戻れない心

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戻れない心

 跨線橋の階段を上がってきた人々は、こんな会話をしている。 「あの奥の家でしょ?初めは若い奥さんと赤ちゃんいたよね?」 「いたいた。朝から、赤ん坊の泣き声してた。」 「最近ひっそりしてるみたいだけど・・・もう引っ越ししたのかな?」 「誰かはいるよ。遅くまで電気ついてるから。」 「どういう人か、会ったことあるの?」 「高校生くらいの男の子は見たことある。」  私たちは抱き合ったままジッとしていた。令草は私の髪に顔をうずめていた。令草の家の話をしていることは、すぐにわかった。抱き合ったままの私たちを発見した大人たちはヒソヒソと何か小声で話しながら通り過ぎた。  人がいなくなり、令草の指はゆっくりと動いた。どう動いたかわからないが、彼はまた、ゆっくりと指を動かした。抜こうとしているようでもあり、そのために一度、押し込もうとしているようでもあり、指はうごめき続け、私はだんだん不安になってきた。その動きの微妙な刺激はあまりに気持ち良かった。私は彼の毒にマヒしている。じわじわと彼の毒に犯されていく。彼の毒は麻薬のように心地よく、このままでは私は処女さえ失ってしまう。いや、もう失っているのかもしれない。どうしよう。私はどうなるのだろう。 「困ったね。どうしよう、アサヒの体、絡まってくる。僕の指、気持ちいいんだろう?いつまでも、こんなふうにしていてほしいんだろう?いいよ。気持ちよくしてあげる。いっぱい濡らしてあげる。傷つけないから安心して。安心して感じてごらん。」  私は、もう戻れない気がした。誰とでも同じ気持ちになれるとは思えなかった。令草の大人びた言葉としぐさは私の心の中まで毒を注ぎ込んだ。  その夜、私が家に帰った時、母に 「最近、好きな人でもいるの?」 と聞かれた。 「いない。どうして?」 「何だか急に女っぽくなった気がして。きれいになったんじゃない?もしカレシができたら、ママにも紹介してね。」 「大丈夫。当分、カレシとかできないから。」  夏休みが終わり新学期が始まった。転入生の令草は、隣のクラスになった。初め何人かの女子が『カッコいい』と騒いでいたが、一週間位すると、男子も女子も彼に近寄らなくなった。顔や体の大量の傷跡に気づいたため。それ以上に、精神的な異様さを嗅ぎつけたためだろう。 「学校で話しかけない方がいいかな?」 ある日の昼休み、図書室で本を読んでいる私の向かいに座った令草は小さな声で言った。 「別に、話しかけてもいいわよ。」 「僕と仲良くしてることが、みんなにバレたら、友だちいなくなるよ。」 「平気。最初から、大事な友だちとかいないから。」 「前に、家の近くに来ないようにって言ったけど、もう、家に遊びに来ていいよ。誰もいなくなったから。」 「お父さんは?」 「この町にはろくな女がいない・・・・って、東京に出稼ぎに行った。」 「お母さんは?」 「あのあと、すぐ、子どもといっしょに消えた。」 「じゃあ、令草、一人で暮らしてるの?」 「そう。やっと、すっきりした。」  まずい。まずい。罠にはまってしまう。危険すぎる罠に片足を突っ込みかけている自分を自覚する。  9月に入り、マラソン大会があった。男子は20Kmという長距離であるが、令草は去年までずっと1位だった男子より5分以上早くゴールして1位だった。  9月末には期末テストがあった。令草は全教科、ほぼ満点でトップだった。誰もが驚いた。その後、先生に見込まれ英語の弁論大会に出て地区優勝した。にもかかわらず、彼の不気味な表情は人を拒んでいた。  私は学校では毎日、彼と話をした。彼は美術が好きで、私のスケッチブックを見て具体的な批評をしてくれた。 「線の強弱を工夫すると、もっと立体感が出るよ。こんなふうに・・・」 令草が、ほんの少し鉛筆で描きたすと、スケッチは見違えるほど生き生きしてくる。いろいろな画家についても詳しく、昼休み、図書室で美術全集を開きながら彼が解説してくれる時間は、どんな授業より私の心を満足させた。  令草が優秀で真面目な中学生である、という事実は、エロス以上に猛毒だった。いつかきっと彼の家に遊びに行ってしまう。それが何を意味するか。私は迷い続けていた。  10月の中頃、文化祭の準備が始まり、合唱の練習や学級対抗の垂れ幕製作等で放課後は騒がしかった。私は自分のクラスの垂れ幕製作の責任者にされていた。令草は隣のクラスの責任者に推薦されたが断った。 「友だちもいないのに、そんなこと無理だろ。」 と言った。もう暗くなりかけた廊下の片隅。 「そういう活動を通して友だちを作ればいいのに。」 と言う私に 「真面目に言ってんの?僕は友だちなんか求めてない。僕の毒を浴びせて何が面白い。被害者は最低限にしなきゃ。」 そう言って微笑んだ。 「私、被害者じゃない。令草に出会えて、私、幸せだもん。」 「ホントかな?気を遣わなくていい。僕には本当のことだけ言え。」 「本当よ。」 「だったら、僕の家に遊びに来い!