躑躅の花が愛せない

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躑躅の花が愛せない 夏が終わる。この表現をどこか恐ろしく感じている自分がいた。 夏? いや違う。正確に言えば、「正しい夏」だ。 物語の一ページのように、しっかりと刻まれた夏。それだけがあればこの先二度と後悔なんてすることなく生きていけるような、そんな夏。十七年間生きていて、友人と祭りに行ったり遠出をしてみても、その夏の感覚だけはつかめない。 七月。その年の夏も、いつもと変わらない、平坦なにおいがした。 「次、この問題を羽島、解いてみろ」 エアコンの効きが悪い教室中に響き渡るセミの声に鬱々としていた中、不意に名前が呼ばれた。 顔を上げると、教壇に立つ男性教師が指示棒で黒板をノックする。 「今日やった数式、使うところさえ思いつけばあれで解けるぞ。ほら」 数学担当の細谷は有名理大を卒業したかなんかで、どう考えても一生徒の手には負えない難問を解かせるクソ教師として有名だ。見せびらかしていた薬指の指輪を外すようになった理由を尋ねてから、露骨に俺を授業中に当ててくるようになった。そういうねちっこさが奥さんに捨てられる理由なんじゃないのか、と思いはするが別に気にしてやるようなことではない。 「分かりません」 俺ははっきりと答えた。この一言で解決だった。解けない生徒にどれだけ時間を割いても無駄だ。どうせ他の大半の生徒も答えられない。細谷も先日の二者面談で大量の批判を浴びたのか、それを追求してくるようなこともなくなっている。 ぶつぶつと不満を漏らしはするが。 「少しだけでも解こうとする努力をしないとなぁ、受験だけじゃなくて、将来社会に出たときに何もできない人間になるぞ…」 誰に向けているのかわからない言葉を虚空に振り撒きながら、細谷は手で覆うようにメガネをつかんで位置を直した。 それは合図だ。新たな生徒が指名される。 「じゃあ、そうだな。解けそうな人──、あぁ、躑躅。どうだ」 「えっ、あっ、はい!」 その声に隣の席を見ると、不意に名前を呼ばれた少女が跳び跳ねるように起き上がった。ノートの隅に落書きしていた何かを細谷に見られないように消した彼女は黒板に書かれた問題をちらりと見てから、ノートを持って立ち上がった。 彼女を追った俺の視界に、夏の日差しが突き刺さる。青々とした緑から漏れる光を背景にして立つ、紺色のセーラー服に身を包んだ少女。出来過ぎたその光景にため息をつく。 一方、もう七月も半ばだというのにセーラー服に身を包んでいる彼女は汗など一つもかいていないようなそぶりで板書に向かっていく。首の後ろで二つに結んだおさげ髪がイマイチ芋っぽさを残す躑躅彩佳は、細谷の嫌がらせキラーとして有名だ。 実際、彼女は俺が解こうともしなかった問題を数分のうちに板書まで含めて解ききってしまった。読みやすくも流れるように書かれた黒板の字は、まるで彼女の姿のように流麗で美しい。 「以上です。合ってますか?」 「お、おぉ。さすが躑躅だな…」 「いえいえ。まだまだですよ」 言ってみたいな、そんなセリフ。半ば呆れるような羨望とともに、チョークの粉にまみれた手を叩く躑躅を見つめる。 すると、落ち込む細谷など気づいてもいないといったように微笑を携える躑躅と目があった。躑躅は少し眉を上げて小首をかしげるような動作をしたあと、そのまま席へともどってまた何かをノートに書き始める。 文武両道才色兼備。品行方正温和冷俐。人を褒めるための四字熟語はすべて彼女を形容するのではないか、と人は言う。 俺は横目で熱心になにかを書き続ける彼女をみて、また黒板へと視線を戻す。 太陽の光を反射して咲くその花は、俺のように世界を斜めから見ている人間にだってその光を届かせる。 高校三年。冷夏なんてどうでもいいくらいに、特別な夏だという感じがした。 「頭よくてかわいくて、おまけにお嬢様だもんなー。マジで強いわ」 小幡啓が、弁当のサンドイッチを慎ましげに食べる躑躅を見ながらそう言った。啓は疑問だというように唇を曲げながら次の単語テストのために読んでいた英単語帳を机へとしまい込む。 「彩佳お嬢様、ね」 「はじめてリアルで聞いたわ。執事ってホントにいるんだな。いつも数学教えてもらってる身としてはどうなのよ、八尋」 「別になにも思うことはねぇよ」 思うことがないわけではないが、突っ込んだら負けのような気がする。 俺の簡潔な答えに啓は心底不満そうに唇をつきだして、食べ終わった弁当の片付けを始めた。もう慣れたことだが、まだ昼休みが始まって五分だというのに、バスケ部というのはやたらと食べるのが速い。 食べ方が汚いという訳でもないのは謎だ。 「それにしてもなぁ、なんであんなガチ高嶺の花がこんな中堅高校に来てるんだよ? もっといいところあったんじゃねぇの」 啓はひそひそと耳打ちするように呟いた。俺は躑躅が二個目のサンドイッチの袋を開けるのを見ながら、卵焼きを口へと運ぶ。 「確か、中学まではそんなに学力があった訳じゃないんだよ。親の都合で転校して、こっちの気候に慣れてから勉強ができるようになったとか」 「それどこ情報よ」 「本人」 「なにを普通にしゃべってんだよオメーは…」 俺だって別にしゃべりたくてしゃべった訳じゃない。数学のペア学習で問題が終わったあと雑談しただけだ。彼女の頭の良さが努力の結果だと知って、真人間であるという事実に追い討ちをかけられたような気分になったのをよく覚えている。 「彼氏とかいんのかな…。三組の矢田が二ヶ月くらい前に告って振られたんだろ?」 啓が隣のクラスを覗きこむように首をもたげた。矢田はバドミントン部のエースで現行の生活委員長だ。身長は高いし頭もよければ性格もいい。俺や啓とは真逆なタイプで、そして何よりイケメンだった。バレンタインでも女子からのチョコ収集率はこの三年間トップだった。 しかしそんな学年一人気の男子ですら、彼女のお眼鏡にはかなわない。 「知らねぇよ。そんなプライベートなことまで聞けるか」 「今度、試しに聞いてみてくれよー。委員会が一緒のお前しかいないんだよ。図書委員とか暇しかないだろ? 男子全員から英雄扱いだぜ?」 「知るか。つーか図書委員会を暇人の集まりのように言うな」 躑躅はそんな俺たちの勘繰りすら気づかず、友人たちと笑いあっている。 今や女子たちはクラスで一つの固まりになって昼食を食べている。もともと女子が少ないというのもあるが、躑躅自身が物静かな女子と仲がいいこと、それに加えてとにかく格別の存在に群がりやすいテンション高めの女子たちがそこに参加したからだ。 どこにいっても人を集める才覚というのは、はっきり言って異端だ。俺には時々、彼女がキリストかジャンヌダルクに見えるときがある。本物を見たことがないのでなんとも言えないが、かの人が現実にいればこんな感じだったんじゃないだろうか。 それほどまでに、躑躅彩佳は完成された女性だった。 ────人前では。 「羽島くん、放課後図書準備室に行かなきゃいけないって言ってましたよね」 気づけば目の前に躑躅が立っていた。彼女が動いたことでクラスの視線が集まるが、俺はその突拍子な発言に思わず「は?」と口にしてしまう。 躑躅がにっこりと笑った。満面の笑みを向けられた俺は彼女が薄目を開くのを見て急いで首を縦に振った。 「────あ、あぁ。そういえば呼ばれてたな。ありがとう」 「いえいえ、同じ図書委員じゃないですか」 「いや、ホントに、ありがと」 躑躅が小さく礼をして教室を出ていく。机を見ると、二パック目のサンドイッチは放置されたままで、どうやらお手洗いに行く途中に声をかけたようだった。彼女の「提案」はいつだって、こんな風に自然にやってくる。 「いいよなー。俺も次回はぜってー図書委員やる」 「いや受験だから来期はねぇよ…」 それよりもお前は高校生最後の試合があるんじゃないのか。そう言うと啓はうつ伏せになったまま頭をだだっ子のようにごろごろと転がした。 「くっそー。いいよなー」 だが俺は、こうやって羨ましがっていられる啓の方が幸せだとは思う。 聖人の内側なんて、覗くものではないのだ。 放課後。廊下で部活へと向かう啓と別れた俺は、その足で図書準備室を目指した。教室内にはもう躑躅の姿はない。それなら先に行ったということだ。寄り道はあり得ない。 吹奏楽部と茶道部以外に一切人気のない特別棟と、教室のある一般棟は短い渡り廊下で繋がれている。吹奏楽部は四階。茶道部と図書室は二階だが、この学校の異様な構造というか──関連書物などの運搬を考慮した上でのことらしいが──図書準備室を含めた資料関係はすべて三階に位置している。 当然、三階の渡り廊下には人はいない。そこを渡っていく俺を、数人の二年生の視線が追うだけだ。彼らの視線の意味は分かる。俺も去年そんな人物を見ていたら、間違いなく同じ反応をしているに違いない。 俺は角を曲がって人の視線を振りきると、周囲に人がいないことを確認して、合鍵を取り出した。 「開いてますよ」 鍵穴に差し込もうと手を伸ばした瞬間、中から聞きなれた声で許可が下ろされた。扉を開ける。 部屋の真ん中、長机に沿って並べられたパイプ椅子のひとつに、躑躅彩佳がお行儀よく座っていた。いま飲み終えたらしき水筒をリュックサックへ入れた彼女は、入り口で立ったままの俺にそのまっすぐな視線を送ってきた。 俺は後ろ手で扉を閉めて、鍵を下ろす。躑躅に手招きされるがままに、彼女の対面へと腰かけた。 「遅いよ八尋くん。歩いてきたでしょ」 「校内は走っちゃいけないもんでな」 「はぁ、真面目だなぁ。ま、いいや。誰にも見られてないよね?」 「ここに来るヤツなんかいるかよ」 その返事の何が面白かったのか躑躅は机に頬杖をつくとニヤリと笑った。爬虫類のような、ある種の官能的な視線は目が合うことをどことなく躊躇させる。 「それで、いい加減返事をくれる?」 「…………」 足元でカパカパという音がして、脛のあたりに柔らかな感触が伝わってきた。上履きを脱いだ躑躅の撫でるような足の感触から気をそらしつつ、俺は彼女の顔を真正面から見つめる。 「何度も言ってるけど、嫌だ。カモフラージュのために付き合うとか面倒すぎる。お前にはメリットしかないかもしれないが、俺は最悪殺されるんだよ」 「だって鬱陶しいんだもの。昨日もサッカー部の、誰だったっけ、とにかく告白されてさ、一回一回振るのもめんどくさいじゃん」 「…お前も大概クソだな」 「だって誰とも付き合いたくないし、かといってちゃんと断らないと私のイメージが崩れちゃうじゃん」 これだ。 躑躅彩佳の裏側──というよりはむしろ内面というべきか──は生徒の抱いている理想とは乖離している。 こういうことを、本気でこの女は言う。躑躅の足が太腿まで這い上がってきて舐るように這い回る。まるで蛇が蛙で遊んでいるかのようで、実際、反応を見て楽しんでいることを知っているので俺はできる限り意識を宙へと向けた。 「付き合うにしてももっとマシなやつ選べばいいだろう。好きでもないヤツと付き合って楽しいのか?」 「やだー、八尋くんったら純情ー。別に私が八尋くんのこと好きだって可能性もあるじゃんか」 「それだけはないだろ」 「あるってー」 ころころと笑う彼女からは、それらしき感情は全く見受けられない。そもそも本当に好きな相手の下半身にむやみやたらに触れる人間など、常識以前の問題だ。 男子のいったい何割が、躑躅がこういう人間だと予想できているのだろう。彼女の表面上に貼り付けられた善性はそういう不敬な妄想すら抱かせない。友人やクラスメイトでありながら、彼女はどこかそれらと明確に異なっている。 実際に俺だって、胡蝶の夢だと思う瞬間がある。 だがこれは現実で、だからこそ俺はある一つの問題に悩まされているのだ。 「まあ八尋くんを選んだ理由なんて単純だよね。私のこの性格を知っていて、なおかつ私のことが嫌いだから。私のことを好きな人なんて、私は好きになれないからね」 それが、これだった。 「……俺だって別に、お前のことが嫌いな訳じゃねぇよ。頭がおかしいって思ってるだけで」 「ほら、そんなこと言えるのも八尋くんだけだもん。そこが好き」 そう、嫌いな訳じゃない。俺は躑躅のことが好きではあるのだった。だからこそ、現状を喜びながらも素直に認めることができない。 「で、どうなの? 今なら夏休み一緒に出掛けられるよ?」 「そんなお得ですみたいに言われても別に乗り気になるわけじゃないんだが」 「あはは。乗せられてはくれないか。やっぱり手厳しいなぁ、八尋くんは」 彼女は笑う。自分のことを嫌いになってくれる人間が好きで、それ以外は嫌いなのだと。 これが夢ならば、彼女が自分を好いてくれる人間を好きになるようなまっとうな人間であればどれほどよかったか。 俺は一度ため息をついた。恒例として断ってはみたが、今日の返事は最初から決まっていた。 「で、どう?」 「……まぁ、分かった。カモフラージュにでもなんでもしてくれ。それでいいよ」 「ホントに!」 上履きを履き直した彼女は椅子を蹴りあげるように立ち上がるとガッツポーズを作ってみせた。これが本物の告白なら嬉しいが、素直に喜べるものではない。 「じゃあ、また明日! 恋人っぽいことしようね!」 躑躅は俺への興味を表すようにさっと立ち上がると、リュックを背負って楽しげな足取りで扉へと向かっていく。手を振って部屋を出ていく彼女に、やはり夢ではないかと錯覚する。だが彼女が定めたルールがすぐに俺を現実に引き戻す。 躑躅が俺を選んだのは、俺が躑躅を好きではないから。 だとするなら、この内側の想いは絶対にバレてはいけないのだ。俺はただ、彼女の望む彼氏を実現する傀儡でなければならない。 明日からの学校生活を思って、ため息が出た。 夏という季節が嫌いだった。 うだるような暑さなんてどうだっていい。そんなものよりも、都会のビル群のはるか向こうで立ち込める入道雲が恐ろしかった。その巨大さもさることながら、白い壁を見ているとなぜだか切なくなった。その水蒸気の巨山が崩れた時、自分の中のなにかも一緒に瓦解していくんじゃないか、そしてそれが、いま過ごしている夏は虚像でしかないと突き付けてくるような気がした。 