俺の青い春がアニメで何が悪いっ!

1/1

1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

俺の青い春がアニメで何が悪いっ!

5ee8f769-f20c-4f90-b234-eaf8c865553e  学校が嫌いだとはっきりと思ったのはいつの頃だったか。  幼稚園はカトリック系で聖書の一節を覚えないといけないのが面倒で嫌だったことぐらいしか記憶がない。 小学生の頃は友達と遊ぶか、駄菓子屋で全財産を使うか、ゲームをすることが楽しみで、嫌な授業があるときがとても学校に行くのが億劫だったぐらいか(特に音楽の楽器を使う内容が嫌いだった。歌は声を出すのが好きだから大丈夫だったが)。  中学生になると突然の環境の変化に戸惑ったことを覚えている。そして、クラスで小さなイジメが乱発した。その対象に自分が入った時期もあって、その頃は学校がとても嫌だった。けど、そのなんてことはないイジメ(イジメた当人はそれをイジメだと認識していないかも)から解放されても、学校が嫌なものであることからは解放されなかった。眠かったのが一番で、あとは学校に行く意味が分からなかった。成績は良かったから、学校で授業を受けるのが苦痛だったのだ。それでも学校が嫌いだと言いつつも、本気でそうは思っていなかった気がする。  高校生になって、環境の変化はやっぱり大きなストレスだった。それでも中学が嫌だったから高校に希望を求めるプラスの気持ちもあった。けれど、それはすぐに現実に踏みにじられる。中学のときよりももっと勉強しろと言われる(環境自体がそれを強要していた)だけだった。   このときかもしれない。俺が、学校が嫌いだと認識したのは。  それでも高校をきちんと卒業したのは、進学校に入ったのだから勉強しないといけないのは仕方がないという親の言葉があったことと、退学する勇気もなかったからか。  でも、救いもあった。俺は高校でアニメの面白さに気づき、声優という存在を知った。そしてそこにのめり込むことで全然楽しくない現実に耐えることができたのだと思う。いつか、自分もその世界に入れることを夢見るのが何よりの楽しみだった。周りは異性のことばっかりに夢中になっていたけど、自分だけが声優になることを目指していた。その特別感に酔いしれていた。恋愛なんてアニメや漫画の中だけでお腹いっぱいだった。  それでも俺は大学に進学していた。  結局、自分は学校が好きなのか嫌いなのか。ちょっと分からなくなってきた気もする。 けれど、進学した明確な理由は自分の中にあった。アニメの世界が充実している東京に行けるし、必然的に実家から距離を置くことができる。そして、大学さえ卒業すれば好きなことをやっても誰にも文句を言われないと考えたからだ。  そう、声優になることに。  そのための準備をする期間が俺の大学生活だ。  大学二年の春。  新入生たちもようやく落ち着きを見せ始めたGW明け。  ようやく俺の心は復活の兆しを見せようとしていた。つまり、その前は死んでいた。  大学で声研という声優サークルに入って、俺は声に自信を持ち始めていた。声研に所属している誰よりも声が良いと確信していたし、同期は勿論の事、先輩たちにも褒められたりした。それで気を良くした俺は、声優養成所の入所試験を受けることにしたのだ。しかも、洋画のアテレコなどで活躍する声優を抱える大手事務所Mだ。  落ちて当然と何かに言い訳しながらも、本音は自信に満ち溢れていた。大学にいきながらどうやって養成所に通おうかと先走ったシミュレーションを頭の中でしては一人ほくそ笑むということを何度も繰り返した。 そして、オーディション当日。  結果を待つまでもなく、俺のその自信は打ち砕かれた。他の参加者たちのレベルの高さに、井の中の蛙という言葉を思い知らされた。たった一行の台詞を聞いただけで自分との実力の違いを感じた。  それは才能の差なのかもしれない。  声優になれる人は才能で決まっていて、自分はそこから外れている。そんな気がした。  勿論、結果は不合格だ。分かっていても、その通知を手にすると更に落ち込んだ。  つまり、そのときに俺の心は死んだのだ。それでも大学をサボらずにいられたのは、勉強が好きだ嫌いだとかでは決してなく、ただの意地だ。何かに負けた気がするから。  そうして、GWは実家に帰らずに部屋から外に出ることもなく、アニメを浴びるように見続けた。それで分かったことが一つある。いや、再確認したということになるだろうか。  俺はアニメが好きだ。  この世界で生きていきたい。  その結論が復活の呪文となって、俺はようやく生き返った。 「…………どうしますかね」  大学敷地内のベンチで腰掛けながら呟く。  行き交う生徒たちを目の端に捉えながらボーっとする。小一時間それを続ければ心の声も漏れるというものだ。それでも誰も俺の存在に気づくものはいない。いてもいなくてもどうでもいい存在。それが俺か。その事実が癒しきれていない心の傷を少しだけ刺激した。  いつもなら、大学で時間を持て余したときは声研の部室に入り浸っていた。が、もうその時間は永遠に来ない。  俺は声研を辞めたからだ。  あのオーディションを境に、俺はこのままではいけないと思うようになった。それは強迫観念にも近いほど強く。  だから、自分にとって居心地が良い声研を辞めることになったのは必然だ。あそこにいるだけで、一端の声優の卵でいられる気がしてしまう。アニメの世界に生きている錯覚に浸ってしまう。その事実に気づいてしまった今、もうそこにいることはできなかった。  極端すぎる俺の行動に眉をひそめる者はいたものの、俺の退部は申し出たその日の内に受け入れられた。結局は、声研にとって俺の存在なんてその程度のものだったのだ。思いの外、ガックリしてしまった自分に更に嫌気が差した。そこからの回復を待つようにベンチの住人になって早数日。  そろそろ、動き出さないと。  また、心の声が聴こえる。ともすれば強迫観念にも変わりそうなその声に動かされることは不快ではない。むしろ、それは俺自身を動かすエネルギーだ。もっとそれが純粋になれば、一般的に呼ばれる情熱というものになるに違いない。でも、まだ俺の心はそこに至ることはできなかった。そのことに焦りのようなものを覚えながら、俺はひたすら考える。  何をすべきか。  その答えが自分の中にないなんて思いもしない。だから、思考の袋小路に容易に嵌まってしまう。  それでもそこから抜け出すことができたのは、運が良かったからか。  あか抜けない二人組の女の子たちが俺の前を横切っていく。俺の存在を無視しているかのような光景は今までと変わらない。違うのは、彼女たちの会話を俺の耳が拾ったことだ。いくつかの聞き知った単語は一般人には何か分からない。が、某アニメを知っている者には聴き慣れた単語だ。それに吸い寄せられるようにして俺は彼女たちの後を追った。傍から見ればストーカーのような危ない奴だったかもしれない。  運良く彼女たちに気づかれることなく、俺はそこに辿りつくことができた。 『アニメ研究会』  歴史を感じさせる古びた木製の看板が掲げられたそこに彼女たちは入っていった。  なるほど、アニ研の部員だったか。それであればアニメの会話をしていることにも納得がいく。 コンコンーー  ドアを叩く音が間近で聴こえて、そこで自分がノックしていることに気づいた。己の行動に驚いている暇もなく、ドアが開かれる。 「……なんでしょう?」  さっきの人たちとは違う、少し表情が乏しい女の子がこちらを上目遣いで窺う。それでよく人の顔が分かるなあという細い目が印象的で、心の中で糸目と勝手に命名した。 「・・あの」と糸目がもう一度、こちらを窺った。そこで不審者だと思われていることに気づく。 「いや・・ここアニ研ですよね」 「はあ、そうですが」 「え・・と」  しどろもどろになりながら会話の糸口を探る。何の用意もしていなかったので、焦りだけしか出てこない。どうして俺はノックなんかしてしまったのだろうか。  けれど、その内向的な行動が相手を安心させたのか、彼女の乏しい表情が少しだけ和らいだ気がした。 「……入部希望ですか?」 「え、あー・・そんな・・感じ?」  反射的に俺は彼女の助け船に乗ってしまった。それだけパニクっていたということだろう。けれど、これが俺の新しい扉を開くことになる。 「じゃ、どうぞ」  糸目の案内人に導かれ、俺はその扉をくぐった。  