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空飛ぶ小袖
花のお江戸の八百八町のどこにでもある裏長屋。家禄もなく、困窮きわまる生活を余儀なくされた浪人、佐倉鶴蔵とその娘、真衣は、狭い長屋で手跡指南所を営みつつ、細々とその日暮らしを送っていました。
「お師匠様、たくあん少し持ってきたから、晩に食べてください。」
指南所に通う子どもらは、授業料とは別に、時々鶴蔵に食べ物を置いていきます。
「昨日うちのネコが獲ったネズミ持って来たよう。」
時には、悪意なく食べられない物を置いていく洟垂れ小僧もいます。誰にでも根気よく教えてくれる鶴蔵と、優しい真衣を、指南所の筆子たちみんなが慕っているのです。
子どもたちを見送った鶴蔵が長屋に戻ろうとしたとき、待ち構えていたように表から大家さんが姿を現しました。
「ねえ、佐倉さん。そろそろ店賃を頂けますかな?」
鶴蔵はもうずいぶん久しく店賃を滞納していました。
「まことに申し訳ござらぬ。今しばらく、お待ちくだされ。必ず、必ずお支払いいたしますゆえ。」
鶴蔵は大家さんに深々と頭を下げます。
「なに、あたしも今すぐとは言いませんよ。でも佐倉さん、溜めているのは店賃だけじゃないんでしょう。もう少し稼ぐ算段をなさった方が良いんじゃないですかね。この辺の子どもたちに学問を教えているだけではねえ。」
「面目次第もござらぬ。」
大家さんは福々とした面倒見の良いおじいさんです。鶴蔵が初めてこの長屋に転がり込んだ時、右も左もわからない佐倉一家に何くれと世話を焼いてくれました。鶴蔵が長い間店賃を払えずにいても、追い出そうとはせず、困ったように眉を下げるだけです。鶴蔵も何とかして恩に報いたいと思っていますが、店賃一つ満足に納められないので、大家さんには謝ることしかできません。
鶴蔵はひたすらに謝り倒し、その場を切り抜けて己の長屋に帰りました。長屋の中では、真衣が思いつめたような顔をしています。
「父上、かくなる上はわたくしがこの身を売って…」
「ならぬ。そなたは母の最期の言葉を忘れたのか。」
鶴蔵の妻であり真衣の母である通は、長屋に移り住んで間もない頃に病で亡くなりました。貧しい暮らしゆえ、満足に医者にも診せられず、苦しんだ末の最期でした。そのいまわの際の言葉を、真衣は思い出しました。
「どのようなことがあろうと、そなたは武家の娘として誇り高く生きるのです。」
息も絶え絶えな母のか細い声が胸に蘇り、真衣は涙がこぼれます。鶴蔵も熱いものが瞼の裏に込み上げます。
と、そのとき、長屋の一番奥から白くて細長い物がにょろにょろと這い出てきました。
「己を木綿の反物として、売ってください。人間の目からすれば、なかなかの上物に見えるはずです。」
手も足も口もないはずのにょろにょろですが、ちゃんと動いて喋っています。それもそのはず、その正体は妖怪の一反木綿なのです。何の因果か、佐倉家の家宝として代々受け継がれてきました。
「そなたを売るなど、できようはずもあるまい。御身はただの布切れではないのだぞ。我が佐倉家がそなたから受けた数々の恩は伝え聞いている。私に、その大恩をあだで返せと申すのか。」
鶴蔵は厳しく諫めました。
「父上のおっしゃるとおりですよ。あなたがいてくれるから、わたくしたちは貧しいながらも幸せに生きていられるのです。」
真衣も一反木綿を引き留めます。鶴蔵も真衣も、物心つく前からずっと一反木綿と共に過ごしてきました。訳あって鶴蔵が浪人になるときも、一反木綿は黙ってついてきてくれました。寒さと病に苦しむ通のため、掛布団代わりにその身を温かくくるんでくれました。母が亡くなって涙にくれる真衣のそばに、ずっと寄り添ってくれました。一反木綿は家宝である前に、友達であり、家族なのです。