あの日も確か、そんな恐怖を抱いていた気がする。 初夏。図書室に本を借りに行こうと渡り廊下を渡りきった俺は、ふと風を感じて特別棟の屋上へと階段を上ってみた。掃除道具の入ったロッカー以外は何もないその踊り場で、ドアが小さく揺れていた。気にしたことはなかったがドアには上下に小さな隙間があったらしい。そこから風が漏れ出ている。 空の晴れ具合からは想像できない風の強さ。俺はある期待を抱きながら、ドアノブを捻った。 ガチャリ、と閉鎖されているはずのドアはあっさり開いた。 そしてそこには想像通りの景色が広がっていた。 巨大な積乱雲。街を取り囲むように、ぐるりと巨大な雲の波が流れていた。圏界面に到達して成長できなくなり横に流れつつあるその頂上では、昼間だというのに時折稲妻が光っているのが見えた。 しかし俺はそれ以上に、そんな巨大な自然と相反するようにたたずむ少女の姿が目に入った。 躑躅彩佳が髪とスカートを押さえながら、その景色を見ていたのだ。 優等生が屋上に立ち入って、何する気だ? その疑問は、彼女の頬を伝う液体によってすぐに頭から追い出された。立ち昇る入道雲を静かに見つめながら風に吹かれる彼女の姿は、まるで映画のワンシーンのように色鮮やかなもの寂しさを感じさせた。 彼女は流れる涙をぬぐおうともせず、白い雲をただ見つめていた。 ──その時俺は、生まれて初めて恋というものを自覚した気がした。いつも楽しそうに微笑んでいる彼女の、その対照の表情に、あの白い雲と同じように心を囚われてしまった気がした。 ガタン、と突風に吹かれた扉が壁にぶつかって音を立てた。息を呑む俺の視線と、空に飛んでいってしまいそうな躑躅の瞳が重なった。 「八尋くん…?」 「悪い、躑躅。空いてたから誰かいるのかと思って。──あぁっと、なんか悩みとかあるのか? 泣いてるみたいだけど」 「……これ、目薬だよ」 「え」 ポケットから小瓶を取り出した躑躅は、くすくすと笑いながら少しずつ近づいてきた。ころころと笑う彼女に、俺は羞恥と動揺の二つを感じた。あり得ない早とちりだ。馬鹿馬鹿しすぎて躑躅の顔を見ることができず俯きながら入り口を空けるように一歩下がる。 「八尋くんは、どこからが宇宙で、どこからが空だと思う?」 唐突なその声に顔を上げると、躑躅は心の底まで浸透するようなその瞳で俺を見つめていた。焦点がずれているわけではないが、どこかすべてを見透かされているようなその目。 「あの巨大な雲も、ある高度まで到達すると頭を押さえつけられちゃうんだ。空がもっと遠くまであれば、どこへだって行けるのに」 どういう意味だ。要領を得ない彼女の言葉に返答できないでいると、躑躅はいつものさわやかな笑顔に表情を戻して、扉をくぐった。 「なんてね。とりあえず覗きはいい趣味だとは言えないかな。よく思われないだろうからやめた方がいいですよ」 「いや、別に覗きたくて覗いてたわけじゃ…」 静かに階段を下りていく躑躅の背中に声をかけるが、彼女はその弁明を一切聞かずにただ降りていく。 「おい、聞いてんのかよ。俺は別に──」 「八尋くん」 躑躅はくるりと振り返ると、お行儀よく笑った。 「私と付き合いません?」 「ただいま」 バイトを終えて家に戻ると、もう十時を回っていた。親父が先に帰っているのか、居間からはテレビの音が流れてくる。台所へは向かわず階段を上がると、鞄をベッドの上へと放り出してバイト先でもらった賄いを手に取る。ネクタイを外しカッターシャツの裾を出した格好で、冷え切った弁当を温めるために部屋を出る。 携帯に届いた友人からの連絡を見ながら階段を降りる。電子レンジに惣菜が入っているのを取り出して、代わりに自分の弁当を温める。 惣菜には微熱がこもっていた。おそらく親父が温めるだけ温めて取り出し損ねたんだろう。近くにあった割り箸を掴んで居間へと向かう。 「親父、惣菜忘れてる」 「ん、ああ。すまん」 親父はテレビを見ながらタバコを吸っていた。バラエティ番組だというのに、くすりともしない。吹かした煙が部屋を覆っているので、親父の机に届け物を置いて扇風機を回した。別にもう嗅ぎ慣れた臭いだ。くすぶる紫煙も安い喫茶店のような古くさい異臭も、何とも思わない。 親父がタバコを吸うのは機嫌が悪いときか何かに悩んでいるときで、だから俺も決してやめろなんて言わない。飯時に風上の煙が流れてくるときはさすがに食べる手を止めて無言の抗議をするが、なにしろ男手一つで育ててくれた父親だ。尊敬はしてる。 「最近料理作ってやれなくて悪いな」 「いやいいよ。俺もバイトで忙しいし」 「お前、そろそろ彼女とかできたか?」 テレビの画面を見つめながらそう親父が聞いてきた。夕方のことに少しドキリとするが、まあ事実は事実だ。俺は呟くように肯定した。 あの歪な関係をそんな純粋なものと呼んで良いのかは分からない。いや多分ダメなんだろうが、説明をするのも面倒くさい。 「……女には気を付けろよ。アイツらは子供生んだらさっさと消えちまうんだから」 投げ捨てるようにそう呟いて、親父はチャンネルを変えた。親父の顔は見えないから、どんな表情をしているのかは分からない。 「…あまり昔好きだった女を悪く言うなよ」 俺はそれだけ言って居間を出た。 母親の顔は覚えていない。記憶に残るのはまだ物心つく前に訪れた水族館の思い出だけだ。 そこに映る彼女の顔すら、照明に照らされて覚束ない。 俺たちを置いていってしまった、と父親は非難するようにぼやくがそれ以上は何も語らない。俺もそこには触れてはいけないような気がして、今に至るまで話を聞いたことはない。 とっくに温め終わった弁当を取り出して二階へと戻る。風呂と課題、そして何よりも明日の学校での一日が、俺の頭を抱え込んでいた。 「って、通知…?」 ふと携帯に通知が届いていることに気づいた。それも画面に名前が表示されないあたり、友達登録していない人間からだ。箸を口にくわえて、携帯の電源をつける。 そこには「躑躅彩佳」の文字があった。 「────はっ?」 思わず開いた口から箸がこぼれる。 「躑躅…?」 メッセージは二分前だ。恐るおそるトークアプリを開くと、示し合わせたように通話がかかってきた。慌ててとり落としそうになった携帯をキャッチしてその画面を見つめる。間違いなく、クラスのグループトークで見たことのある躑躅のアカウントだった。咲き誇るツツジの花のプロフィール画像をバックに、躑躅本人の外国で撮ったのであろうおしゃれなトップ画像。猫とバイクの画像の俺とは全く違う。 通話ボタンに触れる。啓からなら瞬時にタップできるそのマークが、今はやけに緊張した。 「返信が遅いんですけどー」 通話先から聞こえた声は不満たらたらだった。電話越しだから多少は変化があるとはいえ、間違いなく、躑躅本人の声だった。 「バイトがあったんだよ…。つーか、何でお前が俺の連絡先知ってるんだよ」 「グループのトークにあるじゃん?」 「あそこから登録したのか?」 「いや、あえて友達から聞いたけど。柳ちゃんだっけ。「羽島くんの連絡先を知りたい」って言ったらテンション高めに教えてくれたよ」 「お前、それわざとだろ…」 「もちろん」 決まりだ。明日は朝から冷やかされる。女子の情報網は恐ろしく緻密で、伝達が速い。シナプスもびっくりなその情報の波に、「クラスの高根の花がどうでもいいような男の連絡先を知りたがっている」という電波が乗れば、それはすぐさま各部へと伝えられる。──おそらくは、男子連中にまで。 しかもやり方が綿密だ。急に付き合っているという告白を聞かされたなら嘘か罰ゲームで済ますことができるが、連絡先を聞くのは地味に信憑性が高い。外堀をコンクリートで埋めている。速乾性、少なくとも一日あればその情報は堅固なものになる。 「まぁいいじゃん。遅かれ早かれ私は発表するつもりだったし。というかそれじゃないとカモフラージュにならないじゃん」 「俺が刺されるって可能性は考慮してくれなかったわけか」 「そうなったら喪に服して夏休みの間は静かにできるからね。あとは受験で断れるし」 ────この女。 まるで当然のように呟く躑躅に、深窓の令嬢という概念を施した奴の気を疑いそうになる。躑躅財閥の影響力は計り知れず、日本の大企業の中でもかなり上位に食い込んでいるが、この調子だとそれまでの過程で人を何人か埋めていてもおかしくなさそうな雰囲気だった。 彼女はわがままでもないし物欲に支配されてもいないが、それでもやはりどこか俺たちとは違う価値観を持つ。優越感とは色合いの異なるそれは、まさしく彼女の屈折そのものだろう。 「お前、その態度でいていいのかよ。親父様か執事に心配されるんじゃないのか」 「夜の寝室には誰もいないことになっているからその心配は不要でーす。あまり遅くまで起きてるとやかましくなるけど」 「何時まで」 「日付またぐくらいかな」 随分と早いが、それが健康的な少女の限界なのだろう。日付またぐのはデフォルト、テスト期間には貫徹なんかもザラな俺たちとは恐るべき違いだ。 「そういえばバイト帰りでしたっけ。風呂入ってくださいよ、汚いから」 「入ろうと思ったちょうど誰かから電話かかってきたんだよ」 「風呂上がりから髪を乾かすまでの間暇だったんだもん。今から寝間着に着替えるよ」 最後に残された言葉に言葉が詰まる。それはつまり、今までは。 「ふふ、下種な妄想はよくないね、八尋くん」 見透かしたように躑躅が囁いた。蠱惑的なその声に思わず首筋を寒気が走る。食べ終わった弁当をゴミ袋にしまいながら、仕切り直すように咳払いをした。 「うっせえよ。いきなり変なこと言いだすからだろうが」 「変なことって。ただ事実なだけじゃない。やだなぁ。あまり他の男子と同じ思考回路にならないでね? 嫌いになっちゃうんで」 「分かってるよ」 彼女の笑い声に思考が落ち着く。そうだこの悪態と表裏一体になった感情は、決して剥がれてしまってはいけないのだ。そうなったときに、この関係は終了する。 「ま、私もそろそろ寝ましょうかね。じゃあ明日、ちゃんと学校来てくださいねー」 返事を待たずに電話は切れた。前言撤回。わがままはわがままだ。身勝手なんてかわいいものじゃないそのエゴイズムにため息が出る。無論、その人間らしさも含めて好きではあるのだが、どうにも振り回されている。 「結局、何がしたいんだ」 考えても答えの出ない問いが、頭の中で錘のようになるのを感じた。 「躑躅さんと付き合ってるってマジか!」 登校直後の啓の驚愕によって、午前中くらいまでは想定していた静寂はぶち壊された。やはり情報は回っていたのだろう、クラスメイトだけではなく廊下や別クラスにまでいた人間たちが集まってきて、取り囲まれる。 一方で躑躅は耐えきれないといった顔で俯くようなそぶりをしていた。 ──カマトトぶってないで何か説明してください。 脳内で自然と敬語になる。女子相手には野次馬もぐいぐいといけないのか、彼女には数人の女子がそばにいるだけで真相を究明しようなんて者はいない。いつもより遅めに登校していたことが功を奏して担任の到着により事態は休止することになったが、その後の体育ではそうはいかないのだった。 「八尋ー、ボールできるだけ回すからな!」 他の大半の男子生徒とは違い、やたらと応援するように楽しそうな啓はそんな風に休憩中ずっといじくりまわしてきた。体育館の隣のコートでは女子がバレーボールをやっている。もちろん躑躅もいるので、啓なりに見せ場をくれているつもりなのだろう。 「いつも見られてるんだから今さらいいんだが」 「お、のろけか」 「違ぇよ。いつも女子は隣だろうが」 「いや、クラスメイトの女子と彼女は別もんだろー、うぁーいいなー、俺も彼女ほしー」 一人で盛り上がっている啓が駄々をこねるように壁に倒れこむと、試合再開の合図が飛んだ。女子の方にちらりと視線を飛ばすと、休憩中の躑躅と目が合った。気まずくなって逃げるようにコートの中心に並ぶ俺を見て、躑躅はずいぶん愉快そうに笑っていた。 「今日は暑いからか、みんなダレてるな。熱中症にだけならないように気をつけろよ」 体育教師の三波の言葉が、彼の頭部によって反射された日光とともに飛び込んできた。確かに、いつもカッコいいところを見せようと力んでいる男子たちも今日はどことなく静かだ。理由なんてわかり切ってはいるが。 あらためて躑躅という一女子の破壊力を思い知らされる。誰にでも──内心どう思っているかはともかく──優しい彼女はいわばアイドルのように、恋人とはいかないまでも好意を抱いている生徒が多い。当然、その幻想が打ち壊されればその影響は計り知れない。 だが俺はそれとともに、彼女に幻想を抱いている人間の数を見て、少し恐怖も抱く。 たとえ根が腐っているとしても、それだけの期待や願望を人は背負えるのか──。 「羽島、悪いが今日は本気でやらせてもらうぜ」 その声でとっくに試合が始まって握手を求められていることに気づいた俺は、急いで相手の手を握り返した。啓の同期である佐々木とはあまり話したことはないが、今日の彼は一味違うようだった。俺はうなずくだけ頷いて持ち場に戻り、小さく躑躅を見る。 躑躅はいま俺が遭遇したことを理解したのだろう、にやけ顔を止められないといった様子で笑っていた。 「くっそ、マジで見とけよ…」 試合が開始する。俺は彼女に見せつけるようにバスケ部相手に奮闘するのだった。 「午前中はひどい目に遭った…」 「お疲れだったなー」 昼食を食べようと席に着いた俺を、啓がからかうように小突いた。 「数学はどうだったんだよ。ちゃんと躑躅さんと話したか?」 「そりゃもう、飽きるくらいにな…」 「飽きはしないだろ…」 啓があり得ないといった顔をするが、実際そうだった。なんの嫌がらせか、いつもの一物を抱えた笑み──他人にはそれがいびつだとは感じられないようだが──で、ずっと話しかけてきたのだ。俺はその表面上の眩しさにぼろを出してしまわぬように適当に流していたが、問題はそこからだ。 「話しかけられすぎて、細谷に食いつかれたんだよ…」 「マジ?」 細谷も相手が躑躅だけあって最初は無視していた。しかし躑躅が幸せを振りまくかのように話しかけてくるので、ついに癇に障ったらしい。