机の上は勿論、壁や本棚、部屋の隅にまで至る所に物が積まれている。  雑多な印象は受けるものの、汚い感じはしない。掃除自体はマメにしているのだろう。そこが声研とは違う。けれど、ここに溢れている物はほとんど同じだ。 アニメと漫画。 それが至る所に散乱している。何と落ち着くことか。 室内には俺を除いて5人ほどの部員がいた。空間的にはちょうどいい人数だろうか。 「こんにちは」とフレンドリーな笑顔を浮かべて挨拶したのは、部室の奥に座る小太りな男だ。身綺麗な恰好をしていて不快な印象は受けない。 「ど、どうも」 「入部希望?」 「え・・あ、いや、まあ……」  歯切れの悪い答えを返す俺に「まだ迷っている感じかな」と勝手に察してくれた男は「僕がアニ研の部長の由水です」と自己紹介をするとアニ研の説明までしてくれた。  声研にしてもアニ研にしても内向的な人々の集まりであることには変わりがないようだ。どうもアニメ好きにはそういう輩が多い。勿論、俺もその一人だ。けれど、そんな集団にも必ず社交的な人材が存在する。アニ研ではこの由水がその人間のようで、他の部員たちは先ほどからほとんど気配を消している。 「・・つまりは、アニメに関するものが好きなら誰でも入部して損はないってことかな」  由水はそういってアニ研の活動の説明を締めくくった。とても大雑把なそれが俺にはとてもしっくりきた。そのせいじゃないけど、俺はアニ研に入ってもいいという方に心が傾いていた。 アニメから離れることもなく、声優についてじっくり考えることができる。何より、一人は寂しいとまでは思わないもののつまらない。それを最近、感じていたから。声研よりも女子の割合が多いように見えたのも理由の一つだけど、それは内緒だ。 「……じゃ・・入ろうかな」  少し勿体ぶって応えた俺に由水は「OK。歓迎する」と握手を求めた。遠慮がちにその大きくて生暖かい手を握る。何かの契約が成立したような気がして、心がざわめく。そんな俺に由水が手を握ったまま、「君はどっちだ?」と尋ねた。 「?」  その意味を計りかねて首を捻る。 ――変な意味じゃないよな。  そんな俺を訝しむことなく、由水はニヤリといやらしく笑った。 「見る側か見られる側か、だよ」 「……」  その答えは心の内に在ったけど、言葉にすることはできなかった。黙っている俺に由水は「歓迎するよ」と今度は薄く笑った。  春が過ぎ、梅雨が終わろうとしていた。  すでにうだるような暑さは始まっていて、常にHPが減り続けるような日々が続く。  ようやくアニ研にも慣れてきた。 その実態は大きく分けると二つ。アニメを観たりしてその感想を言って楽しむ人たちと、アニメを創って楽しむ人たち。 俺はその中間点にまだいるような感じだろうか。アニメを創るといってもノウハウがよく分からなく、それを学びつつ、アニメ談義に花を咲かせる。そんな感じだ。 けれど、意外にもそれが楽しかった。 でも、心のどこかで、そんなのは下らないと言う自分もいた。 その矛盾した自分の心になかなか折り合いがつけられないで、夏が来ようとしていた。 「・・つまり、パラパラ漫画の要領だよ」  不釣り合いに大きな眼鏡をクイッと上げて島美衣子が言う。その伊達眼鏡は糸目をカバーするためのアイテムだ。細目のことを本人も気にしているのだ。心の声を漏らさないでよかった。 「トミーの説明はざっくりしているね」 「えー、じゃサトセンが教えてくださいよ」  島の言葉にサトセンこと平永聡志先輩がいつもの柔和な笑みを浮かべる。ちなみにトミーは島のニックネーム(島の音読みとみーこの合体)で、あまり良さげには思えないのだが当人は気に入っているらしい。  俺はさっきからその二人のダラダラしたやり取りを何となく聞いている。  部室には俺たち三人以外にも数人の部員がいたが、みんな自分が好きなアニメの話しを交わすか、何かしらのメディアに夢中になっている。彼らは見る側の人間なのだ。そして、今、俺は見られる側にいる。 「ビデオのコマ送り、あるだろ?」  平永の言葉に俺は神妙に頷く。それに気を良くしたのか、平永は饒舌に説明をはじめた。 「その一コマずつを描いて並べて連続撮影すればアニメの完成さ。勿論、すごい大変だけど、今はデジタルでかなり負担を軽減できるからな。俺らでも少しずつ作っていけば短いアニメーションは制作可能ってわけ」  なるほど、と俺は二度三度と頷いた。最初は、大学生のサークル活動でアニメなんて作れるのか、と大きな疑問符がついたものだけど、今の説明や、制作過程である作品も見たりしたので疑ってはいない。  アニメは作れるのだ。  大学生の俺たちでも。  ただ物凄く大変で地味な作業だけど。平永は負担が軽減されたと言っていたが、それでも完成までにどれぐらいかかるのかと気が遠くなるほど作業は進まない。 「ちなみに今やっているのは崖が崩れていくシーンだけど・・」と言って平永は使っていたタブレットを見せてくれた。 作成中のイラストは崖の部分だけが未完成だ。その崖が壊れていく様子を一コマずつ描いていく。壊れない場所はそのままでいいので、確かにデジタルでの処理は以前と比べたら楽なのだろう。コピペなどの作業が一瞬だ。それさえもままならない時代はきっと吐き気がするような手間と時間をかけたんだろうな、と現代をありがたく思いつつも、弱音を吐きたくなる気持ちを抑えることはできなかった。今日も三人で2時間以上は作業しているものの、終わったのは5コマ程度で崖が崩れ切るどころかようやく崩れ始めたぐらいだ。 「大変ですね……」  俺の呟きに二人は苦笑を浮かべるだけで再び、それぞれのタブレットと睨めっこする。きっとそれは分かりきった事実なのだろう。  俺を含めた三人は談笑を切り上げて再び、作業へと没頭した。他の部員の楽しそうな笑い声が癇に障ったのは心の底に沈めた。 『蒼穹』  それが俺たちアニ研の実働部隊が制作中のアニメのタイトルだ。  当初、10分程度の尺を目指して創りはじめたものの、それでは収まりきらないということが今年の初めに発覚して15分を目指して今では動いている。ちなみに制作にとりかかったのは一昨年の暮れということで、すでに製作期間は一年と半年を超えようとしている。  まだ半分程度の出来なので、単純計算では同じ期間の一年と半年がかかる計算になるのだけれど、由水は「慣れてきたから、今年中には完成できる」と断言した。その進行に少なからず俺も関わっているのが何だか少しだけ嬉しい。  声優という世界から少しだけ離れて、アニメの世界にいる。その視点がとても新鮮で楽しい。けれど、それを下らないと吐き捨てる自分もまた心の中に住んでいた。  その迷いにも似た心から目を背けるのに今の状況は好都合であるのかもしれない。 俺は慣れないアニメ制作に下手なりに一生懸命、働いた。その一生懸命さは声優を目指していたときは素直に持っていなかった。どこか斜に構えていた気がする。その方が格好良い気がして。その格好悪さに気づけたことが、アニ研に入っての一番の収穫かもしれなかった。 「・・ネンネンは頑張るねー」  作業中のタブレットから目を離さずに島が話しかける。ネンネンとは俺につけられたあだ名で知念という苗字の下の部分からつけられた。あまり気に行っていないが下の名前でからかわれることが多いのでまだましかと諦めた。なにせ、相手はトミーというあだ名を気に入るセンスの持ち主なのだ。 「俺は絵が下手だし、手も遅いからね。頑張るしかないんだよ」  同じようにタブレットで作業をしつつ、応じる。こんなやりとりにもすっかり慣れるほど俺はアニ研に溶け込んでいた。 「うーん、そうじゃなくて……」 「なんだよ」 「いや、毎日、飽きずに活動に参加してて、偉いなって」 「それはトミーもじゃん。何だよ、自分の事、偉いって遠回しに言ってんの?」 「違うよ。・・ほら、何もしないでアニメの話ばかりしている部員もいるでしょ」  他に誰もいないのを良いことに島が不満を口にしたのが分かった。それは俺の不満でもある。でも、だからこそ、俺は同調することはなかった。 「それは自由なんだからいいじゃない。見る側も見られる側も同じ部員で上下はないってのがここの決まりだろ」 「そうなんだけどさ」  島がまだ不満有りげに口を閉ざした。きっとタブレットで隠された口許は狐のように尖っているに違いない。その糸目には似合って可愛いと思いつつもそれを口に出すことは憚られた。たぶん、喜ばないと思うし、何より女の子に向かって可愛いと言うなんて恥ずかしくてできるわけがない。