなた、何なの。いきなり、何の断りもなく部屋に入って、引き出しの中あさって。私、近衛さんから何も聞いてないんですけど」  十夜は怒鳴られたことが心から理解できなかったらしく、目を丸くして口をぽかんと開けて、結子を見る。結子はと言えば、眉間に皺を寄せて肩を大きく上下させて息を継いだ。父がまだ不在にしていることが幸いだ。  どのくらい、そうしていたか。恐る恐る、十夜が口を開く。 『俺は、十夜って名前で……近衛の兄者の弟分で……その、手伝いを……』 「それは聞いた」  一部、聞いていなかった情報もあったけれど。  弟分とは、先輩後輩関係のようなものか。 「私、一言も聞いてない。……近衛さんから、何も言われてない」 『急いでるみたいだから、伝言すんの忘れたんじゃねえの?』 「忘れた? どうして。糸を結ぶよりも、もっと──……」  もっと、大切なことなのか。イライラして、心が落ち着かない。  いや、大切なことなのだろう。結木様からの仕事ならば。結子への伝言を忘れてしまうほどに。  なんだ、相棒と言いながらその程度なのか。  近衛が結木様をどれほど大切にしているかは分かる。人間の、上司と部下という以上の絆があるのだろう。  分かってはいるけれど、どうしてだろうか、それを受け入れる事ができない。  近衛は、仕事をしているのだろう、それが忙しいから姿を見せないのだと、確かにそう言い聞かせていた。あの本殿の中で、忙しいながらも結子の声の届く所に居ると思っていた。  遠くに居るのなら、声の届かない所に行くのなら、どうして立つ前に一言、残してはくれなかったのだろう。  それとも、挨拶などする必要のない仲だったのか。  結子を大切に思ってくれているのだろうと、勝手に勘違いして。いや、ある程度は大切に思ってくれているのだろう。ただ、結木様が抜きん出ているだけのこと。  どろどろとした嫌な感情が渦巻く。  十夜は何ひとつ悪くはないのに、この場に彼しか居ないから感情をぶつけてしまった。単なる我儘だ。  何か言わなくては──何か。  いや、そんなことは考えなくとも分かっている。分かりきったこと。ただ、言うには少し勇気の必要な言葉。 「……ごめんなさい。あなたは、悪くないのに」  謝ると、十夜は居心地が悪そうに頬を掻く。 『いや、まあ……俺も何の断りもなく部屋に上がり込んで、悪かったよ。結木様から頼られて、浮かれてた』  結木様、結木様。  十夜も心から結木様を敬い、仕えているのだ。自分もこれから神職として仕える神社の神様なのに、どうしてこうもモヤモヤとするのだろう。自分がどんどん嫌な人間になってしまう。  そんな結子に一方的に当たられても、しっかりと謝れる十夜は少年の外見をしながらも、器が大きいのだろう。 『あのな、兄者、別にあんたのことどうでも良くなったとかじゃないからな。絶対。どっちかっつうと、いっつもあんたの味方をしてたし、むしろ結木様はあんたを甘やかしすぎだって怒ってたし』 「……うん」 『だから、その、頑張ろうな、な?』 「……うん」 『とりあえずはさ、平日はあんたも疲れてるからさ、土日だけ結ぶようにしてさ』 「……わかった」 『これから巻き返そうぜ。兄者が戻ってきたら驚くくらい、糸を結んでさ、な?』 「……別に、驚かないと思うけど」  怠けなかったことを少し褒めてはくれるかもしれないが。  そんな捻くれたことを考えてしまう自分も嫌になる。もう少し、近衛も大変なのだと素直に労えればどれほど楽だろう。 『大丈夫、俺が効率の良い案を考えてるから。今度の土曜日は空けとけよ』 「はい」 『まー見とけって。十夜様の腕前を』 「まあ、その……無理はしない程度に、頑張る……頑張ります」  平日は糸結びをしなくて良い、その代わりに週末に片付ける、という方針を打ち立てて、十夜は姿を消した。  土曜日までに、このモヤモヤを解消しておかなければ。いつまでも十夜に当っても仕方がない。  ベッドに身体を投げ出して、ため息をつく。  いっそ、糸を引っ張ってみようか。十夜の言ったことは本当なのかを確かめるために。  だが、もし。  近衛が来なかったら。それは、結子などよりも──。  いや、いやいや。何を考えているのか。首を振って頭の中から追い出す。  近衛にとって結木様は何よりも、誰よりも大切な主なのだ。神様と張り合おうなどと、身の程知らずにも程がある。  