「ほら羽島、カッコいいところを見せるチャンスだぞ」と笑いながら大量に恒例のクソ問題を出した細谷は、さっさと解くように催促してきた。俺は躑躅に憎々し気な視線を送ったが、彼女は知らぬ存ぜぬといった表情で俺を見つめるだけだった。 「へー、相変わらずダメ男だな細谷」 「奥さんに同情する」 「それなー、まあ頑張って生きてくれって感じ」 「おう、ってどこか行くのか?」 立ち上がった啓ははにかみながら廊下を親指で指し示す。 「トイレ。一緒に行くか?」 「あぁ、いってら」 「なんだよー」 啓が教室から出ていくのに手を振って、俺はカバンから弁当を取り出した。風呂敷に包まれた赤い箱と一緒に落ちてきた紙片に心が曇る。 結局、さっきの授業では躑躅が俺にヘルプを出す形で解いてくれたわけだが、それがさらに気に食わなかったのか、細谷は「躑躅がいるなら安心だな」と無数の課題を残していった。上がったのは躑躅の株だけで、俺はただ大量の課題を残されただけとなった。明日の二限までにこれを終わらせねばならない。 「ったく……」 メモ用紙をポケットに突っ込んで弁当を開けようと手を伸ばして、肩をたたく手に気が付いた。 「はいよ」 真後ろに倒すように背後を仰いだ俺の後頭部を、柔らかい布の感触が包んだ。 「八尋くん…?」 「ごめん躑躅」 背後には困惑した──ように見える──躑躅が立っていた。状況を察して血の気が引くのを感じた。彼女の腹部にもたれかかるようになっている現状は、どこからどう見ても弁明のしようがない。躑躅のひきつった顔は引いているのではなく、笑いをこらえているのだろう。それは周囲の視線が一斉に集まった現状で何となく察することができる。 「いや、いいよ。それより、お弁当一緒に食べない?」 とどめを刺すように、教室中が静まり返った。 こいつ……。 俺は視線だけで苦情を訴えるが、躑躅のわざとらしく赤く染めた頬は、気にもかけてないようだ。 どころか、この状況を楽しんでいる。 「……あぁ、いいよ。啓にだけ伝えたいから先に座っててくれ」 「うん、ありがとね。──そういえば、今日、その、一緒に帰りませんか。傘を忘れちゃって」 「おう、オッケー」 「ありがとうございます。楽しみにしてますね」 躑躅はパタパタと窓際の席へと走っていった。教室中に蔓延する張り詰めた静寂とほのかな殺意を、彼女は理解しているだろう。理解はしているのだ。それが躑躅彩佳という女なのだから。 唐突なゲリラ豪雨だった。 いつもの図書準備室で経過報告をし終えた俺と躑躅は、時々ピカリと光る稲光を見ながら、二人で玄関に立っていた。帰宅部が帰るには遅く、完全下校や部活の終了には早いこの時間、玄関には他に誰もいなかった。 「はぁ……」 夏の雨のじっとりとした熱は、どうにも居心地が悪くて嫌いだ。息を吸い込むと肺の中まで生ぬるい空気で満たされて、空気を正しく吸えていないような、そんな気分になる。しとしとと降り続ける雨音は心を落ち着けてくれるようではあるが、同時に時間の経過がぼやけてしまって不安になる。 横の躑躅も、そんなことを思ったりしているのだろうか。気分屋代表といったような性格の彼女は、アスファルトを砕くかのごとく打ちつける雨を眺めながら、数学の参考書のページをめくっていた。 「さっきから何を探してるんだ?」 「臭いんで近寄らないでくれます?」 お前……。 横から覗いた俺から露骨に一歩引いた躑躅は、参考書を閉じるとやかましい子犬を構ってやるといったような目で俺のことを見た。 「明日の授業の練習問題の範囲ですよ。あの先生、なんかやたらと私当ててくるんで。正直気持ち悪いけど、解くしかないし」 「授業中に解けばいいじゃねぇか。いっつも何かノートに書いてんだし」 「なんで見てるんですか、キモ過ぎる…」 「見えるんだよ!」 本音を言えば見てはいるのだが、そこは言わぬが花だ。躑躅もまだ学校ということを思い出したのか表情を戻すと、参考書に書き込むためのボールペンを胸ポケットにさしながらまた視線を空へと戻す。 「授業始まってすぐに解いていない問題を聞かれたらそこで詰みじゃないですか。私は大抵のことはできますけど、初めてのことにはやっぱり戸惑うんですよ」 「だから予習してんのか。でもそれなら授業聞いた方がいいんじゃないのかよ。その方が覚えはいいだろ」 「…………まあ、みんなそう言うんでしょうね」 躑躅の目が少し陰ったのが見えた。なにか都合の悪いことでも聞いたのだろうか。俺はその初めて見る様子に戸惑ってしまい、慌てて視線を空へと逃がす。躑躅と同じように宙を見つめていることになるが、躑躅は何も言わず、静かに空を見つめていた。 「手紙ですよ、母親への」 「何が?」 「授業中に書いてるもの。暇つぶしにですけど」 躑躅はそう言ったきり、黙り込んでしまった。躑躅財閥の社長秘書であった躑躅紗季が六年前に亡くなったことは、財閥について少し調べた者なら普通に知っている。世継は躑躅彩佳一人、その状況でも新しい妻を迎えなかった財閥の社長。 俺は慰めるのもどこか違う気がして、躑躅の透き通った横顔を見る。 「夏休み、どうする」 「何がですか」 「一緒にどこか出かけようぜ」 「私、数日しか空いてないです。夏祭りの日は、確か空いてましたけど」 「じゃあその数日出かけようぜ。ちゃんと騙さないとまた変なのが現れるようになるだろうし」 躑躅はうすぼんやりとした表情で俺の顔を見つめた後、静かに携帯を開いた。 「迎えが来たみたいです。ではこれで」 「傘いるか?」 「あんまりガラでもないことするもんじゃないですよ、気持ち悪いんで」 躑躅は静かに笑う。その控えめな笑い方はしかしいつもと違って、少しだけ無垢に見えた。俺は駐車場に姿を現した外車から傘を差した黒服が出てくるのを見て、彼らにどことなく壁のようなものが張り付いているのを感じた。 躑躅がこちらに小さく頭を下げて車へと乗りこむ。俺はそれを見送ってから、鞄の中に入れていた折り畳み傘を開いたのだった。 夏休みが始まって十日。躑躅と初めて出かける日は、予想以上に良好な天気だった。深い青色の空に綿雲がいくつも浮かんでいて、吹きぬける風が強いので八月に入ったというのに随分と涼しかった。俺はガレージから愛車を引っ張り出す。グリーンライムの四〇〇CCの荷台に旅道具を一式積みこんだ。そこまでの遠出ではないし、後ほど一人追加で載せるので最低限だ。本当はもう少し積むことができるが、日帰りにそこまでの荷物は必要ない。 「なんだ八尋、出かけるのか」 出勤しようとしていた親父がガレージの戸から現れた。クールビズなのかネクタイも緩めたラフな商社マンは、シャッターを開けると入り口を塞ぐようにしている四駆の周囲の確認を始める。 「まあ、ちょっと」 「彼女とか?」 何度聞いても慣れないその単語に口を濁しながらうなずく。親父は特に何も疑問に思わなかったのか、バイクを見てそのヘッドライトを撫でた。 「まあ夏だしな。でも気をつけろよ。お前の運転は落ち着いてるが、やや飛ばすのが下手だからな」 「飛ばさないから大丈夫だよ…。親父こそもう八時だぜ。急いだほうがいいだろ」 「おう、そうだったそうだった。まあ朝帰りでも俺は一向にかまわんからな。楽しんで来いよ」 「へいへい」 その展開になることだけはない。よしんばその状況になったとしたら、明日の朝には俺は死んでいるだろう。そしてそれはニュースにならない。躑躅財閥の娘と強要して関係を持つということは、つまりそういうことだ。 「もう着いた、って速いな…」 トークに送信された躑躅からの苦情を見て、スロットルを回す。車体をガレージの外に出してから降りてシャッターを閉めて、走り出す。今日はこれからさらに晴れるらしい。どうなるのだろうか。適当にその辺を走るという話だったが、デートとはそういうものだろうか? まあ躑躅にとっては出かけるという行為自体が必要であり重要な行為なので問題ないんだろうが。 車に乗っているサラリーマンたちを横目に、私服でバイクを走らせるのはわりと楽しい。ウィンカーやライトなどの車載機器と、発煙筒やインカムなどの設備を確認しつつ、集合場所となっている駅へ向かった。 ロータリーに入った瞬間、躑躅はすぐに見つかった。黒色のカッターシャツに白色のデニム、カーキ色のキャップとシューズ、そして彼女らしくない紺色のウェストポーチ。どれもありふれた格好だが、躑躅だとすぐにわかる。雰囲気が彼女らしかった。 「よう、今が集合時間だぞ」 「別に、ちょうどいい時間の電車がなかっただけ」 「電車で来たのか? 執事の人たちは」 「デートについてこさせるわけないじゃないでしょ」 近くで見ると躑躅は薄く化粧をしているようだった。私服や、後ろ髪を左側に垂れるようにまとめている髪型も相まって、どこか別人に見える。 「何着ても似合うんだなお前」 「そうですね。別にいいんですよ、私の姿なんか。そんな事よりなんであなたはバイクに乗ってるんですか? うちの高校、免許取得禁止でしたよね?」 「免許は高校に進学するときに知り合いに頼んで取らせてもらったんだよ。まだ生徒じゃなかったからセーフだろ?」 「アウトです。頭おかしいんじゃないですか」 躑躅はそう言いながらも荷台に積んである荷物類をしげしげと見つめていた。こういうものに乗る機会もなかったのだろうか。 「これ、ちゃんと洗ってあります?」 ヘルメットを渡すと躑躅は予想通りの反応を返してきた。内側のにおいをスンスンと嗅いだ彼女はバイザーの開閉を繰り返してほこりなどがついていないかを確認する。 「母親が使ってたやつだけど、もう二十年位前だしきれいに洗ってあるから大丈夫だよ」 「お母さまがバイクに乗ってたんですか?」 「そんな話を聞いた、ってだけだけど。うちも母親いないからさ──」 すぐに最後のフレーズを発したことを後悔したが、躑躅は短く「そうですか」とだけ呟いてヘルメットをかぶった。インカムの操作方法を教えようと振り向くと、予想以上に近かった彼女のヘルメットがぶつかる。 フルフェイスだけあって表情は見えないが、彼女の頭を押さえる動作である程度の衝撃を加えたことだけは分かった。 「……悪い」 「いや大丈夫。あとインカムも使える」 その声もインカムを通してのものだった。俺がエンジンをかけてスロットルを回すと、躑躅の腕が胴に巻きついてきた。そういえば誰かと二人乗りなどしたことはなかった。今さらになってその事実と責任を実感して、背中の感触なんて気にならなかった。 バイクを発進させる。バックミラーの中で躑躅は夏の日差しをうっとうしがるように見つめていた。その瞳は見えないが、なんだか物憂げなような気がした。駅周辺を抜けて、田舎道へと侵入する。ここからは街の喧騒はない。ただただ風を身体に感じるだけだ。 「そういえば躑躅、日焼け止めとか塗ったか?」 カーブや信号で重心に慣れるように運転していると、躑躅が俺の胴の前で袖をめくって見せた。わき見運転をできるほど運転に自信がないので、速度を落としながらちらりと視線を落とした。 彼女の肌はとても白く、透き通っていた。保湿というより保潤という単語が浮かんでくるような瑞々しさは、クリームやらをつけてべたべたしているわけでもない。いつも授業で見ているはずなのに、今日は格段と綺麗だと感じる。 「年頃の女の子が出かけるうえで意識すること、いくつあるか知ってます?」 「俺は年頃の女の子じゃないから分かんねぇよ」 「でしょうね、童貞っぽいですし」 「お前なぁ…」 啓あたりが今の発言を聞いたら泣くぞ。お前を好きでいてくれる奴は間違いなく幻滅だ。 それらの言葉が頭に浮かんだが、口に出す気にはならなかった。あまり配慮を重ねると、彼女に嫌われかねない。 躑躅は別段、学校での自分を気に入っているわけではなさそうで、おそらくそれを俺に指摘されるのも嫌なのだ。俺はあくまで特別枠。変人が変人にシンパシーを感じているようなものなのだろう。 「いや、今はいいか」 「何が?」 「ちょっと速度上げてみる。しっかり掴んどけよ」 「事故ったら殺しますよ」 「多分その時には死んでる」 スロットルを全開にして、田舎の一本道を全力でかっ飛ばす。標識も田んぼの案山子も、すべてが後方へと流されていく。時々悪路でバウンドして、車体が宙に浮く。それですら爽快で、メーター限界まで速度を絞り続けた。 「ちょっ、速い!」 躑躅が絶叫する。だけど恐怖は感じない。俺はさらに吹かし続ける。 「いつもの車からじゃ見れない景色だろ!」 「もうっ!」 躑躅はそれを肯定しながら、楽しそうに笑っていた。 吹きつける風は強いが、自由を感じられる気がした。俺の肩から前を覗き込むように見ている躑躅。 今だけは、彼女の枷すら全部置いてきぼりにできているような気がした。 「で、どこに行くつもりなんです?」 「まだ決めてねぇよ」 「え」 速度を落として安定した走行に移った俺の返答に、躑躅が理解不能といったように首を傾げた。 「じゃあ今どこに向かって走ってるの」 「適当だよ。思いついたところに行くつもり」 「もうちょっと頭使って生きた方がいいと思うよ」 別に何も考えていなかったわけではない。それが彼女の興味に合うか分からなかったので、すべて予備案になっただけだ。躑躅に行きたいところがあればそこへ行くのだが──。 「何も考えてなんかないよ。…出かけるって事実だけが重要なんだし。そもそも私が観光地なんて知ってるわけないじゃん。遊びに出かけることすら少ないのに」 「仕事で連れ回されとかしなかったのかよ」 「一般公開されるようなところでパーティーや会合なんかするわけないでしょ。とにかく、私に行き先を決めさせると来た道を戻ることになるよ」 そのよく分からない脅しはなんなんだ。少しムッとして言っているのがさらに分からない。だがやはり、躑躅はこのドライブをデートだなどとは思っていないようだ。まあ当然だし、そんな希望を抱いていたなら俺の思い上がりだ。彼女が俺と出かけているというこの状況は、俺が顔所を嫌悪しているふりをしているからであって、何一つ俺が何かをしたわけではないのだから。 「で、どこ行くの」 「俺が決めていいんだな? 後から文句言うなよ」 「うんうん、楽しみにしてる」 彼女の頷きに車線を左へと移す。目指す先は青色の滝が有名な山間地域だ。