声研でもそうだったけどアニ研でも異性関係はそれほど積極的でないのがデフォルトで、自分自身もそこに当てはまった。だからそれが当たり前な気がしたけれど、大学のいうより広い世界でモノを見れば、明らかに俺たちは少数派だ。そこに劣等感を抱かずにはいられない。それを紛らわすためにアニ研に入り浸っているところもあった。 彼女はどうなのだろうか。  その疑問をぶつけてみたい。けれど、到底できるわけがなかった。  変な奴だと思われるかもしれないし、気があるのかと思われるかもしれない。  そんな悩みと日々じゃれあいながらの大学生活はある意味、充実していた。  が、ぬるま湯の日々は唐突に終わりを告げる。その原因が熱湯か冷水によるものか、判断は難しい。分かっているのはもうぬるま湯には戻らないということか。 「これぞまさに風雲急を告げる展開!」  アニ研部長の由水がアニメから引用したその雄叫びも冷え切ったこの場を盛り上げることはできなかった。そんな状況を創り出したのもまた由水だったが、誰もそのこと自体を責めることはない。彼に責任がないのは火を見るより明らかだったからだ。 「……アニ研が潰れるってこと?」 「……」  部員の一人が発した言葉に沈黙が応える。  俺自身、それを否定も肯定もできなかった。たぶん、他のみんなも似たり寄ったりではなかろうか。だからこその沈黙だ。 「……違う」と言葉を絞り出したのは由水だ。「それは違うぞ」ともう一度言葉を重ねる。それは彼の立場がさせた発言だ。でも、責任を放棄しないその態度は嫌いじゃない。 「アニ研が潰れるわけじゃない。今、言った通り、統合されるだけだ」 「でもアニ研はなくなるんですよね」とさっき『潰れる』発言をした同じ部員が切り捨てるように応える。いつもアニメの話しで盛り上がっている女の子で、俺がここに来るきっかけになった人物でもあったけど、あまり好きになれないでいた。そして、今、嫌いになった。 「なくならないよ。統合先の一部になるだけさ。統合先の名前は決まっていないから、アニ研の名前も何らかの形で残せるかもしれない」 「……そんなのアニ研じゃないじゃん」  本人は呟いただけで聞かせるつもりはなかったのかもしれないが、その呟きは確実に俺の耳に届いていた。おそらくは由水にも。  それでも彼はへこたれることなく、我慢強くいつもの薄い笑みを浮かべている。 「統合は避けられないってことかい?」  平永が緊張感に欠ける口調で尋ねる。そのいつもと同じ態度に硬くなりかけていた場が少しだけ柔らかくなった気がした。 「避けられないわけじゃないけど、統合されるのは確実なようだよ。アニメ系以外でも似たようなものは全て一つにまとめていくってのが大学の意向みたいだからね。その白羽の矢がうちに立ったのが名誉なことだと前向きには思えないけどね。とりあえずはアニメとか漫画の二次系の統合と映像と演劇系の統合をするらしいよ」 「じゃ、避けられないんじゃ?」 「いや、そんなことはないようだよ。例えば、今回、映画研究会は統合から外されてそのままの形で維持される」 「ずるい」と声を漏らしたのは島だ。その糸目を小さいながらも丸くして口を抑えている。思わず口に出た言葉は他のみんなのものでもあったから誰もそれを責めることはなかった。むしろ、その仕草がちょっとだけ可愛くて、こんな場面なのに微笑みそうになってしまった。 「ずるくないってのが大学側の意見さ。いわく、映画研究会は毎年、素晴らしい作品を制作して発表しているってね。つまりは実績さ」 「……」  再びの沈黙が訪れる。確かにアニ研に実績と呼べるものはない。アニメを研究して発表したところで実績と認めてもくれないに違いない。 「…………実績、か……」  平永の呟きが重く圧し掛かる。それをはねのける方法は見当たらない。 でも、統合されるのが悪いと決まったわけではない。だから、由水も最初に統合されることを持ちだしたのだ。  みんなが恐れているのは多分、変化だ。  そして求めているのは現状維持だ。  今までと変わらない活動。アニメの話しばかりしたり、アニメを創ったり、キャラへの愛を力説したり。それがなくなるかもしれない。それが怖い。でも、なくならないかもしれない。だから、積極的に否定することもない。頑張ることもしたくない。だって、それも変化だから。この沈黙がそれを証明している気がする。  俺は嫌だ。  それは感覚的な答えで、これもまた、多分他のみんなも同じだ。そしてそれを口にしない理由も。  行動するのが嫌だから。考えるのが嫌だから。  自分を犠牲にするのが嫌だから。  時間を、思考を、エネルギーを、注ぐのが嫌だからだ。  そんな思考に気づいて、自分が嫌になった。声優を含めたアニメに対する俺の気持ちはその程度なのか。 だからそれを否定したかった。だからそれを先にした彼女が眩しく映ったのは、以前から気になっていたせいじゃない。 「私は・・嫌、です」  たどたどしくも、きっぱりと島は言い切った。  実績を作る。  言葉にすると一瞬だけどそれを実現するのは難しすぎる。 一人じゃ無理だ。じゃ、二人なら? 二人で駄目なら三人なら? それで駄目ならもっとたくさんなら?  その答えを俺たちは見つけることにした。  音頭をとったのは由水だ。それに平永が続き、気づけば部員の半数以上の8名がそれに賛同していた。みんなきっかけが欲しかったんだ。そのきっかけを作った島は興奮が覚めやらないのか、胸に手を置いて呼吸を落ち着かせていた。手元のそのボリュームの豊かさに一瞬どきりとしたのは内緒だ。  残念ながら統合に賛成する者や、積極的に反対しない者もいた。が、アニ研を辞めるわけではないので、大きな問題ではないだろう。  俺は勿論、統合反対派だ。つまりは実績を作ることを目指す。  その道筋はもうすでにあった。由水が指し示してくれたからだ。  今、制作中のアニメを夏休み明けにまで完成させる。それを以ってアニ研の『実績』とする。  このタイミングで制作していた作品があったことは不幸中の幸いだった。由水はこれを「運命とはかくあるものよ」と言い切り俺の心を揺さぶった。それがアニメの台詞からの引用であると平永に教えられたのは後からだったけど、それでもそのときの感動が薄れることはなかった。  きっとこれは運命なのだ。  彼女に惹かれることも。  その答えに勇気づけられて、俺はアニ研の活動に勤しんだ。  そして、大学は長い夏休みに突入した。  アニメ制作の方は、順調に進んでいるものの、いまだ終わりが見えない作業であることに変わりはなかった。特に年末の予定を9月末にまで前倒ししたのだ。余裕などはなかった。けれど、由水が言っていた通り、慣れてきたことから確実に作業スピードは上がっていった。8月中には終わりの背中が見えるのではないだろうか。 そんな俺の計算は大甘なことをすぐに思い知らされることとなる。 「夏休みの予定を確認しておこうか」  夏休みのはじめに由水がそう話を切り出した。喫茶店で休憩中だった部員らが順に各々の予定を報告する。それを端で聞いていて俺は信じられない気持ちになった。  ほとんどの部員が2週間以上、帰省などで休むらしい。一週間以内の休みは俺と由水と平永だけだ。  そんなんで大丈夫なのか。  みんな今の状況を分かっているのだろうか。休んでいる場合じゃないんじゃないか。  そんな疑問が頭の中で渦巻く。  しかし、由水はちょっとだけ難しい顔をしたものの「分かった。OK」と承諾したのだ。  それでその話は終わりだ。  その後、合間を見つけて由水にそれとなく自分の疑問をぶつけると「仕方がない」と答えるだけだった。  何が、仕方がないのか。  その時の俺は分からなかった。 「・・部長、まだやるんですか?」  窓から見える外の風景はすで黒に染まって久しい。セミの鳴き声だけがずっと変わらない。東京では蝉は昼夜問わず鳴いている。古いエアコンが健気に頑張っているものの室内は頑固な暑さが残っていた。身体が冷えすぎずに丁度いいと女子には評判だが、その女子がいない今は不評しか残らない。 「もう少しだけ、な」と由水がウインクで応える。似合っていないが本人は分かっていてやっている。アニメから引用した仕草や台詞が由水の大好物であることに俺もすでに気づいていた。 「別に家に帰っても誰が待っているわけじゃなし、か」 「サトセンだってそうだろ」 「だぁから、付き合ってんだろ」 「そういうとこが好きぃ」 「やめい!」 「……」  いつもなら由水と平永のそのやり取りに女子が喜々として絡んでくるのだけれど、俺以外他にいない現状では白々しい空気が流れるだけだった。 