なぜ、来ない。来てくれないんだ?それはムリなんだろう。怖いんだろ。迷うんだろ。僕を信じられないだろ。それが正解なんだ。僕はアサヒの判断は正しいと思う。来ない方がいい。そしてもう、僕に関わるな。僕を見るな。僕も話しかけない。二度と僕に近づくな。初めから出会わなかったと思え。」 「令草、ひどい。」 私はパニックになった。パニックになった瞬間、やっと気づいた。私は令草が好きだ。ずっと、いっしょにいたい。 「私、関わり続ける。令草をいつまでも見続ける。何て言われても近づく。ずっと、ずっと、ずーっといっしょにいる。大人になったら令草と結婚する。」  令草は猛毒。私は、次の土曜の午後、令草の家に遊びに行った。  家の中はガランとして家具らしきものはほとんどなかった。電子レンジも冷蔵庫も洗濯機もない。TVもテーブルや椅子も何もない。台所の水道から水は出た。 「電気料や水道料は払っているから大丈夫。トイレはウォシュレットにしてあるから安心して。」 「どんな食事してるの?」 「おいしい食事してるよ。後でごちそうする。」 「どこで勉強するの?」 「二階に僕の部屋あるんだ。今は家ごと僕の部屋だけどね。何もないと掃除もラクだし。ラジオ体操もできるし。スッキリしていいんだ。行ってみる?僕の部屋・・・・やめとく?ベッドルームだからね。」  私はうろたえた。私は、相当ヤバイ中学生だ。一人で彼の家に来てしまったことは、すでにOKしているようなもの。心の中では迷いがある。これ以上、彼に踏み込んだら、本当にもう戻れなくなると予感する。 「ごめんね。アサヒに質問した僕が悪かった。おいで。見るだけ見たいだろう。」 令草のあとについて階段を上る。二階には東側と西側に同じ広さの部屋がありドアは開け放たれていた。 「東の部屋が勉強部屋で、西の部屋がベッドルーム。贅沢だろう。広くて気持ちいいよ。」 どちらも広々とした10畳ほどの板張りの床で、それぞれの部屋の中央に机が一つ、ベッドが一つ、ポツンと置いてある。 「変わってるのね。真ん中が落ち着くの?」 「違う。真ん中って、落ち着かないからいいんだ。僕一人で落ち着く必要なんてないだろ?」 「前から聞きたかったけど・・・・令草って、本当に私と同じ年なの?」 「違うよ。中3だけど、年は17。途中で2年、学校へ行けなかったから。これのせいさ。大やけど。1年近く入院して、もう1年リハビリして。」 そう言って、彼はズボンを脱いだ。 「リハビリして、普通に動けるようになるまで2年かかった。動けるようにはなったけど・・・・化け物だろ。こんな体、人には見せられない。」 「見せてるじゃない。」 「アサヒには見せる。よく見ろ。こんな化け物と、本当に結婚したいか?」 「そんなに気にしてたんだ。私は平気。ちゃんと歩けて、誰よりも早く走れて。何の問題もないでしょ?」 私は令草の赤紫に変色して引きつった太ももに触れ、軽くさすった。 「もう、痛くはないの?」 「時々うずくような痛みはある。神経まで焼けただれたと言われたから。クソオヤジめ。」 「お父さんが、わざとやったの?」 「家に火をつけて一家心中しようとしたんだ。やめさせようとした僕は灯油を浴びて火だるまさ。」 「まあ。怖い。顔まで燃えなくてよかったわ。」 「あちこちは焼けただれてるけどね。こことか、こことか・・・」 令草は前髪をかき上げケロイド状に盛り合った額の一部を見せた。首の後ろや脇腹など赤くただれて変色した箇所を見せた。 「心はどう?焼けただれてるの?」 「ストレートな質問だな。ハッキリ言えば、心が一番ひどく焼けただれてる。僕は毒だと言ったろう?こんな傷痕だらけの体で痛みに耐えて生きてきたんだ。心の底まで真っ黒に炭化してる。アサヒのような幸せな女の子には説明できないよ。だから、怖かったら、もう帰った方がいい。このままベッドに押し倒されたら、ホントにもう行くところまで行っちゃうよ。幸い、コレは焼け残ったからね。」 そう言いながら令草はパンツを脱ぎ、アソコの表や裏を見せた。 「よかったわね。大事なところが無事で。」 「どうだろう?ここだけ無事でも活躍の場がなければ意味がない。アサヒまた握ってくれる?」 私はそっと握った。 「っあああ・・・たまんねえ! 帰れ!今すぐ帰れ・・・・危ない・・・もう非常事態宣言だ。早く!早く帰れって言ってんだろ・・・・」  私は震えながら帰らなかった。よく見ると睾丸の片方の一部は焼けて皮膚がひきつっていた。私は急に涙が出て、令草の大切な部分に、そっとキスした。 「バカバカバカ・・・何やってんだ!襲うぞ!犯すぞ!遊ぶな!からかうな!こっちは真面目に言ってんだ。早く帰れよ。」 私は自分も服を脱いだ。令草はあとずさりした。 「同情じゃない。私、その体が好き。その心も好き。焼けて変色して引きつっていても、時々うづいて痛くても、心が炭化して真っ黒でも、そんな令草が好き。今、令草を愛さなかったら、きっと後悔する。」
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