しかし、一反木綿も譲りません。
「己は妖の身でありながら、あなた方にとても親しくして頂きました。妖というだけで恐れられ、退治されてしまう仲間もいるのに。己は幸せを十分に頂戴しました。恩を返すべきは、己なのです。」
「でも、あなたが反物として売られてしまったら、切り刻まれて着物に仕立てられてしまうのですよ。」
「己は妖ですから、切られて縫われても痛くないし、死にません。そのままじっとしていれば、着物の姿でいられます。元に戻ろうと思えば、戻れます。心配要りません。」
「でも、こうしてお話しすることができなくなってしまうわ。」
真衣はよよと泣き崩れます。鶴蔵は何とか一反木綿をなだめようと言葉を尽くしました。しかし、一反木綿の決意はとても固いものでした。泣く泣く、真衣は綺麗に畳まれた一反木綿を抱えて町へと売りに出ました。せめて、なるたけ一反木綿を大事にしてくれるところに預けようと、決意していました。
真衣はまず、まじめそうな小僧さんのいる質屋へと赴きました。入り口を掃いていた小僧さんは真衣に気付き、すぐに店の奥に手代さんを呼びに行きます。
返事をしながら出てきた青白い顔の手代さんは、真衣から一反木綿を受け取ると、細長い指でじっくり検分し始めました。
「ふーむ、少し古いようですが、なかなか質の良い反物ですね。」
そう言って、指先でつつつっと一反木綿を撫で回したので、一反木綿はくすぐったくてたまりません。ぷるぷると身を震わせたかと思うと、たちまち身をよじって風に吹かれるまま飛んでいってしまいました。
真っ青になった手代さんから逃げるようにして、真衣は質屋を出ました。長屋に帰ってみると、案の定一反木綿が鶴蔵の前で申し訳なさそうに小さく折り畳まれています。
「ふがいなくて、申し訳ありません。」
「これで懲りたであろう、身を売るなどと言うてくれるな。」
しおれる一反木綿を撫でて、鶴蔵が優しく労わります。しかし、一反木綿はぐっと身を反らしました。
「いえ、もう一度だけ、お願いいたします。武士の情けでございます。妖と言えど、このような醜態をさらしたまま、ここで暮らすことはできません。」
やむなく、真衣は一反木綿を持って、再び立ち上がりました。
真衣が通りに出たところで、大家さんが懇意にしている貸本屋さんに出くわしました。古い本をただ同然の値段で鶴蔵に譲ってくれることがあるので、真衣も顔なじみです。貸本屋さんは色々なことに詳しいので、真衣は一反木綿を見せてみました。
「おや、良い反物ですね。」
と言って、貸本屋さんは一反木綿を撫でまわします。貸本屋さんに触られても、一反木綿は今度はピクリとも動きません。本物の反物のようです。
「これなら、あすこの太物屋に見せてみたらどうです。いい加減な商いはしていないお店ですよ。」
大家さんの家に入っていく貸本屋さんと別れ、真衣は教えてもらった太物屋に向かいました。水打ちをしている小僧さんの脇を通って店に入ろうとしたとき、うっかり勢いよく飛んだ水が一反木綿に掛かってしまいました。小僧さんは慌てて駆け寄りましたが、一反木綿はちょうど喉が渇いていたところだったので、見る見るうちに湿り気が乾いていきます。目を丸くした小僧さんは、これは大変な反物だ、と真衣をお店に入れて番頭さんを呼びました。
小難しい顔した番頭さんが出てきたところで、真衣は一反木綿を見せました。
「うちは出所のはっきりした物しか取り扱いませんので。」
番頭さんは一反木綿を横目で見やると、手に取ることもなく迷惑そうに眉をひそめました。ところが、横からひょいと手が伸びて、一反木綿は真衣の手から取り上げられました。太物屋の旦那が現れて、興味本位で一反木綿を検分しているようです。