「ユーリは帰っていいよ」  由水が作業の手を止めずに言う。が、分かりました、と応じられるほどドライにはなれない。それに夏休みに入ってから毎日のように顔を合わせているのだ。連帯感のような感覚が生まれていた。 「俺も手伝いたいんですけど……」と言葉尻が萎んだのは、手伝える作業が今のところないというのが分かっていたから。初心者に毛が生えたような俺ができる作業など限られている。イラストの一部分を少しずつ線をずらして動いているように見せるのが俺に出来る一番、高等な作業だ。その元になるイラストがなければそのなけなしの技術さえ使うことができない。 「今の作業ではまだユーリの出番はないかな」  案の定、由水は俺が必要ではないと暗に言った。それが残念で、その言葉に含まれていた微妙なニュアンスを聴き漏らしていた。それを逃さなかったのは平永だ。 「今の作業以外ならやることがあるみたいに聞こえたぞぅ」 「ザッツライ!」  タッチペンをかざして由水が応える。またウインクをしていたけどやっぱり似合わない。 「えっと・・俺に出来ることが他にあるってことですか?」 「そうだよ。人には領分ってものがある。そしてできることをやるかやらないか、という意志もある。やりたいこととできることが交わればそれは幸せなことだけど、なかなかそれが上手くいかないのが人生さ」 「! ・・それはなんのアニメの台詞ですか?」 由水の言葉にまた心が動かされかけたのが口惜しかったから、茶化すような口調になってしまった。けれど期待したリアクションは由水から得られなかった。いつもの薄い笑みを浮かべると思ったのだけれど、どこかバツが悪いような表情を浮かべている。平永がその種明かしをしてくれた。 「残念ながらアニメじゃなくて本人の言葉なんだよな、ヨッシー」 「ばらすなよ」 「いいじゃん。今の言葉、懐かしいぜ。一昨年のちょうど今頃じゃないかな、同じ台詞を聞いて俺もユーリと同じ風に茶化したもんな」 「そうですね、先輩」  由水がお返しとばかりに揶揄するが平永に動じた様子は欠片もない。平永は由水より一つ下の二回生でありながら年は上だった。浪人と留年をしていることを「イチロー(一浪)なのに二流(二留)とはこれいかに」と持ちネタにしている。それを初めて聞いたときはドン引きしたが今は普通に笑うことができる。きっとそれは平永も由水と同じように俺のことを下の名前の裕理にちなんでユーリと呼ぶようになった頃からだ。 「あのときもやる気のある奴とない奴の温度差がはっきりしたときだったな」 「もうやめようぜ」 「そうか」と平永がそこで話を終わりにしようとしたとき、俺は「聞きたいです」と反射的に割って入っていた。  あのときも、と平永は言った。それは今もまたやる気のある者とない者の温度差が生まれているという意味だ。それは喫茶店で夏休みの予定を部員たちから聞いたときに俺の中で生まれた気持ちを言語化している気がする。だから、気になったのだ。 「大した話じゃないよ。・・今やっているこのアニメを創ろうって話のとき、やっぱり今みたいにやる気のあるなしで分かれた。けど、それは問題なかった」 「何が問題だったんです?」  俺の問いかけに由水は平永と一度だけ目配せする。それから二人してニヤリと笑った。 「やる気があるって言ってるのにやる気がないように見える部員が少なくなかったってこと」 「!? ・・そうですよね。俺、それが納得いかないっていうか……」 「分かるぜ。俺もそうだったから。んで、愚痴る俺に対してヨッシーが言ったのがさっきの台詞さ」 「やりたいこととできること・・でしたっけ?」  思い出しつつ答える俺に平永が右手の親指を立てて応える。由水が眉間に皺を寄せながら薄く笑っていた。照れているのだ。 「俺らがやりたいこととできることが重なっていて、他の部員はずれているってことですかね?」 「そんな感じかね・・」と由水は応えてから少しだけ考える仕草を見せた。そしてもう一度口を開く。 「・・他の部員もやる気はあるのさ。ただ、それが僕たちのやる気とずれているんだろうね。自分で設定した限界以上の頑張りはしない・・もしくはできない。僕たちは限界を設定しないでそれを感じるまで目標に向かってひたすら進む。このすれ違いは残念だけど仕方がない。よく言う、価値観の違いってやつかな」 「!? ・・そんなもんですか」 「そんなもんだよ」「そんなもんさ」  二人の先輩の声が重なった。それから三人の苦笑が重なる。それは馬鹿笑いとなって部室にこだました。  仕方がない。  俺たちにできるのは笑って、前に進むことだけだ。  ひとしきり笑ってから、俺は最初の疑問が解決してないことに気づく。 「・・で、俺にできる他のことって?」 「え・・ああ、そうだったね」と由水も忘れていたのだろう。思い出すように視線を上にさ迷わせてから「君にお願いしたいことがある」と真っ直ぐに俺を見つめて言った。改まったその態度にどきりとしながらも次の言葉を待つ。  どんなことでも聞くつもりだった。けど、YESと即答することができない。 それは俺にとってまだ触れたくない領域だったから。  初めて覚える身体の気持ち悪さ。  瞼を開けるのがこんなに億劫だったのも初めてだ。  そして、目が覚めて真っ先に飛び込んできたのが男の寝顔だったのも初体験だった。  一瞬、頭がパニクりかけて、ようやく自分の状況を掴んだ。  ここは由水が住むマンションの一室で、俺と平永が床に、そして由水がベッドで寝ていた。  由水にお願いをされたあの後、承諾を渋る俺を誘ってここでプチ宴会がはじまった。それまで少しぐらいはお酒を飲んだことがあったけど、昨夜みたいに羽目を外したのは初めてだった。  これが二日酔いか。  頭が痛いというよりひたすら気持ち悪い。寝起きは最悪だ。昨夜の記憶を探るも、ビールからワインに飲み物を移した頃から怪しくなり、日本酒に移ってからは記憶が抹消されている。その記憶が真っ白という初めての感覚はとても頼りなく、不安にさせた。  先輩たちに迷惑をかけたのではないだろうか。  そんな不安がよぎる。  懸命に記憶を呼び覚まそうとするものの、うつろな断片が浮かんでは消えて、しっかりとした記憶の形にはならない。  部屋の中は昨夜の宴会の名残りがそのままだ。お酒の空き缶や空き瓶、そして食い残したおつまみなどが散乱している。それとアニメのDVDが投げ出されたままだ。そのタイトルを目にして俺はちょっと気持ちが和んだ。それは俺の大好きな作品だったから。キャラの熱さが男気を感じさせて、俺もこうありたいと思わせてくれた。 「ああっ!?」  思わず、大きな声が漏れる。気持ち悪さの大きな波が押し寄せてきたけど、それさえも些細なことに思える。  ある記憶が呼び起こされたからだ。  それは、酔っぱらった俺たちがこのアニメを観ていた時のことだ。  キャラクターの熱さに感化された俺は大きな声で吠えた。 「やってやりますよ!」と。  そして祝杯を挙げて、俺たちはここに死屍累々となった姿を晒したのだ。  俺は、由水の頼みを快諾してしまったのだ。 『声優探し』を。  二人は覚えているだろうか。  俺と同じように記憶が抹消されていればいいのに。  その願いは、置き出した二人の表情を見るなり、かき消えた。  由水はニヤリと笑い、平永は俺の肩を叩いたから。  アニメ制作に欠かせない声優という存在。  声を入れないでアニメを創ることができないわけじゃないけど、それは難しく、かつ効果的ではない。少なくともアニ研が制作中のアニメには声優の存在は不可欠だった。  そして俺はかつて声研に所属していた。由水が俺に声優のキャスティングを任せようと考えたのは勿論、行き当たりばったりではなく、それなりの知識と経験を持っていると踏んだからだ。少なくとも作画よりも俺がお役に立てるのは間違いない。  そして俺はそれを承諾してしまった。  お酒が入ると気が大きくなるという意味を身を以って知ってしまった。実はそれ以外にも口にしなければ良かったと後悔してしまう記憶が蘇っていた。  俺は、自分が声優を目指していたことやオーディションを受けたこと、そして自分の才能の無さに嘆いていることなどを打ち明けた。しかもリピート機能付きで。  お酒って怖い。  それでもあの飲みは楽しいものだったと記憶されている。それが自分だけじゃないことを願いつつ、俺は見慣れた場所へと向かう。 『声優研究会』  そう表札が出ているプレハブ小屋のそこが声研の部室だ。  懐かしさを少し感じつつ、その扉を開ける。