躑躅が気に入るかはともかく、涼しいし時間を潰すにはよさそうだった。 「いやぁ、楽しみだなぁ」 後ろで厭味ったらしくハードルを上げる躑躅を無視して、俺はアクセルを踏み込んだ。 滝を見て午前中を過ごし、シーサイドラインを滑走しつつ適当な道の駅で昼食をすました俺たちは、その後ひまわり畑を見ていた。時刻は午後四時。そろそろ帰路につかなければならない。振り向くと躑躅は萎れかけている向日葵を熱心に見ていた。他よりも丈の低いその一輪は、日光を十分に得ることができなかったのだろう。 「なあ躑躅、門限とかあるのか?」 あえてそれとは関係のない問いをした俺に、彼女はやや沈黙を保ってから向日葵に向けていた視線を外す。 「そんなこと気にしないでいいよ」 躑躅はやや元気なさげにそう不満を漏らした。連れまわしたからかいつもよりも疲れの見えるその表情にバイクに乗りかかるように促すと、彼女は珍しく素直に乗り込んだ。 「そんなことより少し行きたいところあるから、連れて行ってくれない?」 躑躅は俺の肩にもたれかかりながらそう呟いた。その意図は分からないが、俺はうなずいて指示されたとおりの道をナビへと打ち込む。そこは街から二十キロほど離れた山だった。 「この山、すごく景色が綺麗なの」 肩からナビを覗く躑躅は、それに別段何の喜びも抱いていないような声でそう言った。まあ躑躅からすれば俺と景色を見ることなどどうでもいいだろう。むしろ今日、涼しいとはいえ日焼けするような炎天下に繰り出してきてくれたことのほうが珍しいくらいだ。 躑躅の考えていることはよく分からない。こいつの性格が悪いことは間違いないが、なぜ俺は認められているのか――いや実際に認められているわけではないが――俺を選んだのか。 もし、俺の気持ちを伝えたら。この関係はどうなるのだろうか。 「なあ躑躅、今度はどうする?」 「今度?」 「夏祭りとか、行くか?」 「あぁ、それね」 まだ薄明るい空を見つめる躑躅は少しの間返事をしなかった。それ自体はよくあることなので俺は少しだけ速度を落として道路へと侵入する。車は前にも後ろにも走っていない。ただ蜃気楼をくゆらせるアスファルトだけがうねりながら続いていた。 「──カモフラージュのためなんだから、むしろ一番重要な行事でしょ」 「……まぁ、そうだな」 その通りではある。夏の間に恋人同士が行く最重要イベントだ。啓も引退した部活のマネージャーたちと行くと言っていた。受験期に唯一いけるイベントだろう。 入道雲が赤色の鈍い光を受け止めながら海の向こうで立ち上がっている。夏なのだと、特に実感させられる瞬間だ。もう俺たちの青春は長くない。夏はダイナミックに、それでいて粛々と、終わっていく。 「積乱雲を見ていると、少し怖くならない?」 躑躅もいつの間にか沖の方へと目を向けていた。そこに立ち込める巨大な壁を見つめながら、彼女の抱きつく腕に力がこもるのを感じた。 「お前、変にノスタルジックなところあるよな」 さっきの自身の考えを棚に上げてそう煽ってみるが、しかし躑躅自身はそれに対してなんとも言わなかった。彼女は俺が正当を返すことを知っているかのように、ひたすら積乱雲を見つめ続けている。 「まあ、分かるよ」 なんとなく、そんな言葉が口をついて出た。躑躅のこちらに対する期待もそうだが、実際俺にはその恐怖が感じられるからだ。 遠いから雷に打たれるはずはない。その大きさに恐怖を覚えるにしても、そんなものは実際の自身の身体には何の関係もない。だけど、怖い。 何かが強制的に終わらされてしまうような、簒奪への恐怖。自由を心のどこかで求めている俺たちには、それがどこか耐え難い。 「八尋くん、そこの道に入って」 そんな俺の感傷を突き破るように、躑躅の腕が目的の方向を指し示した。しかしそこには獣道が広がっているだけだ。バイクでも通れないことはないが、悪路というには十分すぎる。 「ここでいいのか?」 「八尋君はもしかしてナビが読めないタイプの人間なの? そこだって表示されてるじゃん」 「一応の確認だよ……コレ、不法侵入だろ。公的資産じゃなかったはずだけど」 「入場管理が結構緩いからバレないの。入り口が獣道みたいになってるから一般車両も入ってこないし」 「ガバガバかよ…」 スロットルを落としつつ山道へと突っ込む。腐りきった枯葉を踏みつぶして、流れていく草木を払いながら運転していく。水たまりや道路にまで張り出した根に跳ねる車体を抑えながら、蝉時雨の中を駆け抜ける。身を包み込もうとする喧しいラブソングをはねのけるように、スロットルを捻る。 傾斜の緩い坂道といえど、こうも螺旋状に回り続ければ身体にはそこそこ負担がかかる。 「もっと快適な運転できないの?」 「うるさい、舌噛むぞ」 一蹴した俺に躑躅はさらに不満を言おうとしたようだが、水の小道によって大きくバウンドすると黙った。代わりにエンジン音と二重奏を奏でているセミの求愛に耳を澄ますように空を仰いだ。 「セミってさ、一週間で死んでしまうっていうけど、あれは管理下での研究結果らしいよ。もっと長生きするんだとか」 「はあ。それが?」 「やっぱり自由な方が長生きできるのかな」 それが誰の比喩なのかは簡単だった。躑躅は自分が露骨な話題に触れていることに気づいていないようだった。であれば、俺もあくまで抽象的な話題としてそれをとらえるべきだろう。 「さあな。鳥には食われるし、子供には捕まえられるし、案外かごの中で何もかも与えられている方が幸せなんじゃないのか?」 自然界というのは、人間が想像しているよりもずっと厳しい。ほとんどの生命は自分以上の天敵に怯えつつ過ごす。橙色の空の下集まりつつあるカラスの群れも、より大きな猛禽類に襲われたらひとたまりもない。 「でもそれは、研究している側の、飼い殺すことを正当化するための身勝手な思い込みじゃない?」 躑躅は仰いだままの視線をバックミラーへと落とす。鏡面で目が合った彼女は自分が何を話しているのか理解したというように眉を少し上げてから、ゆっくりと目をそらした。彼女はまた空へと視線を戻し、何かを思うように流れていく雲を見つめる。 「まあ、俺はかごから逃げようとしてみてもいいと思うけどな」 空へ送り出すように呟いたその言葉。 躑躅がどう考えているとしても、俺はそう思った。それが嫌なら、いやだというだけでも大事なことだ。酸素を与えられることなく花が枯れていくところなど、見たくない。 「……そう」 気づけば頂上に到着していた。小屋と簡易トイレ、あとは木をそのまま切り出したベンチ、薪でもするのか何本かまとめて環状に組み立てられた数本の枝があった。人の気配はない。誰かが使っていた痕跡もだ。 「ここでいいのか?」 尋ねる俺に躑躅は呆れたような顔をして、後ろを指さした。 「そう。後ろ、見てみなよ」 ヘルメットを外しつつ後ろを振り向くと、そこには別世界が広がっていた。海岸沿いとはうって変わって雲一つない空が、鮮やかな赤色に染め上げられている。消えゆく入道雲を貫くような陽の光が田舎道を染め上げていた。バイクから降りた躑躅もそれは一緒だ。逆光でシルエットとなった少女は髪をかきあげながら、登ってきた道の両端からこの広場を囲むように建てられた簡易的な柵へと寄りかかる。 「危ないだろ」 「大丈夫。子供じゃないんだし──あっ」 「おい!」 目の前で躑躅が柵からずり落ちるように体を浮かせる。咄嗟にその華奢な身体を抱きしめて引っ張り、柵のこちら側へと引き戻す。 「嘘」 しかし躑躅は余裕のある笑みで俺を見ていた。 クソ、俺が慌てる様を見たかっただけか。まんまと騙されたので仕方なく躑躅の横で柵にもたれかかって影を引いていく夕日を見つめる。 「ここで花火を見たら綺麗かもな」 「そうだね。あまり街の光も入ってこないから光害も小さいとは思う。ついでに星を見ていこっか」 星を見る。それは彼女的に大丈夫なのだろうか。躑躅と天体観測というのは正直嬉しいが、日が延びる夏というこの季節に、彼女にそれほどの時間があるか。 憂慮が伝わったのか、躑躅は鼻を鳴らして笑う。 「星を見る時間くらいならあるよ」 それでも俺は怪訝な顔をしていたのだろうか、彼女は呆れたような顔をする。 「大丈夫。今日は月もないしよく見えるよ」 そういうことじゃないんだが。しかし躑躅に配慮されるというのも珍しい経験だから俺はうなずいて、バイクから夜を過ごすために使えそうな道具を探す。 「うん、大丈夫でしょ」 躑躅のその言葉が何の想定をしているのか、俺はあえて考えようとしなかった。 満天の星空。初めて見たその光景に思わず声が出た。どこを見てもダイヤモンドのような光が輝いている。星が瞬く、とは言いえて妙だ。星々は時々煌めき、その光を強いものにする。距離感の薄れるその光景に、しかし宇宙の大きさを改めて突きつけられたような気分になる。 躑躅も静かに星を見上げている。カーテンにあしらわれた宝石を見上げるその少女は、いつもよりも、冗談じゃなく星よりもきれいだった。学校では優等生ぶってまとめている二つ結びがないからだろうか、それとも彼女の表情か。ベンチに座っているその姿だけで、もう絵になっている。 「なあ、躑躅」 「八尋くん、今いいところなの。分かるよね?」 棘のある言い方だったが、彼女の気持ちは理解できるので、俺は詫びて同じように星を見る。確かにこの空の下では、言葉なんて野暮なように見える。 俺と躑躅は一時間くらいは空を見上げていただろう。雲が出始めた今、やっと躑躅は星から目を落とした。 「悪かったね、八尋くん」 「いや、あのタイミングで話しかけないのが当然だからな。俺が悪かった」 「そう、ならよかった」 彼女は微笑むとベンチから立ち上がり、広場を歩き出した。後を追った俺に彼女は振り返ると、目を見つめて悲しそうに笑うのだった。 ──なんでそんな顔をするんだ? 聞きたいが、聞くことができない。この好意が伝わってしまったら躑躅はもう、この距離にはいてくれなくなるから。 彼女は夕陽を見た柵へとまたもたれかかると、携帯を開いた。画面に数回触れた後、横に並ぶ俺の肩をたたく。彼女はその怜悧な目を俺の瞳の奥へと突き刺すように絞っていた。 「八尋くん、あなたは、私のことが嫌い?」 その問いに思わず息が詰まる。嘘がバレたのか。つい顔に出ていたのだろうか。要素が多すぎて一つに絞れないが、俺はかろうじて冷静さを保つことができた。彼女の視線を真っ向から受け止めると、小さくうなずく。 「あぁ、俺は今でもお前が嫌いだよ」 良心が心臓をブスリと突き刺す。嫌いだ、と心に何度も自覚するように言い聞かせているのにこの痛みだけは決して引くことがない。星空のもとで交わす言葉がこのありさまじゃ、俺には夢が現実になるなんてことはないのだろう。 「……そう、よかったわ」 躑躅はやはりいつもの通り何の関心もないようにしてそう言うのだった。その平常に、どこか安心している俺がいる。この決して報われない関係を、それでも繋いでいられるという嬉しさが、どこかにある。それはあまりにも醜く薄暗いが、それでも鈍い光を放っているのだ。 「そろそろ降りるか」 「……そうね、早く降りた方がいいわ」 そう言った躑躅は携帯をポケットへしまうと、気だるそうにベンチへと座り込んだ。 「躑躅、言ってることとやってることが違うんだが」 「いや、これでいいのよ。私はここにいるから」 「はぁ? こんな山の中で一人にできるわけないだろ」 「いいから。八尋くんはさっさと降りるなりした方がいいわよ」 「意味が分か──」 ふと、耳に異音が入った。車の走行音だ。森の木々を踏みしめながら数台の車が走っている音。間違いなくさっき通ったこの山道だ。 本能的にバイクのエンジンを掛ける。いざとなったら飛ばす。このすれ違うのもやっとな狭い山道で振り切れるかどうかは分からない。だが夜のうねり道を豪快に飛ばしてくる連中が、一般人であるはずもない。しかし一方で躑躅はベンチに座ったまま入り口をつまらなさそうに見ていた。 「おい、躑躅」 呼びかけにも、彼女は答えない。段々と近づいてくるタイヤの音の正体を理解したとき、それらは現れた。 見覚えのある黒塗りの高級車。それも一台や二台ではない。十台以上──それ以上は道の途中で待機しているから俺からは見えないが──が広場へと続々と集まってきた。 そのうちの一台、巨大なランクルが薪を踏みつぶしながら、俺たちの正面に停まった。それを合図に車の中からたくさんの黒服が姿を現した。規格化されたその姿はヘッドライトに照らされていなければあっさりと夜に溶け込んでしまうだろう。 躑躅の、──いや躑躅家の使用人たちだ。 「彩佳お嬢様、事前に提出された行動計画とは現状が随分かけ離れているようですが」 「貴方たちに何してるかなんて知られたくないもの。当たり前じゃない」 その物言いは、学校のように着飾っているわけではなかった。そしてその彼女が通常なのか、黒服たちも動じるようなことはなくただ機械的な視線を彼女に向けていた。 「しかし昨今はなにかと物騒ですので。躑躅家の令嬢が護衛もつけていないとなれば、どの様な事態に巻き込まれるか」 「それは貴方たちの問題であって私の問題ではないですから。実際、貴方たちとてクビが飛ぶから困るだけでしょう?」 「…決してそのようなことは」 逡巡するように濁った男の返答に、躑躅も追及はしなかった。 「いいわ別に。貴方たちも大変ね」 何の感情も持っていないようにその言葉を吐いて、黒服の群れへと向かっていく。 「躑躅!」 俺は気づけば意味もなく彼女を呼び止めていた。彼女の暗く澱んだ視線が、突き殺すような鋭さをもって俺へと飛び込んできた。その一刺しで、何も言えなくなった。彼女を引き留める言葉を探しているはずの頭が、どんな言葉が適切かを探すあまりに迷子になる。 「この男は」 「友人よ」 「このような者とこんな時間まで一緒にいるとは…」 「八月限りは自由にさせてもらう約束なはずだけど」 「しかし…」 「父上の命令よ」 「……申し訳ございません」 躑躅の言葉に男があからさまに体を震わせた。それが彼女という存在の特別さ、躑躅家という家の強大さを再び俺の頭へと捩じ込む。 「八尋くん、置いていくことになって申し訳ないわね。…また会いましょう」 車へと乗り込む彼女はそれだけ言って黒の中へと消えていった。