「これは上物だよ。素材が良いのか、織りが良いのか、しなやかで艶があって。下手な呉服よりよっぽど品があるよ。」
旦那は余程気に入ったのか、あちこちひっくり返してはしきりに褒めています。
一反木綿は、矢鱈目鱈に褒められるので、次第に気恥ずかしくなってきました。すると、白い体にほんのりと朱が差してしまいました。
「おや番頭さん、この反物、話しかけていると色が変わるよ。面白いねえ。」
「馬鹿なことをお言いでないよ、このコンコンチキ。」
番頭さんの代わりに旦那に応じたのは、おかみさんです。真衣の身なりをじろりと一瞥して、嫌味たらしく鼻を鳴らします。
「どうせ貧乏長屋の浪人くずれが、長押の底から引きずり出してきたんだろう。そんな犬の糞みたいな汚らしい物、店に入れるんじゃないよ。まったく、恥ってものをお知り。」
おかみさんはしっしっ、と手を振りました。
それを聞いていた一反木綿は、今度は怒りがむらむらとこみ上げてきました。すると、さっきまでほんのり朱色だった体が、夕焼け空のような見事な茜色に染まってしまいました。
そうなると、旦那はますます喜んで大はしゃぎです。番頭さんの渋い顔も、おかみさんの怖い顔もものともせず、結構な金子を積んで真衣から一反木綿を買い上げてしまいました。
お金が手に入ったは良いものの、仲良しの一反木綿を売ったと思うと、真衣は気持ちが晴れません。暗い表情で長屋に帰ってきた真衣に、井戸端に集まっていたご近所さんが心配そうに声をかけました。
「一反木綿を売ったのか。そうかい。真衣さん、辛かったねえ。」
真衣の説明を聞いて、元駕篭かきのおじさんがしみじみと呟きました。一反木綿は、長屋の人気者だったのです。おじさんは今では紙縒りを作って売っているので、手慰みに一反木綿の端っこを細く縒ってみたこともあります。一反木綿は縒れを気に入って、自然にほどけるまでそのまま見せびらかしていたくらいです。
「あの子はきっと帰ってきますよ。真衣さんのいるところがあの子の家ですからねえ。」
髷も結えないほどにつるぴかのおじいさんが、真衣を励ますように言いました。絵師を志したことがあるというおじいさんは、一反木綿に見事な鳥獣戯画を描いたことがあります。一反木綿はおじいさんの部屋の壁にぶら下がって見せたので、貧乏長屋なのに妙に立派な掛け軸があると評判になったものです。ただ、絵は雨で流れてしまったので、今では跡形もありません。
「いつでも飛んで帰れるように、屋根に目印でもこさえようか。」
大家さんに叱られそうな提案をしたのは大工さんです。屋根から落ちてあばらを折って帰ってきたとき、一反木綿がぐっと腹に巻きついて固めてくれました。不思議なもので、一反木綿が巻き付くと、傷の治りが早くなります。ほんの三、四日で元気に仕事に戻って以来、大工さんは一反木綿に頭が上がりません。
みんなはため息を一斉について、一反木綿が時々飛んでいた空を見上げました。空では、カラスがアホーと鳴いていました。
さて、長屋連中がてんでに心配している当の一反木綿はどうなったかというと、早速太物屋の商品としてお客さんに出されていました。このお客さんは花屋の旦那ですが、女房がいるのに茶屋の看板娘にすっかり入れ込んでしまい、花だけでなくて前垂れやら着物やらを女房に内緒で贈り続けています。
「褒めると色が変わる反物?そりゃ、お港ちゃんにぴったりじゃないか。あの子は可愛くて、始終褒められっぱなしだもの。」
鼻の下がだらしなく伸びているのは、一反木綿でしつらえた着物を着た茶屋の娘を頭の中で思い描いているからです。花屋の旦那は半分上の空で一反木綿を買い、早々に仕立屋に出してしまいました。