そして、そこから出るときには何とも言えない不快感を抱いていた。  気持ち悪い。  それは二日酔いのそれとは質が違う。あまりにも強烈で後を引く。  以前、そこに自分がいたなんて信じられなかった。 「物別れに終わったってことかい?」  俺の報告を聞いていた由水はタブレットから目を離さないまま、確認する。部室には他に平永がいる。8月に入ってからこの三人でずっと活動していた。 アニ研は三人しかいないのではないかという錯覚に陥りそうになる。他の部員は8月から(早い者は夏休みに入った直後から)、長いお盆休みに突入している。つまりお盆が過ぎたら一気に人が増える(戻る)わけだ。なんと効率が悪いことか。たぶん、その頃は人手が余る可能性すらある。 「そうなるんですかね」と俺の答えがぐらついたものになったのは、声研の協力が得られなかったことを残念だと思っていないからだ。 「ヨッシーは声研と一緒にはやりたくないってことだろ」と俺の心を代弁したのは平永だ。いつの間にかタブレットから手を放し、炭酸飲料を片手に会話に加わる。 「どうして?」 「その答えは俺じゃなく、ユーリが持ってるよ」 「なるほど。心に従って生きるのが矜持ってやつかい?」  由水がアニメの台詞を使って俺に水を向ける。  二人の言う通り、俺の心が声研と決別したがっているのだ。それはなぜか。  深く考えるよりもまず言葉にする。声にすることで思考が展開される。話し合いの大切さを俺はいつの間にか知っていた。それもまたアニ研で手に入れたものだ。 「声研の人たちには必死さがないから・・ですかね。だって、彼らは演技でひとくくりに統合されても声優という分野をそこで作ればいいと思っているし、プレハブ小屋の部室は解体が確定しているから統合されるのは好都合だとも言っていました。俺たちに協力してもいいと言ったのはただ単にオリジナルのアニメに出てみたいからです。その先のビジョンは彼らにありません。それに・・」  俺がそこで言葉を区切ったのは、そこから先はあまり口に出すべきことではない気がしたからだ。  迷う俺に「それに?」と由水が問いかける。いつもの薄い笑みが気にすることはないと言っている気がした。平永がじっと俺の話に耳を傾けている、大丈夫と励ましてくれている気がした。  だから、俺はその先を口にした。 「それに・・それでもお願いしたいと思えるほど彼らに実力はないです。彼らは演技がしたいんじゃなくて、声優ごっこがしたいだけですから・・だから演技系で部が統合されても、彼らが演技を勉強することはないと思います。自分たちは声優だと言い逃れをして、声優ごっこに逃げようとするだけです。そんな人たちに俺たちが創るアニメに関わってほしくないんです」 「そう」と由水は薄く笑うだけだ。 「でも戦力の一つとして割り切るって考え方もあるぜ」と平永が応じつつ、「・・けど一緒にやりたくない奴らと無理にする必要もないよな」と前言を翻したのは俺が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていたからだろう。それほどに俺は声研と何かを一緒に創るということは想像もしたくなくなっていた。 「そうだね。ユーリの心、赴くままにすればいいさ」 「それは部長の意見かい?」 「どうとでもとってもらっていいよ。この件はユーリに任せているからね」  そう言って薄く笑う由水。  信頼されていることを嬉しく思うと同時にプレッシャーでもある。それをはねのけるためには行動するしかなかった。逃げるという選択肢はない。ただその瞬間を誤魔化して生きるのであれば逃げるのもありなのかもしれない。けど、その先を想像すればそれはあり得ないのだ。ここから逃げてどこにたどり着くというのか。 「…………頑張りますぅ」  蚊の鳴くような声だったけど、何とか俺はそう答えることができた。  声研が駄目ならば、次はどうするか。  演技を大事にするなら、演技を大事にしているところへ向かえばいい。単純な話だ。  そうして、俺が次に向かったのは『演劇部』だ。 ここはすでに統合されることなく現状維持が決まっている。映画研究会と同じように、毎年公演することで実績を証明したからだ。  マイク前の演技と舞台では勝手が違うかもしれないけど、根っこの部分は一緒だと思っていた。その根っこが腐っているのが声研だ。だって演技がしたいんじゃなくて声優っぽいことをしたいだけなんだから。それが悪いわけじゃないけど、俺には必要がない。  地下にある広い部室は演劇部特有の空間だ。  俺は少し緊張しつつ、その空間へと足を踏み入れる。  そして、しばらくしてそこから出たときは高揚感のようなものに包まれていた。  結論は声研と同じかもしれない。  彼らともまた一緒に作品を創ることはない。  けれど、受けた印象は全く違うものだった。  彼らに負けない作品を創りたい!  その前向きな気持ちが心を占める。刺激を受けるというのはこういう意味なんではないだろうか。  そのために何をするか。  すでに俺の思考は次のステップへと移っていた。  久しぶりの実家は意外にも居心地が良い。  去年の末に初めて東京から帰ったときにその気持ちを抱いて困惑したものだ。  もうここには居場所がないと思って実家を後にしたのに、それはただの勘違いで俺の場所は用意されている。それどころか歓迎される。それは今年の盆に帰ってきても変わらない。父はどこか行きたいところはないかと聞いてくるし、母親は好物を用意していた。そして交通費は勿論のこと、それ以外にお小遣いまでくれる。約一週間の予定を五日に切り上げたのは悪い気さえした。  五日という滞在期間はあっという間だ。特にお盆の行事である墓参りで一日を費やせば、空いている時間は多くはない。三日目にしてようやく昔と変わらない自分の部屋で寛ぐことができた。そこで考えるのはやはりアニ研のことだった。 「……できっかなー」  ベッドに寝そべり見慣れた天井のシミを眺めながら呟く。  それはあの時から心に住み着いた悩みだ。そして、それを解決するのはいくら考えても無理なことも知っている。時が来ないとどう転ぶか分からないからだ。それでも悩まずにはいられない。不毛と分かっていても他にやることがないと勝手に悩んでいる。 まるで恋みたいだ、と由水ではないのにアニメの台詞のようなものが思い浮かんだ。 そして、自分の中にあるこの気持ちは恋なのだろうか、ともう一つの住み着いた想いに尋ねる。 これも答えは出ない。 ただ、これは時が来たら解決するのかも未定だ。その想いの正体が分からないのだから。 それよりはまだ正体が分かっている悩みについて考えた方がましな気がする。 そう、俺に任せられた声優のキャスティングについて。 演劇部に話を持ちかけたとき、彼らは「人の作品を創ることに情熱を使うより、自分たちの舞台を創ることに情熱を注いだ方がいい」と言い切った。 その通りだと思った。 たいして情熱を持ってない者に良い作品が創れるわけがない。そう暗に言っている気がした。それは俺が声研に対して感じていた思いを言葉にしたものに近い。 だから、声優にはそこに情熱を注げる人がキャスティングされるべきだ。 『プロと実力の差があるのだから情熱で少しでも埋めるしかない』  これもまた演劇部の部長が言っていた言葉で共感できるものだった。そして、それは俺が声優に対して感じていた劣等感のようなものを打ち砕く力も持っていた。  声優は選ばれた者しかなれない。  それが本当なのかどうか、確かめる術はない。ただ、俺にできるのはその差を埋めることができるかどうか。それだけだ。そして、そのためのエネルギー源が情熱だ。  つまり、声優に対して情熱を持っているのか。  その答えに辿りつくことができた。  俺はアニメの世界で、創る側で生きていきたい。そして、それは声優というカテゴリーで。  そのためのエネルギーは俺の心にある。  だから、俺は声優としてもこのアニメ創りに参加すると決めた。そして、他の声優も同じように情熱を傾けることができる者がやるべきだ。  だから、俺はオーディションをやることに決めたのだ。  学内の者なら誰でも受けることができるけど、おそらくはほとんどがアニ研の人たちになると思う。だって彼らが誰よりも情熱を持っているはずだから。  けれど、大きな不安があるのも事実だ。  俺のその考えが果たして受け入れられるのか。  由水と平永からは二つ返事でOKを貰っている。しかし、彼らが声優として出演することはない。