即座に車たちが撤収していく。俺は何も言えずに、ただ静寂を取り戻した星空を見ていた。 また会いましょう。彼女のその言葉が本心なのか、それすら俺にはわからなかった。 躑躅彩佳という才女の存在は、一年生の時から知っていた。他クラスに美人がいると聞けばとりあえず確認するのが男子だ。それが財閥のお嬢様だとあれば尚更だ。 だが俺はその時、別段彼女に対して好意を抱いたわけじゃなかった。確かに素晴らしい生徒なんだろうし、気品もあれば親しみやすそうな人間だ。だけど、それだけだ。 むしろオブラートか、下手をしたらもっと薄い何かを一枚かぶせているようなその雰囲気が気になった。躑躅彩佳の彼女らしさは作られ、保たれている。それが俺の抱いた感想だった。 だからこそ、あの日の屋上で彼女の涙を見たときに心が揺さぶられたような気がしたんだと思う。おそらく、屋上やドライブの時に見せたような夏の終わりへの感情が、彼女の素なのだ。それが俺と同じようなものなのかは分からない。だけどあの時の彼女は、歪ではなかった。 だからこそ俺は、あの山の頂上での躑躅に、少しばかり恐怖を覚える。彼女が怖いのではない。彼女がまたあの膜を張りなおしてしまうんじゃないかと、そんな予感がした。彼女を取り囲む圧迫に耐えるためには、彼女自身の力だけでは足りないのだ。 好悪を除いても、それだけがただ心配だった。 「六時半に会場周辺の神社集合、か。バイトどうしたもんか」 昨夜送られてきた集合場所を地図で確認しながら、俺は出かけられるように着替える。会場に直で集合せず人通りの少ない場所を集合地点にしてくれているあたり、躑躅は俺がバイクで来ることを見透かしているようだ。 会場周辺には警察がいるし、神社の周辺に祭りの時だけ解放される無料駐車場があるからこの場所というのは最適解に近い。それを躑躅が知っていたのかは知らないが、俺は毎年ここにバイクを停めている。 駐車場周辺に監視カメラがついているので警察にとっては巡回する必要のない穴場となっているのだ。 だが一方で、いま俺にはバイト先からのヘルプの連絡が来ていた。祭りがあるということでもしかしたら人手が足りなくなるかもしれないらしい。コンビニはいざとなれば一人でも回せないことはないが、それは客一人にかける時間の際限を鑑みなければ可能であるというだけの話だ。とてもじゃないが不可能だし、今日のシフトは四人だが、それでも足りないくらいだろう。 何よりも、その誘いを受けようというだけの巨大因子が俺の中にはあった。 「本当に来れるのか…?」 一週間ほど前、最後に見た躑躅はとてもではないがこんな祭りに参加できそうな様子ではなかった。あの黒服たちも警戒している様子だったし、許可が下りるかどうか。 ──いやそもそも、躑躅が俺と一緒に祭りに行きたいかどうか、か。 躑躅が最初にドライブを提案したのはその辺もあるように感じる。アイツは俺といるところなど、学校の連中にはあまり見られたくないのだ。実際学校ではほとんど話しかけてこなかったし、あのゲリラ豪雨の午後だって距離は保っていた。 好きだ、というにはあまりにも遠すぎるその距離を詰める手段を、俺はもたない。 「今回に至っては、誘ったのが俺だしな…」 今日は薄曇り。花火の音が大きく響きそうだ。それすら躑躅は、煩わしく思うのかもしれない。 「来なくたって、おかしくはないよな」 一人ぼやくと、突然携帯に啓から電話がかかってきた。タップするとやけに張り切った声で相手が出た。 「八尋ー、店長からのライン見たかよ。バイト入ってくれないかだって」 「見た。どうしようか迷ってるところ」 「え、躑躅さんと祭り行かねぇの」 ぐっ。考えていたことを突かれて言葉が濁る。 「あぁー、なんか向こうが乗り気じゃなくてな」 啓はその反応を不思議には思わなかったのか、フーンと相槌を打った。 「倦怠期早いなー。俺は笹森さんと行くぜ。なんと、突然二人で行くことになった!」 「その話は何度も──」 って、マジか。唐突な友人からのカミングアウトに意識がそれる。 「え、もうそれは完全に脈ありだろ」 「いや、俺が誘ったからそれは分かんねぇな。笹森さんは基本誰にでも優しいからなー」 「いやいや…」 二人で夏祭りなんて好きな相手でもなければいかないだろ、と口にしようとして、我が身を振り返って口をつくんだ。そうとも限らないな。 「まあそうだな、店長困ってるみたいだしヘルプに入るつもりではいるよ。躑躅次第だから聞いてみるよ」 「後悔すんなよー」 啓ののんびりとした忠告に頷いて、俺は躑躅にその旨を送った。俺は携帯をリュックの中へとしまい込むと、バイクの整備をするためにガレージへと向かった。 躑躅財閥は、大戦後から急速に新調した大家、躑躅家に端を発する、現在では政界にまで影響を及ぼすとされる巨大企業である。躑躅家自体から政治家が排出されているわけではない。ただ躑躅財閥のシェアを縮小させるような発言を行った政治家はすぐにその姿を消すし、マスメディアも彼らの不祥事はほとんど取り上げようとしない。その市場といえば、下請け企業まで含めれば国内の三割近くの企業をグループ傘下とするほどの巨大さだ、 その大財閥に生まれた躑躅は、最初から未来を約束されていたようなものだった。 そう、約束されていたのだ。躑躅家はいつでも遺産の等分相続を確実に行ってきた。男女出生順関係なく、財閥のすべてが子供へと送られる。しかし養子縁組などを一切行わない躑躅家では、彩佳の母親が亡くなった時点で、躑躅彩佳ただ一人にすべてが相続されることが決定した。 彼女はすべてを用意され、その全てに応えてきた。 彼女が自由を利かせられるのは十八歳の夏まで。それ以上は確定したルートを歩かされることになる。躑躅にとっては、別にそのこと自体は怖くなかった。高貴さは義務を伴うのだ。しかし、自らの進む先、社会の闇の深さを知るたびに嫌悪感に近い憎悪を覚えた。躑躅家という名と美しい少女の身体を欲する下卑た視線。日常茶飯事となった汚職や闇営業。それらの闇と、何よりも自分という娘を放置する父親。 少女が腐るには十分すぎる環境だった。 躑躅は思う。学校の教師や同級生もそうだ。自分を呆然と見上げて、一様の言葉を発する。何が高根の花だ。人の手の届かないところで咲いていたって、その花弁が美しいとは限らない。あまりにも栄養価の高い土地に植えられた私は、今やグズグズと腐っているというのに。 躑躅は彼女を好きな人間が嫌いだ。正確には、彼女の内面を疑おうともせず、ただその香りにつられて彼女を美しい花だと妄信する連中が嫌いだ。いや、本音を言えば嫌いではない。ただ煩わしいのだ。自分を固定概念の枠の中にはめ込もうとする彼らが。 そして、そこから抜け出そうともしない自分が。 性格は悪いし高飛車で口下手。外見ばかり取り繕って、自己嫌悪ばかりしている。だから彼女は誰よりも、自分自身がわずらわしかった。 なぜ生まれたんだろう。どうして生きているんだろう。分からない。 「はぁ…、遅い…」 だからこそ、今こうして人を待っている自分は、純粋に理解不能だった。羽島八尋。彼と関係を持ち、そして持ち続けている自分が理解できなかった。 神社には一切人影がなかった。先ほどまでは小学生くらいの男女が数人集まっていたが、花火の会場へと向かって行ってしまった。 夕暮れの空はずいぶんと赤い。曇っているから音がよく響きそうだ、と躑躅は期待にも似た感想を抱いた。祭りではどうふるまえばいいのだろうか。同級生もいるだろうし、花火の音にびっくりするくらいの方が可愛げがあるだろうか。だが、八尋とはそんな姿で一緒に歩きたくはなかった。理由は分からないが、彼とは素のままで接していたいと思うのだ。 楽だからだろう、と彼女は納得して、神社の会談に腰掛けた。パーティーで一度着たものとはいえ、三桁万円とする浴衣を砂で汚すのは気が引けたが、どうせ家の人間は気にしない。そもそも学校に行くふりをして抜け出すつもりで袋に詰め込んできたので、ある程度シワはついてしまっているだろう。 八尋と一緒に出掛けたドライブで警戒を強めたのか、使用人たちは立て続けにスケジュールを埋めようとした。それは嫌なので学校の補修を毎日とって疑われないように今日も学校へ入った。そしてここにいる。携帯電話は忘れたことにして家に置いてあるし、制服は学校のロッカーなので、家の人間は追ってこない。ただスマートフォンがないと暇なのが難点だった。まあ使用人を撒くためのコストとしては安いくらいだ。 「それにしても、さすがに三十分前は早すぎたかな…」 学校で着替えるだけ着替えた彼女はショッピングセンターで午前から時間を潰していたが、神社ではすることがない。巾着から手鏡を取り出して髪形を整えることをさっきから繰り返している。浮かれているようで馬鹿らしくもあるが、別に身だしなみを気にすることなどおかしな話ではない、そう納得する。 「それにしても遅いなぁ」 体感ではもう六時半は過ぎていた。それもおそらく相当前に。 「八尋くんが私を騙すとは思えな──い、し」 その可能性がないわけではないことに気づいて、自然と声が消えていった。そもそも彼は躑躅のことが嫌いなのだ。躑躅のわがままに言われるがまま従っているだけで、何も望んで躑躅と一緒にいるわけではない。ましてや祭りなんて人目につくところはなおさらだ。 「そういえば八尋くんについて何も聞いたことないもんな、私」 自身の言葉に、結局は彼を都合よく利用しようとしていただけであることに気づいて、躑躅は濁り始めた灰色の空を見つめた。数匹のカラスが泣きながら空を飛んでいき、夕暮れの闇と寂しさが一気に彼女を襲った。 「あーあ、馬鹿らしい。帰ろう」 躑躅は立ち上がると、一度伸びをして砂を払った。帰ったらどうなるのだろう。使用人たちに怒られるのは必至だ。それだけではないだろう。学校を含めて、一人で外出することはもうなくなる。そして何より、彼がただ遅れてきただけだとするなら。そう思うと胸が締め付けられるような気持ちになった。 ──だがその瞬間、躑躅の耳はエンジン音をとらえた。間違いない、この神社に向かってきている。 「……遅い」 また階段に腰掛けて、躑躅はうずくまった。なぜだが頬が熱くなって、涙が出そうになったからだ。 何でだろう、馬鹿げた関係のはずなのに。 音が境内へと入ってくる。躑躅は即座に顔を上げた。八尋の顔が見たくて、ではない。砂利を踏むその音が多い──つまり、四輪のものだったからだ。 顔を上げた先、神社の入り口にはその一本道を塞ぐように一台のバンが停車していた。躑躅が立ち上がるより早く、車から男が四人降りてきた。全員が全員、雰囲気がおかしい。 「ねえ、お嬢ちゃん。こんな時間にひとり?」 「……友達が、あとから来ます」 バンの荷台がマジックミラーになっていることに気づいたのもその瞬間だった。本能が警鐘を鳴らす。 「嘘つくの下手だなぁ、もう花火は始まる時間じゃん」 「それがどうしたんですか。来るんですよ」 「ふーん。まぁいっか。それなら」 男の口の端が、醜くゆがむ。 「さっさとやっちゃおうか」 叫ぶようなカラスの声が、やけに遠い気がした。 「躑躅、携帯見てないのか…?」 躑躅からは特に何の反応もなかった。約束の時間を過ぎている以上、不満の一つや二つは送られてくるとは思っていたが、何も来ない。 「寝てるとか、か…。とりあえず先に店長に送っておくか」 躑躅とのトーク画面を閉じてバイト出勤の連絡を送ろうとした時、台所に親父がビールを片手に現れた。仕事終わりにひとっ風呂浴びたのだろう、まだ濡れる髪をわしゃわしゃとかき乱しながら、俺を不思議そうに見る。 「八尋、まだ家にいたのか。彼女と祭りに行くんじゃなかったのか」 「バイト先がかなりやばいっぽくて…ヘルプ入ろうかと思って連絡したけど、返信がないんだよな」 「……は?」 親父は疑問というよりはむしろ呆れたというような顔で手に持っていた缶ビールに一口つけると、小さくため息をついた。 「お前な、彼女より大事なものがあるわけねえだろうが。バイトなんて休んじまえよ」 「いや今日は客多そうだし、躑躅も連絡ないし」 「あのなぁ」 親父は苛立っているかのように頭をかく。意味が分からない。 「俺たちの人生っつうもんは死ぬほど短いんだ。それはお前もよく分かってるだろ」 「そんなに老けてねぇよ」 「とにかく一瞬でも目をつぶっていたら、女なんかパパっと消えちまうぞ」 「躑躅が、消える…?」 そんな訳、と笑い飛ばそうとして、しかし俺の息は詰まった。その言葉はとても非現実的なはずなのに、なぜか笑えなかった。どころか俺の心臓にずぶりと突き刺さる。 消える。その一言が脳内の躑躅の姿とやけにマッチしているような気がして動悸が速くなる。あの屋上で彼女が泣いていたのを思い出す。そう、あの時俺は躑躅に恋をした。 その理由が今やっとわかった。 俺は彼女に、あの「正しい夏」のような儚さを感じていたんだ。眩しくて、揺らめいて、巨大なのに、目を離したら消えてしまうようなもろさ。そして、その開いてしまった穴は空虚なままだ。 「お前がその嬢ちゃんをどう思っているのかは知らねえけどな、彼女はちゃんとかまってやれ。女との約束をすっぽかすなんて言語道断だぞ」 親父は何かを思い出すように視線を宙に向けながら、淡々と俺に語りかける。 「……そうだな、親父。ありがとう」 俺は親父に頷いて、ガレージへと走った。バイクの荷物を横目で確認しつつ、エンジンを掛ける。躑躅が消えてしまう。その妄想はしかし実態をともなって俺を襲った。 もしかしたら、もう消えてしまっているかもしれない。 ヘルメットをかぶる俺の横をすり抜けて、親父がガレージの扉を開ける。沈みゆく夕日が空を薄紫色に染めつつあった。 「行ってこい。気を付けてな」 呟く親父に首で応えて、ガレージを飛び出す。赤に切り替わろうとする信号の一瞬を射抜くように加速して交差点を曲がる。 時刻は七時を過ぎようとしている。カラスが頭上を気味の悪い声を上げながら通り過ぎていく。 ポケットからスマートフォンを取り出して電源をつけるが、トークには既読がついていない。 もしかして、待ってるのか? 「目をつぶったら、消えてしまう…」 なぁ、躑躅。