仕立屋で一反木綿はばっさばっさと切られていきます。でも、妖怪なので、何てことはありません。その気になれば切れをまとめて一反に戻れます。それより辛いのは、針で縫われることです。チクチク、チクチクと体中を突付かれて、かゆいやらこそばゆいやら、まったく落ち着けません。こらえようとしても、つい、ぴくぴくとしてしまいます。
「この布、縫うたびに動く気がする。気持ち悪いなあ。返品したいよ。」
お針子さんのぼやきに、一反木綿は体をこわばらせました。返品されて、折角鶴蔵親子に渡った金子を太物屋に取り返されては、ここまで我慢した意味がありません。青くなったり赤くなったりしながら、小袖になるまで何とか我慢を通しました。
できあがった小袖を見て、花屋の旦那は上機嫌です。我慢のし過ぎで、一反木綿が良い藤色に染まっていたからです。しかも、少しぐったりして、柔らかな肌触りです。花屋の旦那は喜び勇んで茶屋に向かいました。
茶屋には近頃評判の看板娘、お港がいます。すらりとした美人なのに、やることなすことおっちょこちょいなのが可愛い、と大人気です。お港見たさに通う客が後を絶ちません。
花屋の旦那が一反木綿の小袖を渡すと、お港は自分にあてがって見せました。
「わあ、素敵。良い色。この地の色なら、あんこが付いても模様に見えますね。」
そう言うそばから、お港の前垂れに付いていた団子のあんこが一反木綿にも付いてしまっています。一反木綿はあんこを落とそうとして、小さくぶるるんと身震いしました。その途端、手に持った小袖がうごめいたのにびっくりして、お港は悲鳴を上げました。
「小袖がひとりでに動くんです。あたし、こんな気味の悪い物は要りません。」
お港は震えながら小袖を花屋の旦那に突き返しました。
人気の看板娘が悲鳴を上げて怖がるので、周りのお客さんは一気に騒然となります。
「勝手に動く小袖だって?何ぞ嫌らしいことでも考えていたんだろう、この助平じじい!」
他のお客さんから非難轟々となり、花屋の旦那は一反木綿を抱えてほうほうの体でその場から逃げていきました。
小袖のせいでお港には嫌われるし、茶屋の客には馬鹿にされるし、散々な目に会いました。折角奮発して手に入れた小袖ですが、今となっては忌々しいばかりです。花屋の旦那は八つ当たりするように小袖を力いっぱいぐちゃぐちゃに丸めて、不快な思い出とともに押入れの隅に押し込んでしまいました。
しかし、次の日の夕刻になると、瓦版売りが威勢の良い声を上げていました。
「何と驚き、生きた小袖が現れた!おだてりゃ図に乗り、叱ればすねて、持ち主置いて飛んでいくときた!」
瓦版売りの名調子に合わせて、後ろの囃し方がにぎやかに三味線を鳴らします。
「あーこりゃこりゃ大変だー!」
「飛んで逃げたらすっぽんポン!」
今夜飲むときの話題にしようと、人々が笑いながら瓦版を買い求めています。花屋の旦那も一枚買って見ると、あの茶屋を背景に小袖が羽ばたいて飛んでいく絵が添えてあります。それどころか、旦那が片隅で尻をまくって逃げている様子まで描かれています。
茶屋にいた誰かがネタを売ったに違いない、と考え、花屋の旦那は不快な記憶を探りました。よくよく思い返すと、常連の戯作者が茶屋にいた気がしてきました。まともな作品はほとんど売れないので、嘘八百の駄文を瓦版にして日銭を稼いでいる、と聞いたことがあります。
あいつめ、と花屋の旦那が憤懣やるかたない形相で帰宅すると、ちょっといなせな格好をした男が待ち構えていました。
「瓦版に出ていた、空飛ぶ小袖をお持ちだとか。ぜひお譲り頂きてえと思いましてね。」