ただでさえ多忙なのにこれ以上の負担は負いたくないし、声優はあまりやりたくないとはっきりと断られてしまったからだ。その代わり、オーディションの審査には参加してもらえるので助かった。  オーディションの開催はお盆明け。つまり五日後だ。  すでに情報は部内で共有しているし。簡単なチラシも掲示板に張ってある。  願わくばアニ研からたくさんの参加者が出てほしい。もし、ゼロだったらどうしよう。その不安は悩みとなってずっと俺の心に住み着いていた。  それらを振り払うように地元の夏祭りに出かけたりなどして、俺は実家で悠々自適を満喫した。けれど、大して楽しくなかった。部室でアニメ創りに追われている方が楽しいと思う俺はマゾなんだろうか。  こうして、俺のお盆休みは終了した。  アニ研初となるオリジナルアニメ・キャストオーディション。  蓋を開けてみれば、意外にも参加者は多く、最悪の結果は免れた。しかし、冷やかし半分の人たちも多かったのも事実だ。本気でこの作品に声優として出演したいと思っている参加者は少ない。それは仕方がないだろう。アニ研からの参加者でさえ、興味本位で受けてみたと公言する者がいるのだから。  そこから、声優の立場からこのアニメを良いものにすることに情熱をかける覚悟がある者を見極める。そのためのオーディションだ。参加者の演技を聞いてから、由水と平永がいくつか質問をする。俺はそれを傍で見てじっくりと判断する。その本気度を。勿論、演技の実力も大事だったけど、一生懸命に演技出来ることの方が大事だ。ありていに言えば、上手であることを望んではいない。とびきり上手であれば言うことはないけど、そんな人はいるはずもない。であれば、下手でもいいから、一生懸命で好感の持てる演技をする人の方が良かった。 「・・意外と上手い人は多かったように思えたけどな」と由水が言う。  オーディションを終えて、選考の段階に俺たちは入っていた。他の部員に聞かれたくなかったため、由水のマンションでの作戦会議だ。 「俺はなんかわざとらしくて好きじゃないけど、アニメっぽいっちゃあ、アニメっぽい演技って言えるのかねぇ」  平永が俺に話を振る。どちらの言い分も分かる気がした。よくある声の演技を真似できる人が多くいたという意味で由水は上手い人と言ったのだろうし、それをわざとらしいと由平永が指摘したのは、そこに心が感じられなかったからではないだろうか。  それを言葉にすると二人は興味深げに頷いた。 「じゃ、ユーリはどういう印象を抱いたんだい?」  由水の質問に俺は少しだけ考える素振りを見せる。思い出すのではなく、自分の意見を確認する作業だ。その理性の強さが演技の邪魔をしていることに俺は最近、気づき始めていた。が、長年の癖を簡単に修正することは至難の業だ。今もまた、無意識にその癖を発動させていた。 「……そうですね・・俺は何を優先するか、だと思うんです」 「というと?」 「この声優オーディションが普通のものなら、多分、声質が一番で次に演技力、その後に人間性? とかになると思うんですよ」 「このオーディションは普通じゃないのか」と平永が冗談めかして聞いた。俺はそれに頷く。 「俺たちはアマチュアです。プロのやり方を習っても追いつけることはできない。当然ですよね。それがプロの力ってやつですもん。・・だから俺たちはアマチュアであることの強みを活かしていいじゃないでしょうか?」 「強みって・・弱みじゃないのか?」 「そうかもしれませんね」と苦笑したのは平永を馬鹿にしたわけじゃなく、図星だと思ったからだ。強みと弱みは表裏一体という見方もあるのかもしれない。 「・・俺たちの作品にプロのクオリティが求められることはありません。じゃ、何が求められるのか。俺はそれが一生懸命であることだと思うんです」 「まるで高校野球だね」  その由水のツッコミに俺は大きく頷いた。 「そうです! 高校野球にプロの力は求められません。逆に言うとプロの力があっても一生懸命やってなかったら、高校野球の魅力は失われると思うんですよ。それと同じで俺たちの作品創りも一生懸命やることが一番大事で、作品の質は一番じゃないんです。一生懸命やった結果として良いものになればいいと思うんです」  いつのまにか熱くなった俺は立ち上がって語っていた。  それを二人は笑うことなく聞いてくれる。それがすごく嬉しかった。 「プロは結果が全て。アマはプロセスが全て。けど、どっちも大事にするものは同じさ」  由水のそれはアニメの引用だ。けど、その先を聴きたい俺はあえてその小芝居に乗っかった。 「同じだと?」 「ああ。大事なのはプロセスだ。結果は嫌でも出るんだから気にする必要もない。ただ受け入れればいいだけさ」  由水がニヤリと笑った。  その答えを聴いて俺は初めてそのアニメの台詞を理解した気がした。 「つまり、俺らは一生懸命やっている奴らから選べばいいんだな?」  平永の言葉に俺は頷いた。けれど、その一生懸命を見極めるのが難しい。正直、自信がない。 オーディションを頑張っている人はすぐに分かったから、判別できた。でも、そんなのは当たり前で、オーディションだけを頑張る人ではなくて、これからもそれ以上の頑張りを見せられる人を見つけたい。そして、その中からキャストを選びたいと思っている。 「とりあえずはこんな感じか」と由水がエントリーシートを手分ける。オーディション自体も頑張っていなかった人たちを落としたのだ。そこには声研やアニ研の者も含まれていた。前者は自尊心の塊で、一生懸命やることよりもその欲を満たすことを優先していたし、後者は義理で受けたようなもので、終始、受け身の態度だったからだ。それ以外にも、僅かながら他の学生が受けてはくれたものの、興味半分の冷やかしがほとんどだ。  結局、由水が手にしているシートの束は十枚にも満たなかった。  しかし、最低限必要なキャスト数は、男性2名と女性1名なので、それほど問題ではなかった。ガヤなどのことも含めて保険であと男女1名ずつ選抜できれば十分なのだ。  残った参加者の中には声研とアニ研から一名ずつ、他は演劇経験者がほとんどで、完全な初心者が一人いるだけだ。そしてそこに俺も加わる。公平性を期すため、男性キャストの選抜には俺は加わらない。けれど、男で残っているのはちょうど三名なので落ちることはないだろう。主役を含むメインキャストになれるかなれないか、だ。 「男は少ないから、最初に女性を決めてしまった方がいいのかな?」  確認するかのように問いかける平永。  俺はそこに拘りがなかったので頷きかけたが、由水が待ったをかけた。 「いや、男性キャストから決めた方がいい」 「? なんでだよ」 「声のバランスを考える必要があるだろ。最初に数が少ない男性の方で決めてしまった方が、女性キャストを選ぶときに声のバランスも考えることができる」 「なるほどね。でもさ、それだと女性の方がかわいそうじゃないか。声のバランスのせいで落ちることもあるってことだろ。女性の方を最初に選んじまえば落ちなくてすむ奴が出るかもしれない」  その平永の意見は最も、だ。となると声のバランスは考えないで決めた方がいいのだろうか。公平性を考えるとその方がいいような気もする。 けれど、迷う俺とは打って変わって答える由水に澱みはなかった。 「そうなるね。けど、それは仕方がない。運、不運もオーディションのうちと考えれば公平だろ」 「そうだけど・・それは俺たちの都合が押し付けてるんじゃない?」 「違うよ、サトセン。俺たちが押し付けているのは作品の都合さ。俺たちが創るアニメが一番、良い形になるための方法だよ。そのために俺たちは一生懸命になっている。・・だろ?」 「……」  少考してから、その答えを確かめるように平永は二度三度と頷いた。由水の答えは明確で、それでいてその大切なことを忘れそうになっていた俺を助けてくれた。  良いアニメにする。  それを最優先にして動くのだ。そして、そのためのオーディションのはずだ。公平性は大事だけど、それも良いキャストを選ぶためのものだ。そして、由水が言う声のバランスというものも大事だ。どんなに役に合っていると思っても、相手役とミスマッチしてしまえば魅力が半減する。そこも考えてキャストを決めるべきだと由水は言った。正直、そこまでの考えがなかった俺は恥じ入るしかない。  実は、俺は自分がメインキャストに選ばれるかどうか、不安だった。選ばれたいという気持ちは強いし、選ばれなかったら恥ずかしいとか悔しいと思っていた。それは今も変わらない。けれど、それは些細なことだと思えるようになっていた。 