お前はそこで俺を待ってくれてるのか? あの入道雲のように、立ち消えてしまわないか? 神社に行くまでの裏道に入るため大通りから逸れて、わき道を飛ばす。いつもなら流れるように走ることのできるその道だが、今日はやけに車が詰まっている。今年は観光客が多いのか? 舌打ちしながらすり抜けるようにして走っているとその理由が分かった。 「なんで今年に限って…」 例年とは違い、わき道では警察官がひとりで交通整理をしていた。 まずい、と思うよりも先に彼と目が合った。彼は赤色棒を振って速度を落とすように促すと、ちょうど相手をしていたバンに通るように指示しながら、俺の前で止まる。 「だめだよ、こんな狭い道で車の脇をすり抜けるなんて。免許ある?」 俺は免許証を出しながらスロットルを蒸かし続けた。 「…交通整理とかするようになったんですね。この道、前までは空いてたんですけど」 「歩行者が増えてきたからね。さすがに監視しないと」 差し出された免許証を受け取って、バイクをいつでも発進させられるようにつま先立ちで待機する。相手はまだ俺の行動に気づいていない。 「君いくつ?」 「十八です」 「十八か。──あれ、免許取得が三年前ってことは」 「すみません」 俺は地面を蹴ると、バイクを発進させた。 「あ、待ちなさい、君!」 警察官がバイクを掴むよりも早く、空いた道を飛ばしていく。神社へ向かうための曲がり角、そのひとつ前の角で曲がって、駐輪場を目指す。もう短針は七を越えていた。空は薄汚れた光に照らされて、怪しく彩られている。 何かが心を焦らせた。 神社の傍らの通路へと逃げ出そうとした躑躅の腕を、男が掴んで引っ張った。細い体つきとはいえ男の力は強く、すぐに躑躅の身体は引き戻される。 「離して──離せっ!」 躑躅の叫び声は人気のない神社の空へとかき消える。 「こ、の……っ!」 躑躅は相手の足に自らの足をかけて折り曲げることで男を地面に打ち倒した。その拍子に関節を逆方向へ折り曲げることで緩んだ手を振りほどくと、神社の外へと走り出す。下駄で来たのは失敗だったのだろう。つまずきつつ走っているうちに大柄の男がすぐに追いつく。 倒した男を残りの二人が介抱しているとはいえ、躑躅の劣勢は変わらない。 「ほら、待て、って……!」 「…………っ!」 男は躑躅に追突するように彼女の身体を押し倒した。倒れこんだ躑躅はすぐに抜け出す方法を考えるが、痛みと恐怖で頭が回らない。 「クソっ、離せ!」 「いやぁ、嬢ちゃんみたいに威勢の子はいいねぇ。君みたいな子が泣いて怖がってる姿が最高でさぁ」 焦点の定まらないその白目に躑躅は声にならない悲鳴を上げた。純粋な恐怖だった。この先の未来は予測できた。この世界の暗い部分はいつだって見てきたのだから。 どうなるかは、よく分かっている。 「八尋くん…」 漏れた声も、しかし後が出てこない。 助けて? あなたのせい? 分からない。何でもできた。困ったことなんてなかった。いつでも誰かがやってくれた。だから渦巻く感情の何が正解なのかわからない。ただ叫ぶしかなかった。 「八尋くん!」 「────いるよ」 それは、はっきりとした応答だった。 躑躅に覆いかぶさった男の頭が大きく揺さぶられたかと思うと、その巨体が横に転がるように強烈に蹴飛ばされる。呆然とする躑躅の手をとって、持ち手が血塗れになった懐中電灯を放り投げた八尋は彼女の背中を抱えるようにして起こすとその身体を持ち上げて走り出した。 「悪い、遅くなった」 「八、尋くん……」 後ろから追ってくる男たちの怒号すら気にかけず、八尋は走り続ける。彼は曲がり角に泊めていたバイクに躑躅を優しく乗せると、エンジンを掛けながら自身もバイクに飛び乗った。 「ちゃんと座れそうか!」 「浴衣だし、足を怪我してて…」 「しっかり抱きついてろ!」 返事を聞いていないかのよう八尋はバイクを発進させた。弾丸のようなその加速に振り落とされないように躑躅はしっかりと腕に力を込めた。重心が崩れないように全体重を八尋へと預ける。 その背中は汗で濡れてはいるが、気にはならなかった。むしろその温もりが彼の実在を証明してくれるようで力強く抱きしめる力が強くなる。 八尋はわき道の曲がり角を重心と急ブレーキを細かく調整しながら曲がっていく。 だが、いくらわき道から迂回できるとはいえ神社から表通りに出るまでは一本道だ。しかもその先の大通りといえば、花火の見物客で大渋滞が発生する。 側道から一本道に出た八尋たちの後ろで、バンが動き出した。 「バン追ってきた! どうすんの!」 「そのためのバイクだ!」 「はっ────きゃあ!」 八尋は急ブレーキをかけて車体を傾けると大通りへと飛び出し、スロットルを回して急加速をかけることで、ほぼ車体の位置を動かさずに右折する。悲鳴と驚愕の飛び交う歩行者と車のわずか一メートル足らずの隙間を縫うように全力で飛ばす。 「振り切れそうっ」 「分からん!」 八尋は警備員の制止も気にかけずわき道へとそれると、自転車がやっと通れるような用水脇をかっ飛ばした。 ひゅるるる、と花火の打ち上げが始める。鮮やかな光を浴びながら、八尋と躑躅は道が空いてくるまで人気のない細道を飛ばし続けるのだった。 「ここまで来ればアイツらも追ってこないだろ」 躑躅と星を見た寂れた広場で、俺は限界まで跳ね上がった心拍を押さえつけるように熱のこもったヘルメットを外した。夏の風は涼やかで花火の音が心地いいが、今はそんなものに喜んではいられなかった。 「…さっきは、ありがと」 ベンチに座った躑躅はうなだれるように地面を見つめて、鮮やかで上質そうな浴衣に着いた砂埃を払おうともしない。当然だ。あんな恐怖は当事者に整理がつくようなものじゃない。 「…救急セットを入れておいてよかった。足とか手のほかに痛むところないか?」 躑躅はそれについては何も言わず、手足の傷を見せるように袖をめくってこちらへと向けてくる。彼女には似つかない、薄汚れた赤が肌に滲んでいた。だが神社やらアスファルトで擦ったにしては上出来だ。これならそれほど処置は必要ない。 まずは水に浸したガーゼで汚れをふき取るか。 「…………っ」 「悪い、痛かったか」 躑躅は首を振ったが、めったに怪我をしない人間にとっては多少の痛みでもつらいはずだ。できるだけ患部に触れないように優しく拭いて消毒スプレーを吹きかける。 「染みるか?」 「子ども扱いしないで」 そう強がる顔も痛みを知覚するように少し力がこもっている。膝にはガーゼを テープで止めて、手のひらにはバンドエイドを貼ることで処置を終えた俺は、救急セットをバイクの荷台に片してから躑躅の横へと座り込んだ。 落ち着いてきた鼓動がそのため込んだものを吐き出させるように、身体を上下させる。 「やっぱりここから見ると花火綺麗だな」 打ち上げられては消える花弁を見つめながらそう呟くと、ふと左手に躑躅の手が重ねられるのを感じた。温かい、汗と砂とバンドエイドの感触がまじりあった手。 彼女が何を求めているのかなんとなく分かっていたから、俺はその手を握り返さず、そのままにしておいた。 言い訳をしようとしたのか開きかけた躑躅の口は、自然と閉じた。 そのまま何分ほど花火を見ていただろう。瞬時に咲き誇っては散っていく光と熱で象られた花弁を、俺達は静かに見ていた。 それからしばらくして、躑躅がギュッと手を握りしめた。 「私の話を、聞いて」 それを拒否するはずもなかった。俺はうなずくことも首を振ることもせず、ただ花火を見つめ続ける。躑躅の手に力がこもった。それは喉元に溜まっている異物を吐き出すときのような力み方で、俺は握られるままに無言を貫いた。 「十八まで自由を楽しもうと思ったの。私の未来はもう決まっていたから、せめてそれまでは私らしくありたいと思った」 躑躅は彼女の過去の決断に思いをはせるように俯いて、明るく照らされる足元を見つめる。 「作り上げてしまったイメージは崩せない。誰かに期待されてると思うと、どうしても繕ってしまう私がいる。分かってる。そんなものは解決策でもなんでもないって。先送りどころか未来を閉塞させることしかできないって。そのことに私自身が一番イラついてた。だけど自分の運命を呪うしかなかった」 「運命、ね」 それは間違いなく彼女が背負っている言葉の一つだ。生まれた時から背負わされた重り。彼女が彼女である要素の一つともいえるようなものだ。その重責は文字通り、足枷のように彼女を地上に押しとどめていたのだろう。 「逃げればよかったんじゃないのか」 「そんな簡単にできるわけないじゃない。それが無理だから、私はここにいるのに」 躑躅が苦々しく呟く。俺もそれは分かっていた。俺は右手の感触だけは確かなままで、躑躅にすべてをさらけ出せそうと彼女の心に切り込む。 「だけど少なくとも、恋愛に関しては好きにできたはずだ。たとえ秋にはなかったことになってしまうとしても、その間だけでも、お前は自由になれたんじゃないのか。いま聞いて尚更疑問だよ。お前のことを好きなやつはたくさんいたんだ。何でそいつらをわがままに付き合わせなかった?」 無論、躑躅がそんなことをできないことはよく知っている。躑躅は他人が嫌いなのではない、あくまでこいつが嫌いなのは自分の境遇とそれを取り巻く大人たちであって、自分に関わるすべてではないのだ。 「だって……」 幼い口調で躑躅は顔を上げた。苦々しい顔をして泣きそうに歪んだ彼女の顔を、俺は真正面から見た。彼女はややあってから顔を逸らそうとしたが、おずおずとそのすっかり気弱になった視線を合わせる。 「だって、私のことを好きになってくれるような人を、裏切りたくないじゃない」 ──あぁ、なるほど。 こいつは筋金入りのお人よしなのか。いつも悪人のようにふるまってからかうように好きだなんて言ってはいるが、実はこれも彼女の一つの側面なのかもしれない。寂しくて、不安なのだ。 母親がいなかった子供は正しい愛が分からなくなる。どこか欠けた人間になってしまう。彼女もまた、その一人なのだ。 腑に落ちた。彼女の異常さは、なんてことはない。正常さに変なものが継ぎ足されてできた紛い物ではない。むしろ正常さが欠けてしまった不完全さゆえのものなのだ。 くだらない帰結かもしれない。だけどその確信は、まるであの屋上のように彼女への慕情になった気がした。 花火の音がうるさい。 彼女の小さな告白を多彩な光と破裂音がかき消していく。 「なんで生まれてきちゃったんだろう。私は所詮、私でしかないのに」 彼女のその言葉が、深く胸に突き刺さって、なぜか俺の心をえぐり取った。 「躑躅」 自然と声が出た。居てもいられなくなった。居たたまれなくなった。俺は躑躅の手を握り締めて、彼女の名前を呼ぶ。 「私をその名前で呼ばないで。私がすべて悪いんだよ。自由もないくせに、一人前に恋愛をしようとして。それで取り返しのつかないタイミングで、それを知った。そのやり方だって、人を陥れるような滑稽なものでしかなくて」 躑躅は自分がいま何を言っているのかも、よく分かっていないようだった。最悪のタイミングとはいえ、恋愛を知った。それが彼女の気持ちであることに、俺は喜ばない。幸いにも体は心と一緒になってくれている。 今は、目の前の彼女を救わなければならない。 「本当にくだらない。私の最後の自由がこんなにも私自身を傷つける結果になるなんて。何で、私は…」 躑躅をここで彼女自身から引きはがすわけにはいかない。 「躑躅」 教え込むように。すりこむように。彼女の名前を正面からはっきりと呼ぶ。 お前は躑躅以外の何者でもないのだ、とそう告げるようにただ呼ぶ。 「躑躅」 「うるさい」 「躑躅」 「やめて!」 「躑躅!」 叫ぶ彼女の、唇を塞いだ。躑躅の目が驚愕で見開かれて、握りしめた手のひらの中で小さな彼女の手がそれを剥がすようにもがく。だが、いまだけは離せなかった。花火の音が耳にこだまするのを聞きながら、彼女の震えた唇から伝わる熱に意識を向ける。 十秒、二十秒。星のように散らばるスターマインを締めるかのような二十号玉の炸裂音で、俺はゆっくりと彼女から顔を離した。 躑躅は何も言わない。ただその頬を伝う涙を、汚れた浴衣の裾で拭い続けていた。 広場を風が吹き抜ける。連日の熱帯夜とは思えないほどの涼やかな風を感じながら、躑躅の身体を緩く抱きしめた。 「お前は躑躅だよ。躑躅彩佳。その名前を捨ててやるなよ。それもまたお前なんだから」 「でも、この名前があるから、私は…」 「そうだな、いろいろなことがあって、いろいろなことを考えたんだろう。でも、お前は躑躅だ。生まれてきた意味なんて誰も知っちゃいないんだ。その名前だって、確かに重いんだろう。普通のヤツならとっくに潰れてる。だけど、それだけはお前も他人も変わらないんだ」 「…………」 躑躅はただ悲しそうに、俺の手を見つめた。こんな無責任な言葉で正しく修正されたならどれほどよかったことだろうか。想いだけではどうにもならなかったから、ここまで彼女は追い詰められたのだ。それは言葉にした今でも一向に変わらない。 そう、想って口にしただけでは。 だから、あと一つ必要なのは、行動だったのだ。 「……今から俺は八尋じゃない。ただの、そうだな、校則違反ライダーだ。お前の同級生でも、お前の彼氏でもない。俺はたまたまツーリングによさそうな山に侵入して可愛い子がいたから誘拐した、悪いヤツだ」 その言葉に躑躅が顔を上げた。意味不明だ、とでも抗議するかのように涙にぬれたその目を向ける。俺も自分の口からそんな言葉が出るなんて思いもしなかった。 ただその言葉が自分の本心だということだけは、分かっていた。 「かわいい女の子が泣いてたから、理由も聞かずに連れ去った。俺はそんな悪徳ライダーだよ」 「何を言って…」 「逃げちまおう」 躑躅の顔が理解できないといったように歪む。そうだろう。そんな言葉は今まで誰も、彼女にかけることなどなかったのだから。一人でも何でもできる才女に、誰が撤退の進言などするものか。 だが、少なくとも今の俺にとっては、目の前の彼女は、ただの女の子だった。 辛い現実から逃げ出したくて泣いてしまうような、か弱い少女。 「子供の頃からずっとだったんだよな。そんな重圧は、女の子が背負っていいものじゃない」 「私は散々躑躅の名で恩恵を受けてきたの。