話を聞くと、男は小芝居の座元で、見世物のひとつとして小袖を使いたいと言います。花屋の旦那のことは、やはり戯作者から聞いたようです。花屋の旦那の失態が誰彼構わず吹聴されているようで、旦那はますます腹が立ちます。
花屋の旦那は押し入れの奥から小袖を引きずり出してきました。自分で触るのも金輪際御免ではありますが、茶屋の娘に贈るために作った小袖を、女房に見られるわけにもいきません。女房が瓦版を読んで、うわさを聞きつけて、旦那を問い詰める前に、さっさと処分してしまうが勝ちです。
「こんな物、あたしはもう二度と見たくないからね、好きにしてくれて構わないよ。」
引き取り手が見つかってこれ幸い、と花屋の旦那はしわしわに丸まった小袖を二束三文で座元に押し付けてしまいました。
座元は一反木綿の小袖を持って帰り、ひとまずしわを伸ばして吊るしました。丸一日以上ずっと狭いところに不自然な格好で押し込められていたので、一反木綿はすっかり元気を失っていました。艶も張りもなく、青白いような黄ばんだような変な色をしています。
「これが本当に飛ぶのかね。ただのくたびれた古小袖にしか見えねえんだが。」
わざわざ買い求めてみたものの、座元は今一つ信じられません。出し物として披露する前に、本当に動くかどうかを試したほうが良かろうと考えました。
翌日、座元は少ししわの取れた小袖を外に出してみました。小袖はしんなりしたままちっとも動きません。振ってみたり、棒で高く掲げてみたりしましたが、かえって一反木綿がくたびれて変な色になるばかりです。褒めたり、けなしたり、あれこれと声をかけても甲斐なし。人が着た方が良いのかもしれない、と役者に羽織らせてみても、結果は同じです。
「これ、昨日よりぼろくなってませんか。着ていてもずり落ちて崩れそうですぜ。」
役者は小袖を脱いで、座元に見せました。確かに、昨日よりずっとくすんでいます。ほころびているようにも見えます。
座元はせめて汚れを落とそうと、小袖を洗濯することにしました。でも、使えるかどうかすら怪しい汚い小袖を、縫い目をほどいてしっかり洗うのは面倒です。小袖のまま水に沈め、ごしごし、と容赦なくこすり合わせて、洗います。一反木綿は真衣に優しく揉むようにして洗ってもらったことはありますが、こんなに力任せにこすられたことはありません。水の中でもみくちゃにされ、ますます気分が悪くなっていきます。
洗いあがって、干された小袖は、なぜか洗う前よりもずっと暗い色になってしまいました。がっかりした座元はひとまず小袖を干したままにして、様子を見ることにしました。
小袖になった一反木綿がすっかり弱り切ってしまっている頃、長屋の鶴蔵と真衣もすっかりしょげかえっていました。一反木綿のいない佐倉家は火が消えたよう、どころか、油を買う金がないので、陽が沈むと本当に火が消えたまま真っ暗闇に沈んでしまいます。いつもなら、一反木綿がほんのり光ることで、家の中のよしなしごとを済ますことができていたのに、それもかないません。
鶴蔵が子どもたちの手習いを終え、日が傾きかけた頃、戸を叩く訪いの音が響きました。鶴蔵が戸を開けると、侍が立っていました。この侍は蘭学塾を開く先生で、鶴蔵とは旧知の中です。鶴蔵は、狭い長屋に先生を招き入れました。
真衣が茶の代わりに差し出した白湯を一口飲んで、先生は懐から例の瓦版を取り出しました。
「佐倉どの、これにある小袖はよもや、そこもとの一反木綿ではあるまいか。」
鶴蔵が文字を追うと、なるほど、そうかもしれません。勝手に飛んでいく小袖なんて、他には考えられません。横では真衣もぎゅっと手を握りしめています。
「飛んで行ったのなら、どうして帰ってきてくれないのでしょう。」