だって、一番大切なのは、俺たちのアニメが良いものになることだから。 そのために俺ができることをする。メインキャストをやることがそうなら嬉しいけど、キャストから外れることがあっても、その現実を受け入れることができる。だって、良いアニメができることが一番大切なんだから。 不思議と心が静かだ。これからその男性キャストを決めるというのに、不安はなく、純粋に楽しみだ。だって、良いアニメになるためのステップを順調に踏んでいるから。  キャストの選考は難航して、結局、全てのキャストが決まったのは夜更け過ぎだった。 そして、そのままプチ上げ(プチ打ち上げの略)へ。再び、二日酔いの悪夢に襲われたが、それでも楽しい飲みだったと思えた。 難航したのはやはり女性キャストだった。 それぞれが持つヒロイン像が違っていたのが大きな原因で、その他にもそれぞれの好みであったり、独自の判断基準が存在していた。それをすり合わせるために沢山話し合った。 揉めたのは一点だけ。一生懸命という基準だ。由水の意見と、俺と平永の意見が真っ二つに別れたのだ。 正直、それはショックだった。 「彼女に本当の一生懸命は期待できないと思うよ」と由水は言い切った。それに対して強く反対はできなかったものの、肯定することは決してなかった。心のどこかで彼女を信じていたから。夏休みを多く取ったのもきっとやるせない事情があるんだと思っていた。  結局は俺と平永の意見を通すこととなった。でも、それはごり押ししたわけではなく、他のキャストにもまた由水が推せる人材がいなかったためだ。 ・メインキャスト  男性役:知念 裕理(アニ研)     :佐井 道哉(テニス同好会)  女性役:島 美衣子(アニ研) ・サブキャスト  男性役:丹野 港(声研)  女性役:柊木 円加(演劇部)  俺たちが決めたそのキャスト情報は掲示板や連絡網などによって、関係者に行き渡った。  収録は9月初旬。今から三週間後だ。  俺は収録に向けての調整と簡単な作画作業に残りの夏休みを捧げる。大学の課題は力を使い切った残り滓で誤魔化す。  大変なのに楽しい。  その充実した感覚を俺は初めて持ったのかもしれない。  ここまでは順調に物事が進んでいる気がした。人が少なかった時期も由水と平永、そして微力ながら俺が頑張ることで深刻な遅れは発生しなかったし、人が戻ってきたことで再び、進行は通常に戻った。すでに遅れは取り戻せそうな勢いである。 それもこれも由水と平永の力が大きい。元々、能力が高かった二人の負担が減ったため、その力を最大限に発揮できる。つまり、二人じゃなくてもできる作業を他に振り、自分たちしかできない作業に没頭できる。それは俺も同じで、今は自分しかできない作業を持っている。すなわち、収録作業だ。といっても、今、やっているのは台本のチェックや清書、キャストのスケジュール管理や伝達など、ただの事務作業だ。それでもそれは収録の監督を任せられた俺しかできない仕事だった。 そして、ラッキーだと密かに思ったこともある。 収録作業の補佐として、島が割り振られたことだ。作画でも戦力となる彼女だから、それほど収録の作業を手伝ってもらうことはない。それでも二人だけの作業があることは事実だ。それが嬉しかった。これを公私混同と言うのだろう。そこに僅かな罪悪感を抱きながらも、俺は充実の夏休みを送っていた。・・あの日が来るまでは。  好事魔多し。  昔から、聞くその言葉を俺は初めて実感することとなった。  最初に問題が発覚したのは、作画側の方だった。  タブレットの一つが急死したのだ。 部の機材は三機のペンタブレットと複雑な作業やバックアップを兼ねたPCが一機で、部外へのデータ持ち出しは規則で禁止されていた。 フル稼働で酷使したこととこの連日の暑さ、そして老朽化の複合的な要素が原因だろうと由水は推測した。 が、問題はそこではない。作業途中だったデータが救出不可能と診断されたことで作業の遅れが確実となった。細かくバックアップを取らなかったことが原因だったけど、その責任者を決めておかなかったことが一番の要因だ。誰かがやるだろうと、そのタブレットを交代で使っていた俺たちはバックアップを怠ったのだ。簡単な作業を割り振られている俺がやるべきだったと反省してもそれは後の祭りだったし、誰もそれを責めることはなかった。みんなの責任だ、と由水が結論付ける。  そして、タブレットが一機失われたことで、更なる作業の遅れも約束されてしまった。すぐさま代替機を購入するも結局は時間とお金を余計に使ってしまっただけだ。そのしわ寄せは他にいくことになる。この場合は、収録作業の方に多く回ってきた。 「なんだよ、それ。無理じゃん」  初めに文句を口にしたのは丹野だ。彼はその前の顔合わせ&読み合わせのときにもあまり協力的な態度は見せなかった。たぶん、メインではなくサブに選ばれたことが気に入らないのだ。それでも出演したい気持ちが勝ったから我慢していたのだろう。そして、本稽古の今日、我慢する気がなくなったらしい。作画が遅れて、今日、映像に合わせての練習がほとんどできないという説明を聴いたところで噴出した不満だった。 「無理ではないんじゃないかな。キャラの絵はあるし、口パクの尺の時間だってある程度は分かってるし」 「けど、画に合わせないと分かんないじゃないか。今日はほとんどできた画に演技を合わせるための練習だろう」 「だから、今日は演技を重点的に稽古して、口パクは大体でいいよ。あと、一日、稽古の日があるから、そこでパクは合わせよう」 「だから、それが無理だって言ってんだよ。そんなのできるわけないじゃん」  できないことない、と言ってやりたかったけど、何とかその言葉を飲み込む。それは俺の感覚で他の人に強制してはいけないものだ。ただ、丹野は声研なのだからアテレコ技術を持ち合わせていてもおかしくない。それが余計に俺を苛立たせた。 「……じゃ、他にやりようがあるのか?」  我慢しつつも、俺の苛立ちが言葉の端から洩れていたのだろう。そういうところには敏感なのが丹野のような人間だ。俺もそこに属していたからよく分かる。  案の定、丹野はそこで完全にキレた。 「知るかよ! それは俺が考えることじゃないじゃん。予定の練習が出来なくなったツケをこっちに回すなよなぁ」  決して俺とは目を合わさず明後日の方向を向いて怒る丹野。  他人の意見に耳を貸す気がないその態度に俺は怒るのを忘れて呆れた。他のキャスト陣はじっと成り行きを見守っている。丹野の肩を持つ者がいないことに安堵した。 そして、俺は決意した。 「分かった」  自分でも驚くくらいフラットな声が出た。もう怒りはなかった。だって、相手はもう俺とは関係のない人だから。 「へえ、分かったんだ。何がどうしたんだよ?」  丹野は俺の変化に気づかないのか、変わらずキレ気味だ。当然かもしれない。他人の意見を聞かないということは、自分本位で他人を感じることができないということだから。その点だけを見ても、俺の決断は間違っていないような気がした。 「丹野君は出演できないってことだろ。仕方がない。残念だけど、ここでお別れです。お疲れさまでした」 「はあ!?」 「悪いけど稽古の邪魔だから早めに退出してください。ここを用意してくれた柊木さんに迷惑をかけないためにも時間厳守でいきたいので」  唯一、涼し気な顔で事の成り行きを見守っていた柊木は微笑みつつ小さく頷いた。納得がいかないのか、丹野は動こうとしない。 「……俺がいなくなってもいいのかよ」  丹野のその呟きが聞こえて、俺は吹き出しそうになるのを我慢するのに必死だった。はっきりと彼にいらないと告げた方がいいのだろうか。けれど、それで更に状況が悪化したら最悪だ。  良い作品にするためにはどうすればいいのか。  その原点を忘れてはいけない。ここで必要以上に揉めるのは避けた方が良いのだ。 「今までありがとう。一緒にやれないのは残念だけど仕方がないでしょ。残されたみんなで頑張るから心配しないで大丈夫だよ」  明るい口調でそう告げると、ようやく事態を飲み込んだのか、「あ、そう」と丹野は荷物をまとめはじめてくれた。 「じゃ、お疲れ」 「お疲れ様でした」と残された俺たちが丹野に答えた。何でもないことのように去っていく丹野。それが彼のプライドの保ち方なのだろう。荷物を片づけていたその手と身体が震えていたのには気づかないふりをした。  キャストが一人、減ったのは残念だけど、ストーリー上は問題ない。ガヤの関係が少し難しくなるだけだ。 