今さら責任の放棄なんて…」 「そっか。じゃあ俺はお前が何者かも知らないライダーってことにしとこう。何も知らないから、お前を無責任に連れ去る。お前が気にしてることなんて、俺は知らないし関係ない。ただ拐うだけだ」 あぁそうだ、彼女にとって本当に必要だったのは俺でもない。こんな風に、人のことを顧みずに外へと連れて行ってくれる案内人だったんだ。 その役目を果たす大人たちは、その仕事すら忘れて彼女に自立を期待した。 だったらそれを教えてやれるのは、同じ子供しかないだろ。 「そうと決まれば出発だ。どこか行きたいところとかあるか。伏見稲荷とか行ったことないだろ。綺麗らしいぞ」 俺はバイクのハンドルに引っ掛けたままのヘルメットを手にとって、躑躅へと投げて渡す。 立ち上がった彼女の手を取って、俺はバイクのエンジンを掛けた。 「何だ、出掛けるのか」 ガレージ前にバイクを止めて玄関を開けると、物音に気づいたのか親父が現れた。家を出る前は確かにビールを飲んでいたはずだが、全く酔ったそぶりはない。鍛え抜かれた商社マンのスキルだろう。 「悪い、急いでて」 荷台に乗せていた余計な荷物を下ろす俺に、親父は玄関に立つ少女へと視線を向けた。躑躅は一般家庭の他人の親というものに慣れていないのか、手を前に組んで大人しげに礼をする。 「彼女さん?」 「どうも」 躑躅は借りてきた猫のようにおずおずと返事をした。俺は躑躅に框で座っているように言って、自分の部屋から荷物を取ってくるために家へと上がる。親父も躑躅と話すにはどことなく雰囲気が変だと気づいたのか、二階へと上がる俺の後をついてくる。 とりあえず、必需品だけ用意するか。 部屋に入って服やら旅道具一式をそろえて、貴重品と一緒にリュックへと詰め込む。 「やけに大荷物じゃねえか。遠出か」 入り口からその様子を見ていた親父が興味深そうにつぶやいた。 「少し、長い旅になるかも。一週間とか」 「家出ときたか。説明はしてくれないんだな」 「ごめん。親父なら分かってくれるかもしれないけど、俺は俺のために動いてるから、巻き込みたくない」 そう言うと、親父は少ししゃべるのをやめた。花火が終わって静まり返った街の音に耳を澄ますように窓を見る。 「…危なくはないんだな?」 「旅するだけ。あえて言うなら事故しないように気を付けるぐらい」 親父の心配に、俺はできる限り元気に答えた。それは事実だったし、たとえ何かがあるのだとしても、ここで親父に止められるわけにはいかなかった。たとえ仮初めでしかないとしても、躑躅に自由を教えるまでは止まるわけにはいかない。 「…ちょっと待ってろ」 そう言って親父は部屋を出ていった。何なのだろう。俺は荷物を詰め切ったカバンを玄関に降ろす。洗濯など込みではあるがこれなら数日くらいは生活できるだろう。使うアテもないまま貯金していたお金も全部降ろしてきた。躑躅がリュックサックを背負おうとするのにストップをかけていると、親父が古くぼろぼろになった封筒を持ってきた。 「これ持ってろ」 封筒を握らされる。その分厚さから中のお金を推測して、思わず後ずさる。 「うわ、やめろよ。勿体ないだろ」 「子供が親に遠慮するんじゃねえ。帰りのガソリン代と、そっちの嬢ちゃんの分だ。迎えに行く方が面倒だからな」 親父はしっかり俺の手に封筒を握らせる。怒っているようなその口調だが、どこか笑っているようにも、悲しんでいるようにも聞こえた。そういえば、こんなに親父と感情のあるやりとりをしたのも、随分と久々かもしれない。 「…ありがとう、親父」 「ちゃんと帰ってこいよ」 「あぁ」 頷く俺に、親父が手を振った。その光景も、思えば幼稚園ぶりな気がする。水族館で手を引いてくれた母親の面影と重なって、なんだか不思議な気分だった。 「八尋くん、ほんとに大丈夫?」 荷物を積み切った俺にヘルメットをかぶった躑躅が後ろから聞いてきた。大丈夫、とは何だろうか。 「いやほら、お金とかさ」 なんだそこか。それは別に問題ない。他の憂慮するポイントである運転技術とか進路とか、躑躅家の令嬢の誘拐とかそのあたりで、一番安心できるところだ。 「まあ、バイトして貯めた金はある…。十日くらいなら出掛けられる」 「その後はどうするの」 「……帰ってきて、一緒に叱られよう。色々なことで」 「ふふ、ノープランじゃん」 悪いかよ。旅なんて本来そういうものだ。どこに行くのかすら組み立てていない俺たちならなおさら。 「いえ、そうだね。それがいいな。どこでもいい。君が連れていってくれるならきっと良い場所だから」 躑躅の優しい声に、思わず口元が緩みそうになる。 「……ったく、じゃあ出るぞ」 笑いをかみ殺しながらバイクのエンジンをかける。しかしあることに気づいてアクセルにかけた足を止めた。目の前の交差点を赤色灯が通り過ぎていった。 「どうしました?」 「いや、さっき検問に会ってすっ飛ばしてきたから。高校がバレたかも」 そういえば無理やり抜けてきたんだった。どころか緊急事態とはいえ歩行者を撥ねかねないような危険運転で逆走までした始末だ。躑躅も高校から無断で消えたようだし、現状警察にはある程度の捜索が要求されているのではないだろうか。 「あはは。私と同じ、人生終わりだね!」 「冗談にならないからやめてくれ」 赤色が完全に消えたことを確認してから、交差点へと入っていく。とりあえず高速に上がろう。この辺りを離れれば情報網からは外れることができる。免許的には二人乗りでの高速運転は許可されていることになるので、夜のサービスエリアで捕まらない限りはおそらく逃げ出せる。 ルートを想定しながら高速を通過すると、急に後ろから笑い声が聞こえた。胴体を抱きしめる躑躅がヘルメットの中で楽しそうな笑い声をあげていた。 「どうしたよ」 「いや、なんでもないんですけど」 「なんでもない奴はそんな風に笑わねぇよ」 「ふふ、いえ、はじめての旅行が不審者とだなんて面白くて」 「なっ」 不審者はないだろ、と思ったがそういえば先ほどそれを自称したことを思い出してため息をつく。日付の変わる夜の道を、小さな笑い声が二つ通り抜けていく。 口にできない感傷を覚えて、俺は背中のぬくもりが消えていないことに少しだけ安心したのだった。 空が明ける。帳となっていた紺色の空が夜明けの赤とまじりあって、世界を優しく包み込む。躑躅が後ろでうつらうつらと身体を揺らしていた。昨夜は寝ずに飛ばしてきたから、彼女には少しつらいかもしれない。 「躑躅、あと少しだけ我慢してくれ」 「言われなくたって離しませんよ…。京都まではあとどれくらい?」 「一時間もかからないな。先に朝食をとろうかと思ってる。そろそろパーキングエリアも見えてくるころだし」 標識によると四キロ先にあるようだ。食事をとれば目が覚めるだろうし、ガソリンはこまめに入れておきたい。ショッピングセンターで適当に躑躅の服を買ったはいいが、バイクの積載量が限界に迫ってしまい、燃料の消費が著しい状態になっている。 ハザードを焚いて、パーキングへと侵入していく。寝息のように冷房をつけながら運転手とともに眠る大型トラックの群れを横目で見て、フードコート前の空いている駐車場へと停車する。 「眠い…」 躑躅がバイクからずり落ちるように降りた。バイクのチェーンをかける俺をボーっと見つめる彼女に、荷台を縛る手が速くなる。 「なんです?」 「いや、人乗せて高速乗ったことないから慣れてなくてさ。そういえば、何食べる?」 「見る限り、ラーメン屋くらいしか開いてないよ」 荷物のロックをかけて振り向くと、確かにほとんどの店はシャッターや網戸が降りたままだった。 「ラーメン大丈夫か? 食ったこととかなかったり…」 「八尋くん、私のことなんだと思ってるの…」 「…まぁ、まじめな質問だけどな」 発券機を見ると、麺類は大方そろっているようだ。ラーメンは予想通りとして、うどんやそば、担々麺にちゃんぽんまであった。 「意外にいろいろあったな。どうする?」 「私はきつね」 「じゃあ俺もそれで」 躑躅が下から見上げてくる。その視線で彼女が考えていることは伝わってくるので、俺はあえて取り合わずにお金を入れてボタンを押す。お釣りのレバーを引かないでいると、躑躅は逡巡するように首をひねると、おずおずとボタンに触れた。 「きつねうどん二つでお願いします」 食券を人当たりのよさそうなおばちゃんに渡すと、彼女はしわしわの指でそれを受け取り、半分に切り取る。 「今から茹ではじめるから十五分くらいかかるけどいいかい?」 頷くと、彼女は一人で準備を始めた。待っていても仕方がないので、俺は躑躅にトイレに行く旨を伝える。躑躅は何も言わなかったが、ゆっくりと席を立った。 コンビニの前を通りながら旅に必要そうなものを考える。躑躅の携帯の充電は大丈夫だろうか。後ろを振り向くと、彼女は片眉を上げた。何でもない、と首を振ると彼女はそれ以上追及することもなく、さっさと手洗い場へと入っていた。 いらない気遣いだったな、これ。 少し申し訳なさを感じながら洗面台で顔を洗う。ヘルメットで蒸れた顔を冷水で冷やす。茹っていた身体が、温度の感覚を取り戻す。クリーンペーパーで顔を拭いてトイレを出ると、躑躅はコンビニで電子機器類の商品棚を見ていた。眠気を伴ったその目が俺をとらえる。 「なんか要るものとかあるか? 携帯の充電とか、そろそろ切れないか」 「持ってないよ、携帯。あれにGPSがついてるから」 「…あぁ、どうりで」 連絡を送っても返信がなかったわけだ。それが良かったのか悪かったのかはまあ置いておくとするが、結果いま彼女がここにいるのだからいいことのはずだ。躑躅は電子機器類を一通り見てから、俺のバイクを振り仰ぐ。 「八尋くんのバイク、スピーカーってついてます?」 「ついてるけど、それが?」 「私、意外かもしれないけど歌を歌うのが好きで。次に乗るときは流してくれない? 何の曲があるのか知らないけど」 「あまり有名じゃないし、俺が好きな曲しか入ってないぞ」 「鼻歌で歌うから十分」 彼女は手に取っていた車載スピーカーを棚に戻すと、店を出る。フードコートの席に戻ると、おばちゃんがうどんを運んできた。躑躅が礼を言って受け取っていることに驚きを覚えながら水を用意すると、躑躅がまた同様に礼を言う。 「なんか変な気分だね。こんな時間に、こんなところでご飯を食べること、今までなかったから」 「だろうな。特別な気分だろ?」 「まあ、確かに、分からないでもない」 躑躅が言葉を濁しながら答える。気に入ってもらえたようだ。女子と対面で食事をすることなど滅多になかったので、いま一つ要領がつかめなかったが、気まずくはない。 随分と白けてきた空を見つめていると、視界の端で壁かけのテレビに電源がついた。リモコンを持ったおばちゃんは番組表を見て数度首をひねりつつ、ニュースへと番組を固定した。 そこでは、昨夜の夏祭りついて取り上げられていた。躑躅も気づいたのか、食事の手を止めて、テレビを振り仰いだ。 「何あれ」 「昨日の祭りのことみたいだけど…」 ──全国ニュースでやることか? その疑問は、次の瞬間ひっくり返される。 「あ……」 躑躅が声を漏らした先、テレビにはいくつかのテロップが繰り返し流されていた。会場周辺で有名な誘拐グループの一団が検挙され、女子高生の連れ去り未遂が起きていたこと。その少女が会場から姿を消したこと。会場を警備していた警察の制止を振り切って逃亡したバイクがいること。バイクの車種や少女の名前などは報道されていないが、車体の色は報道されている。 「金銭目的の連れ去りか、だって。あはは」 「勘弁してくれよ…。変装用の服とか買うか?」 「うーん、パーカーとかは途中買えたからいいけど…いやいいや、これ以上は暑いし」 「向こうに着いたら帽子だけ被っとけ。捕まったらその時かな」 「いいの?」 「家出したってことは伝えられただろ。安心しろよ。怒られるときは一緒に怒られてやるから」 躑躅はバカにするように鼻で笑う。笑うなよ、と言いはするが彼女の目がいつもより光を反射していたので息をついて流す。 食事を終えて店を出たころには、空はすっかり青くなっていた。ホテルで一眠りすれば夕暮れ辺りから登れそうだ。まだ十分早いが、パーキングエリアにも車が入ってくる時間帯となってきた。躑躅が背後でヘルメットをかぶっているのが背中に伝わる。彼女はスピーカーの電源を接続する俺にヘルメットの先端をこつんと軽く当てた後、ゆっくりと身体を沿わせた。 「うおっ」 心臓が止まるかと思った。 「安全運転、してよね」 「お、おう」 異様に気恥ずかしくて変な声が出た。躑躅はいつものようには笑わない。俺はバイクのエンジンを掛けながらゆっくりと速度を上げていく。夏だ、と熱唱する蝉の鳴き声を聞いて実感する。それは怖くはない、色鮮やかな夏の色。躑躅もそう感じているのだろうか。 「なぁ、躑躅」 「……なんですか」 急に恥ずかしくなって、空を仰ぐ。 「…ガソリン給油するから、いったん離れて」 「八尋君、君さぁ……」 「代金、払わせちゃって悪いな」 「別に。服買うときは払ってもらいましたし」 ホテルのフロントは二人の学生を見て最初訝しむ様子を見せたが、クレジットカードが躑躅自身のものだと気づくと、あっさりと受け付けてくれた。カードに書いてある名前か、それとも二人とも十八にはなっていたからかは分からないが、とにかく宿を借りられたのはありがたい話だ。 よく分からないが躑躅は支払いも一度別ルートを経由したというから、俺たちの位置がばれるにはまだ時間があるのだろう。 「明日のうちにお金を引き下ろしておこうかな。もしかしたら口座とか凍結されるかもしれないし」 「俺はそれでもいいけど、なんか申し訳ないな」 「気にしないでよ。八尋くんのお金が尽きた時のための予備だし。多分私がいる以上、口座が凍結されないとは思うから、有効利用はできるだけしておかなくちゃ。位置がばれちゃうから各所各所でだけど」 躑躅は自身の口座が凍結されない確信があるらしい。忙しいせいで放置するしかなかっただけで、彼女の父親は娘を愛していないわけではないようだ。 「そういえば躑躅、本当に二つ部屋を取らなくてよかったのか?」 「何、一緒の部屋はいや?」 