涙を浮かべる真衣を見て、先生は怪訝そうな顔をします。鶴蔵は一反木綿を売った次第を説明しました。
「真衣さん、どこかに飛んで行ってしまったというのは瓦版の方便で、実は反物を買った者が持って帰ったそうなのだよ。」
先生は穏やかに説明します。
「妖とは言え、武家の者だ。一度反物として売り買いされた以上は、買ってくれた主に対して忠義を尽くすべきだと、健気に考えているのではないかな。」
寂しいけれど、真衣と鶴蔵も先生と同じ考えです。買い手がひどい扱いをするからと言って、あの立派な一反木綿がしっぽを巻いて逃げ帰ってくるとは思えません。
そこへ、長屋の住人が顔を出しました。長屋は壁が薄いので、話は筒抜けなのです。一反木綿のこととなれば、黙ってはいられません。
「ろくでもねえ瓦版なんぞにしやがって、うちの一反木綿を何だと思っていやがる。承知しねぇぞ。」
大工さんが怖い顔で腕をまくります。
「あいつが気持ちよくお勤めできているならいいけど、無理させているようなら、何とかしてやりてえなあ。」
元駕籠かきのおじさんが、両手をこすり合わせます。
「でも、あの子はまじめですからねえ。我々が無理やり引き戻そうとしても、納得してくれるかどうか。」
つるぴかのおじいさんが、腕を組んで思案気に唸ります。
鶴蔵と真衣は、元気のない様子でうなだれています。一反木綿の心意気はよくよく分かっているものの、それでも帰ってきてほしくてたまらず、一反木綿を売って得たお金にも手を付けられないのです。
みんなの顔を眺め、先生はふむふむと言いながら、少し首をかしげるようにして考えています。
「やはりあの小袖は、しかるべき場所に帰った方が良さそうだな。」
先生はパンと両手をたたきました。
「では、もし皆が一反木綿と思しき小袖を見かけたら、ぜひ声に出して呼び掛けてやりなさい。皆の気持ちが伝われば、必ずや飛んで帰って来よう。」
みんなが少し不思議そうな顔して、それでも先生に向かってうなずきます。みんなの代わりに、わん、と外から犬が元気に答える声がしました。
さて、洗っても干してもきれいにならない小袖を叩いたり伸ばしたり、揉んだりくすぐったり、座元は考え付くことを片端から試してみました。おかげで一反木綿はどんどん気分が悪くなり、佐倉家を思い出しては悲しい気持ちでうちひしがれています。今では小袖はぼろきれ同然にまでくすんでしまいました。
座元は昼食の蕎麦を屋台で掻き込みながら店主に向かって愚痴をこぼしました。
「瓦版の話なんて眉唾もんだし、元手も大してかかっちゃいねえから、諦められねえわけじゃねえんだけどよ。動かねえのはまだしも、こちらが頑張れば頑張るほど汚くなってきやがるのは我慢ならねえなあ。」
「白粉と紅でも塗ったら、喜んで元気になるんじゃないですかね。」
忙しいので話半分にしか聞いていなかった店主は、気のない返事をしました。その片手間に、他のお客にかけ蕎麦を出します。座元もまともな返事を期待していたわけではないので、おつゆを飲み干すとさっと屋台を離れました。
大またに歩き始めた座元の背中に、屋台から声が掛かりました。振り向くと、余程急いで蕎麦を食べたのか、少しむせながら侍が追いかけてきています。息が落ち着くのを待って話を聞いてみると、蘭学塾の先生らしく、学問に覚えがあるそうです。先生は、小袖の元気を取り戻す手立てに心当たりがあるので、小袖を見せてほしいと申し出ました。
胡散臭いと思いつつも、他にどうしようもないので、座元は先生を一反木綿の元に連れてきました。先生はしばし一反木綿を検分し、独り言なのか、低い声でぶつぶつと何かを話していましたが、そのうちにくるりと振り向いて座元を呼びつけました。
「残念だが、直る見込みはない。」