それなのに、どうして神様を相手にこんなに苛立っているのか。  そもそも、糸結びは糸を切った人たちへの謝罪として行っていることだ。手伝ってくれる神使が近衛であれ十夜であれ、良いだろう。  この気持は、結木様に気付かれているのだろうか。  結木様は、結子がいくら糸を切っても見捨てはしなかったではないか。──尤も、止めもしなかったのだけれど。  失礼を詫びよう。甘いものをお供えして。  朝のお参りをしない代わりに、帰りに買ったプリンを二つ、お供えする。結木様と十夜の分というつもりで。次の日に覗いてみると、綺麗になくなっていた。  土曜日の朝。朝食を終えて部屋に戻ると、それを見計らっていたかのように十夜が姿を見せた。 『この前のプリン。結木様すっごい喜んでた。礼を伝えてくれだって』 「それは、どうも……」 『でも、なんで急に』 「いや、まあ……それは、色々と」  先日の八つ当たりのお詫びとは気付かれてはいないのか。 「私も、いきなりで失礼な態度だ……った、し」  十夜にも、ひどい言葉遣いをしたように思う。だが、今更敬語を使うのも妙に思えて、言葉を選び選び話す。 「それで、えーと、美味しかった? プリン」 『だから、美味しかったって結木様が』 「もしかして、食べて……ない、の?」 『……ひとつ、俺の分!? うそ、何だそれ! ちゃんと名前書かなきゃ分かんねえよ! 二つとも結木様のだって思うだろ!』  つまりは、二つとも結木様に召し上がって頂いたのか。 『次はちゃんと名前書いてくれよな。あーあ。プリン食べたかった』  そう言って膨れるところは、少年にしか見えなかった。弟が居たならば、こんな感じなのかもしれない。 「それで、今日はどこに行くの」  話をするのは楽しいが、しかしいつまでもこうしてはいられない。できれば早めに終えて、夜は復習の時間を作りたい。定期考査が近づいてきたのだ。 『別に、どこにも行かねえよ。そんなの効率悪いだろ』 「え? でも」 『だから、十夜様の策があるって言っただろ? あんたは、適当に掃除してりゃ良いって』  掃除をしていろと言われても、それは朝一番で父が行っている。 「掃除をしながら? でも、掃除はしてあるけど……。御札所に」 『それはダメ。外に出てないと身動き取りにくいだろ? 適当に箒持って、掃除してるフリして待ってりゃ良いって』  待つとは、何を。  だが、訊ねたところで十夜は適当にはぐらかすばかりで何も教えてはくれない。  仕方なく、巫女の装束に着替えるべく十夜を追い出したのだった。  こんなことならば、父に自分がするからと伝えておくのだった、と結子は思う。それほど、境内は落ち葉ひとつ、枝ひとつ落ちていないほどきれいだった。 『ま、フリだから。そのうち掃除する暇なくなるから、これで良いんだよ』  手順くらい教えてくれても良いだろうに、もったいぶるのはどういうことか。芽生えそうに鳴る不信感を懸命に押さえ込みながら、言われた通り境内を掃く。  地面に箒の痕を付けていると、突然、十夜が声を上げた。 『ほら! 来たぞ。あの、縞模様の服の女と、青い服の男だからな』 「え? 何が」 『だから、糸を結ぶんだって。これから大勢来るからな。間違えんなよ』 「は?」 『ほら、急げ』  急かされるままに、言われた二人の許へそれとなく近付き糸を掴む。 『次は、あっち。あのワンピースと、あの──なんだ、あのメガネの男!』  そうやって、次から次に指示が飛ぶ。いくつか結んでようやく気付いた。十夜は、糸を切られた人たちをここに呼び出しているのだ、と。  それとなく二人を近付けてくれるのは確かに神使の力だ。だが、近衛は今まで神社まで引っ張ってくるようなことはしなかったが──良いのだろうか、これは。  大丈夫かと、ちらりと十夜を伺うと、結子の不安など伝わっていないようだ。どうだ、と得意げに胸を張っている。 『それとなく二人を近付けることができるんだからさ、こうすれば無駄がないだろ?』  それは、そうかもしれないけれど。  効率は良いが、これまで近衛がしなかったのだから、何か問題があるのでは──。 ふと近衛の顔が浮かんだが、あえて意識の外に追い出す。今は、ただ言われるままに糸を結ぶことに専念するのだ。
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