「嫌じゃねぇよ。むしろ嬉しいぐらいだけど……、恥ずかしいんだよ」 「あらあら、かわいいところあるんだね。急にキスしてくるくらいには大胆なのに」 「その話はいいだろ…」 カードを通して部屋に入ると、荷物を置いてツインベッドへと腰かける。 「急に予約した部屋の割には結構いいベッドだな」 「タイミングは関係ないと思うよ。それより、私先にお風呂入っても大丈夫?」 「あぁ、全然いいよ。バス使うなり好きにしてくれ」 「ありがと。お言葉に甘えさせてもらいまーす」 躑躅は荷物の中からてきぱきと着替えを取り出すと、浴室へと消えていった。 暇になってしまった。ベッドに寝転んでしまったら意識が戻らないことはなんとなく察しがついているから、立ち上がってエアコンの電源をつけた。女子は身体を冷やすものじゃないんだっけか。温度を二十四度に設定してリモコンを机の上に置くと、荷物の整理へと移る。大荷物なんてレベルではない、もはや夜逃げのような二人分の荷物を、買ったものごとに分別してみる。 「サブバックを躑躅の分にした方がいいな、これ」 そう言いながら小型のバッグをいくつか分類していく。ほとんどがキャンプの小物なのでそのあたりは触れなくて済む。どうせバイクの指定の箇所にしか取り付けられないので防犯のため持ってきただけだ。 「伏見に上るとき、こいつらはどうしようかな…」 使用人たちが履歴を割り出して追いついているかもしれないし、フロントには預けられないだろう。 近くにバイクを置いていけるような貸ガレージなんかがあればいいんだが。上ってみたことはないが、伏居稲荷は一周してくるなら三時間ほど掛かるらしい。躑躅がそんなに長い時間歩くことを楽しんでくれるのかは分からないが、そこはいま考えることではない。問題は単車を置いておける場所があるかどうかだ。 「まあ状況次第か…」 荷物を端の方に寄せてリュックサックの中身を探る。使い切ったポケットティッシュなどをゴミ箱へと移していると、ある事に気がついた。 「これ、親父がくれた封筒か」 もらったまま入れっぱなしになっていた茶封筒。その分厚さがそれだけ引け目を感じさせるが、親父がああ言うからには、遠慮は無用なのだろう。封筒を逆さにして引っ張ってみると、札束とペンダントが出てきた。十五枚もの一万円札にも驚きだが、それよりもペンダントの方が気になった。金属製だが、見る限り高価なものではない。これは多分、水族館のお土産だ。確か、内側に記念メダルをはめ込んで飾っておくものだったと思う。 「…………誰だ?」 しかし、中に入っていたのはメダルではなかった。金属製パネルにはギラギラと光るメダルの代わりに、小さなイルカのキーホルダーとある女性の写真がはめ込まれていた。夕日が沈む海を背景に、穏やかな笑顔の女性がたたずんでいる。 すぐにそれが誰なのか思い当たる。記憶の中、水槽の光でかき消される女性の輪郭と写真の女性が、初めからそうであるかのように結合していく。 「母、さん……?」 ペンダントの内側には震えた文字で羽島八千代という名前と『故』という文字が綴られていた。 ──なんだよ親父。母さんは出てったんじゃないのか。 「上がりました!」 ガタン、と浴室から音がして、俺は慌ててペンダントを封筒の中へと入れなおした。いつの間にか腫れていた涙袋をごしごしとこすって平然を装う。さすがに腫れは引かない。仕方なく、着替えを探している体を装って俯いていると、髪を上に束ねてタオルで持ち上げたガウン姿の躑躅が視界に入った。 「いいお湯でした」 「……それは、よかったことで」 いつもの躑躅のイメージをぶん殴られて壊された感じがした。 目の前の少女はいつもの鉄壁のイメージの代わりに、幼さと艶やかさの入り混じった色気があった。俺が言葉に詰まったのもさもありなんといったところだろう。本能的に彼女にその感想を伝えなかっただけ褒めてもらいたいというものだ。 「…あの、女の子の身体をじろじろ見るものじゃないですよ」 「うわ、悪い…」 「否定しないんですね…」 否定のしようがないというものだ。これは俺に女性経験がないなんていう話ではなく、単純に彼女の姿がそれに値するものであるという問題だ。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花なんて言葉を贈られる躑躅ではあるが、お湯に浸ってもその姿は別の色で彩られるだけのようだ。 ボーっとしている俺に、躑躅は顔を近づける。バイクに乗っているときに比べれば随分と遠いはずのその距離に心拍が加速して、俺はかなりぎこちないであろう笑顔を浮かべる。躑躅は無意識なのかその反応をからかうなんてことはしなかった。代わりに小さく眉を上げる。 「頬赤いけど大丈夫ですか?」 ぐっ。その理由は二つあるものの、どちらにせよ絡まれかねない。 「…あぁー、少し火照ってな。ヘルメットってやっぱり暑いから」 「はぁ…?」 彼女は俺が何かを隠したことを察したようだが、それには踏み込まないといったように猫の目つきをして体をくねらせた。 「もしかして照れちゃいました? いやだなー、八尋くんってば」 「うるせー」 「まあこの部屋少し空調弱いですもんね。最低温度にしますか」 躑躅は返事を聞くまでもなくエアコンの温度を下げ始める。風呂上がりにはやや暑いのだろうが、なんとなくさっきの厚意が無碍にされた気がした。躑躅は数秒してからエアコンがついていたことに気づいて、俺の方を見る。 「もしかして、つけててくれました? 暑いのに」 「…俺も風呂はいるわ。部屋の隅に扇風機あるしそれ使ってていいぞ」 「あ、逃げた!」 躑躅の非難を浴室の扉でシャットアウトして、なかったことにした。 ──気づかれるのも気づかれるので恥ずかしい。 目を覚ますと、ニヤついた躑躅の顔が覗き込んでいた。 「……なんだよ」 「いや、随分とぐっすりだなぁって」 起き上がる俺に躑躅が身体を引く。いつの間にか着替えていた彼女は途中で買ったもうひとセットのパーカーに着替えていた。 「悪い。どれくらい寝てた?」 「そんなにだよ。着いたのが八時だから、ちょうど九時間くらいかな」 彼女はとても楽しそうに、櫛を片手にテレビをつける。辛気臭いニュースをパッと飛ばすと、旅番組にチャンネルを固定する。 「すぐに出る? もうちょっと寝ててもいいけど。運転疲れただろうし」 「いや、いつもよりよく寝れたくらいだよ」 「じゃあどこかで食事でもとってからのぼろっか。今度はもうちょっとゆっくり泊まろう」 躑躅の言う今度が次の旅館なのか夏が終わった後なのかは分からないが、俺はうなずいた。彼女がそう言うのなら、今度はあるのだ。 「あ、ここの団子屋美味しそう!」 「北側か。そっちは明日の朝行ってみるか」 「やった」 躑躅が何を知っていて、何を知らないのか、俺は知らない。であれば彼女がやりたいことは試してみるに限る。 「あ、そういえば八尋くん。伏見に行くときは音楽流さなくていいよ。雑談でもしよう」 テレビを見つめたままの躑躅に一瞬戸惑うが、すぐにうなずく。 「いいぞ。何を話す?」 「八尋くんのことでもいろいろ聞こうかな。彼氏のことくらいちゃんと知っておかないとね」 「あぁ、なるほ──」 ん。いま何気にすごい発言が出た気がするんだが。いや、いつもの冗談か? いまだにテレビから視線を外そうともしない躑躅を見る。彼女はめったに見ないのであろうバラエティ番組に時折くすくすと笑っている。なんとも思ってないか。 出かける準備をしようと立ち上がり、動きの止まった躑躅の背中を見る。その耳が赤くなっていることに気づいて、俺は思わず笑いそうになるのだった。 「伏見稲荷、結構でかいな」 「というか色すごいね…」 本殿での参拝を終えて階段から振り向くと、その巨大さが分かる。夜の闇の中赤く照らし出された楼門はまさにそびえたっていると言うような風貌だった。予想以上に神秘的なその光景に思わず門の下で呆然と立ち尽くしてしまった。 ライトアップの時間帯に来ることになったのは幸運だったかもしれない。周囲にはほとんど人がいなかった。外国人でにぎわうと聞いていたが、今日はやはり運がいいらしい。階段を上っていくとすれ違う人は多いが、ついてくる人はほとんどいない。 「いいタイミングだったみたいだね」 「そうだな、ちょっと不気味でもあるけど」 「稲荷さまだからね、それはあるかも。あ、これが千本鳥居ってやつかな」 階段を上り切った先、隅から何本もの鳥居がひしめくように立ち並んでいた。灯篭の光がポウポウとついてはいるが、表の光の入らないその道は一寸とはいかないまでも、延々と闇が広がっているような気がした。 「スマホのライト、つけるか?」 「いや、こっちの方が風情があっていい」 足を踏み入れると、冷たい風が吹き込んできた。躑躅がいつの間にか俺の裾を掴んでいた。確かにこれは参拝客が帰っていってもおかしくはないような気がする。躑躅については怖いなら無理しなくてもいいだろ、とは思うが進みたいなら仕方ない。 点々と続く光を頼りに歩いていると、確かに狐に手を引かれてもおかしくないような気がしてくる。幻想的で、どこか儚さを携えた美しさは浸透するかのように心を揺さぶる。 「ねえ、八尋くん。すごく、綺麗だね」 躑躅が前を向いたまま、自然に漏れたかのように呟いた。頷く俺に躑躅は小さく笑うと、流れていく灯篭を見つめながら一つにまとめた自分の髪をなでる。先ほど売店で買った躑躅のお面を斜めにかぶる彼女は、足元に気をつけながら小股で進む。 「でもやっぱり怖いなぁ…迷子になりそう」 「さすがにそれはないだろ」 「でも、迷子になった方がいいかな。今は」 その言葉に含まれている躑躅の色々な感情が、裾から熱となってゆっくり伝わってくるような気がして、俺は自然に彼女の手を取っていた。 「迷うなら俺も行くぞ。一緒の方がいいだろ」 静かになる。居たたまれなくなって笑おうとした時、躑躅の手に力が込められた。そうだな。何も言うことができなくても、それを伝えることはできる。 どこまでも続くかのような夜道を、規制線の張られた鳥居にたどり着くまで、俺たちは歩き続けた。 伏見稲荷を降りたのち、俺たちはいろいろなところへ行った。観光場所だけじゃなくて漁港や農村、水族館や地方の祭り。そこにいる人たちの色々なつながりを見て、躑躅が見ることのできなかったものをたくさん見て、そしてそれぞれの家へと帰った。 家に帰った後は二人とも叱られた。躑躅は戸籍剥奪が持ち上がったようだが、結局、父親の一言で不問に付されたらしい。らしい、というのはそれが噂程度のものだからだ。俺は夏休み期間の自宅謹慎を言い渡された。学校側としては最悪の場合退学にすることも辞さない構えだったらしいが、話を聞いた躑躅の父親が、残りの夏休みは一切躑躅と会わないことを条件に仲介に入ってくれたらしい。 それよりも親父に殴られた頬が痛んだ。加減の一切なんてなかった。そのあとでよくやったと褒められた。 「八尋くん、準備は進んでる?」 残暑が猛威をふるう中、髪を後ろで一つに結びカッターシャツ姿になった涼やかな格好の躑躅は、劇の準備を進めるクラスメイト達に差し入れを渡してから俺たち脚本班のもとへとやってきた。 「やっぱそっちの格好の方がいいな。明るい」 「え、ありがと。じゃなくて、準備の方!」 「だいぶセリフは覚えたよ。あとはどれだけ感情をこめられるかだな。躑躅はどうなんだ。仕事の方、大丈夫そうなのか」 躑躅は約束通り、夏休み明けから躑躅財閥の仕事の手伝いをしている。もとより勉強は海外の大学に飛び級できるようなレベルだし、家出の後にAOで滑り止め──といってもこの高校から他にいける奴は一人もいないだろうが──を受験したらしい。 「ご心配無用です。文化祭までには会合も片がつくだろうし」 「どこととは聞かないでおくわ…」 「それよりも、その、いま私時間が空いてるんですよね」 「なんだ、手伝ってくれるのか?」 「あぁー、えっと、まぁ」 躑躅が答えに詰まる。暇だから手伝いに来てくれたわけじゃないのか。彼女は首元のリボンをくるくるといじりながら、唇を尖らせた。 「おい八尋」 「うっ」 啓が後ろから背中を突いてきた。躑躅へと倒れこみそうになるのをつま先で耐えて振り向くと、襲撃してきた本人がむすっとした顔をしている。 「今ちょうどセリフの練り直しするつもりだったから、さっさと躑躅さんの相手をしろ」 「はぁ…?」 啓の後ろで笹森さんが楽しそうに笑っている。その笑顔で啓の意図を察することができた。 「あぁ、悪い。俺がいると邪魔だな。啓が笹森さんとしゃべれないもんな」 「そうじゃねぇよ!」 分かってるよ。ありがとな。突っ込む啓をなだめながら、その流れを微笑して見つめていた躑躅に頷くと、一緒に教室を出る。廊下ですれ違う同級生の視線はまだ慣れない。躑躅もそれを気にしてか、夏が終わっても俺たちは図書準備室に集まっていた。 「いやー、やっぱりこの部屋は落ち着くね。古書のにおいとカーテンを透かしてうすぼんやりとしたほど良い暗さ。いいよね」 躑躅は最近いつも初めて来たかのような反応をする。そんなに会社のオフィスは面白みがないのだろうか。俺はあまり、いい思いはない。 「なんでよ、私と二人きりだったのに」 「だからこそだよ。俺の葛藤も知らずに…」 「葛藤って、なによ」 「別に」 「気になるじゃん」 何でもない。その時の悩みはもう解決したのだ。 「躑躅、また秋にどこか行こうな」 「いいね。地図で適当に探したところとか行こうよ」 「それは迷いそうだな」 俺のぼやきに躑躅はにやりと笑うと、表情を改めて髪をかきあげると、最大限の笑顔を見せるのだった。 「迷ったっていいじゃん。どこまでも一緒でしょ?」 ジリジリと蝉のなく声がする。入道雲も最近はめっきり見ることがなくなった。もう夏は終わりを告げようとしている。巻き戻すことのできない人生の、最後の色ある夏が終わっていく。 「そうだな、一緒だ。これからもずっと」 それでも今は怖くない。 「うん、約束。頼りにしてるよ」 だって、目の前に咲き誇る躑躅の花はこんなにも鮮やかなのだから。
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