座元はがっくり肩を落とします。
「元気になるように、必死に頑張ったのに、何てこってえ。」
「そうか、そなたは小袖に良かれと思って洗ったり揉んだりしていたのか。しかし、逆効果だったな。」
そう言うと、先生はくるりと背を向けて、また小袖に向かって独り言を始めました。座長は半ば気味悪そうに先生を見守っています。
やがて、先生は大きくうなずいて、座長に向き直りました。
「この小袖を使う演目は、何回予定しているのだ?」
「一回こっきりですよ。噂じゃ、この小袖は飛んでどこかに行っちまうって話でしたからね。」
「では、一度だけ蘇ればそなたは満足で、小袖がその後どうなろうと構わないのだな。」
先生の問いに座元がうなずいて答えると、先生はしたりと笑いました。
「それなら、何とかなるかもしれぬ。さりとて、荒療治が必要だ。蘭語で言うところの、ア・ラ・リョージヤネンだ。直したくば、私の言うとおりにしなさい。」
と先生が不可解なことを言いつけるので、座元は疑わしそうな顔になりました。それを見て、先生はまた小袖に向かって独り言をつぶやきます。すると、どうでしょう。風もないのに小袖の足元、袖元がちらちらと微かにはためくではありませんか。
どうやら、この先生は動く小袖の権威に違いありません。座元は恐れおののいて、先生の指示に従うことを約束しました。
そんなこんなで、日本晴れのある朝、小芝居は開演の運びとなりました。芝居小屋の周りは沢山のお客さんでにぎわっています。
「演目は仇討ちものだね。あら、敵役は東山城太郎じゃないか!あの悪役面が良いんだよねえ。」
正面の少し高くなった席ではしゃいでいるのは、長屋の大家さんのおかみさんです。おかみさんの周りには、大家さんも、鶴蔵も、真衣も、長屋の他の連中が一そろいしています。蘭学の先生も後ろの席で澄ました顔をして座っています。なぜか座元からご招待に預かったので、芝居見物に来ているのです。鶴蔵は、うまい話には裏がある、と渋っていましたが、長屋のみんなに無理やり連れてこられてしまいました。
それでも、緞帳が上がって芝居が始まると、鶴蔵もみんなも舞台に釘付けです。大家さんがご馳走してくれた幕の内弁当も平らげて、すっかり楽しんでいます。
ところが、芝居が佳境に入った頃、長屋のみんなは一斉に口をあんぐりと開けました。貧しい女のなりをして敵に忍び寄ろうとする主人公が、何だか見覚えのある生地の小袖を身にまとっていたからです。しわが伸びきっておらず、くたくたのボロ色で、反物でなくて小袖になっていますが、一反木綿に間違いありません。
「ここで会うたが百年目、いざ、お覚悟!」
主人公がとうとう正体を現して敵に名乗りを上げたとき、先生が長屋連中を後ろから小突きました。ハッと気付いて、みんなが一斉に声を挙げます。
「いよっ、一反屋!」
すると、小袖がスルスルっと勢い良く主人公の身を離れて飛び立ちました。そのまま小袖は空中で反物の形に戻り、細長くはためくようにして夕暮れ時の空に舞い上がります。夕日を受けてきらきらと黄金色に輝きながら、一反木綿は高い空に消えていきました。驚きの演出に観客は大喜びで、拍手喝采です。
やんややんやの大盛況で緞帳が下りる中、一反木綿は長屋のみんなに見守られながら、空から真衣の手元に帰ってきました。真衣の両手の上で折り畳まれた一反木綿は、少しへたっていますが、ボロ色から元通りの白い色に戻っています。真衣は一反木綿をぎゅうと抱きしめました。
「いよっ、一反屋!」
大家さんに囃されて、一反木綿はほんのり桃色になりましたとさ。
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