良い声質を持っていても、一生懸命をはき違えている人とは一緒にやれない。本番前にそれが分かって、むしろ良かったのだ。  そのまま、俺たちは練習を再開する。  けれど、問題はまだ序の口で、最大の問題は次の最終稽古のときに起こった。  いつからその不満を抱えていたのだろうか。  俺はそのことに早く気づいてやることができなかった。 「…………私、降ります」  そう呟いて島は声を出さずに泣いた。  何度も同じシーンで彼女は躓いていた。それはパクに合わせる技術的なものではなくて、演技的なものだ。その大事なシーンで彼女は自分が演じる役ではなく、自分として喋る。それが役と喧嘩して違和感が生じていた。 それを拙いながらも言葉にして頑張って伝えたつもりだった。島もまた分かってくれていると思っていた。 それがいけなかったのか。 俺は調子に乗って更に強く駄目出ししてしまったのだ。良かれと思い、試しにもう一人の女性キャストである柊木にやってもらったのも島のプライドを傷つけたかもしれない。 柊木はパクに全然合わなかったが、演技としては違和感なくそのシーンを演じ切ってくれた。その手本を褒めちぎって俺は島にバトンを渡した。彼女は受け取ることなく、それを拒んだ。 一瞬、島が何を言ったのか、分からなかった。理解したくなかった。 けど、その小さな瞳から流れる不釣り合いな大きな涙の粒を見て、俺は彼女を傷つけたことを知った。 「どうしようっか……?」  キャストで唯一の演技初心者である佐井が場に不釣り合いな明るい声を出した。大したことじゃないよ、と励まされている気がして少しだけ心が楽になる。冷静さをほんの少し取り戻した俺はこの場を収拾する役目が自分にあることに気づく。  どうすればいいのか。  佐井と同じ言葉を吐きたくなったが、それは彼とは違って弱音となるのが分かったから何とか堪えた。  単純な解決策としては、島を役から降ろすという答えがある。柊木をヒロインにして、島をサブに回す。島がキャスト自体を拒む可能性もあったが、そうなったら仕方がない。サブキャストの台詞を最大限まで削り、他の部員にお願いするだけだ。  それは現時点では妥当な判断かもしれない。前回は丹野にその解決策を適用した。今回は島にそれを適用するだけのことだ。  けれども、俺はそれを選びたくなかった。  多分、私情が入っているせいだ。でも、その私情があってこその俺という存在なのだから、分けて考えることは難しすぎた。  このアニメを良いモノにするための最善の選択は何か。  俺の核となるその想いに頼っても、答えは見つからない。ただ、ここで島を切ることだけはしなくないという強い想いだけがある。でも、その素直な気持ちを口にするには憚られて俺は沈黙するしかなかった。 「……島ちゃんはどうしたいの?」  柊木が静かに尋ねる。その口調は島を責めてもいないし、慰めるものでもない。それでいて冷たくはなく、温か過ぎもしなかった。この場で俺よりいっこ下の最年少でありながら、年長者の風格を醸し出している。 「…………どうしたいって?」 「役から降りたいって言っていたけど、それは何のため?」 「!? ……」 「厳しい駄目出しから逃げ出すため? 面白くないことはやりたくないから? もっとチヤホヤされたいの?」 「そんなんじゃないっ!!!」  島の怒声が稽古場に響き渡る。その鬼のような叫びに思わず耳を塞ぎたくなる。目も背けたかった。だって、こんな島を俺は知らない。見たくもない。それでも、まだ彼女への想いが残っているから、目を逸らさなかった。 「・・あんたの方が私より上手にやれるんだから、あんたがヒロインをやればいいって言っただけよ! 私が降りた方が知念だってそうしやすいって思ったの」  その血走った目を俺に向ける島。涙が浮かぶその細目を見て、俺は無性に悲しかった。ネンネンと呼ばなかったな、と場違いな寂しさもそこに交じる。  もう、島を役から降ろすしかないのだろうか。  彼女自身がそう望むのだから、そうするしかないと思った。でも、この期に及んでも俺はそれを口にすることができない。 「じゃあさ、一度、役を交換してやってみようか?」  そう提案したのは佐井だ。頼りない責任者の俺の代わりをしてくれたのだ。その軽い口調はやっぱり俺を助けてくれている気がした。  そこに甘えてしまいたかった。それが最善だと思ったし、簡単だと分かっていた。  けれど、俺の口から出たのは正反対の言葉だった。 「俺は反対だ」 「! ・・どうして?」  当然、賛成されるものと思っていたのだろう。その予想を覆されて佐井が驚きを見せる。それでも問い詰める感じではなく、あくまで冷静に理由を求めた。  理由なんて、俺が聞きたいぐらいだ。  その本音は心の奥にしまって、俺は一生懸命に考える。どうして俺は反対なんて言葉を口にしたのか。やっぱり、島への想いがそうさせたのだろうか。  それは間違いじゃないと思うけど正解でもない気がする。  なら、答えはなんなのか。  分からないままだけれど、心のどこかでその尻尾を掴んだ気がした。それを引きずり出すようにして俺は言葉にしていく。 「このアニメを良いものにするために・・そのために俺はできることをする。それが島の気に障ったなら謝る」  俺の言葉にその面持ちを沈めたまま、島は微動だにしない。もうトミーと呼べなかったことが少し辛かった。それでも俺の言葉が届いていることを願って更に想いを言葉にする。 「・・島が言った通り、ヒロインを変更することで良い作品になるならするべきだと思う。でも、そうは思えない。柊木さんが駄目なわけじゃなくて、このヒロインはやっぱり島の声が合っていると思うんだ。だから配役を変更することは反対だ。どうしようもなくなれば、そうしないといけないと思うし、決断もするよ。でも、今はまだそんな段階じゃなくて、良いアニメにするためにみんなで頑張るときだと思うんだ。・・どうだろう?」  最後の問いかけはみんなに向けたものだったけど、気持ちのほとんどは島に向かっていた。  想いは届いただろうか。  三人が固唾を飲んで見守る中、しばらくして島は、小さく、ほんのちょっとだけど頷いた。 「…………ごめん。・・私、頑張る」  明らかに無理をした笑いを島が浮かべる。  佐井と柊木が快く迎える。俺も同じように歓迎したけど、心のどこかがどうしようもなく、冷めていることに気づく。 それは島との深い溝のようなものか。かつてない距離感を彼女との間に感じていた。  最後の稽古が無事(?)終了した。  ハプニングはあったものの、それでも予定通り、画に合わせて演技ができるようになったことは勿論、演技自体も最初と比べれば見間違えるほどになっていた。  最後の練習を終えたキャスト陣は、そのまま激励会という名のプチ上げに移行していた。  小さな居酒屋で俺たち4人は安いツマミで飲みつつ、稽古の話しを肴に盛り上がっていった。 「いやあ、演技って面白いねぇ」  佐井が屈託なく笑いながらそういうとジョッキを呷る。顔は真っ赤だけど、呂律はしっかりしている。いかにもスポーツマンという精悍な体に不釣り合いな優しい面持ちを持っている。異性問わず、モテるタイプで正直、羨ましい。 「私も声だけの演技って初めてでしたけど面白かったです」  両手でグラスを持ちながら、柊木が話に乗った。稽古場とは違ってお酒の席ではとても可愛らしく、年相応の姿を見せていた。どっちが本来の柊木なのか、分かりかねる。女って分からない。  俺はみんなの話に耳を傾けながら、心は違うところへ飛びそうになっていた。それは島のことだけど、あのハプニングのことではない。その後の稽古に関わることだ。結局、満足いく稽古ができないまま、終わってしまった。何を言っても島は「はい」と答えるだけで演技が変化することはなかった。そして俺は諦めてしまった。仕方がない、と思いつつも、他にやりようがあったんじゃないかと考え込みそうになる。それはもしかしたら、という思いがあるからだ。  もしかしたら、俺は間違ったんじゃないだろうか。  もしかしたら、配役は変更した方が上手くいったんじゃないだろうか。  もしかしたら、俺は私情に流されただけなんじゃないだろうか……。 「どうしたの、怖い顔して?」  佐井の問いかけに俺の飛びそうになった意識が舞い戻る。何でもないよ、と笑って見せた。 「・・ちょっと疲れたかな」 「いや、お疲れ様です。演技もしながら演出もしたんだから、そりゃ疲れるでしょ」 「どっちも中途半端になってそうで怖いよ。大丈夫だったかな」 「だいじょぶ、だいじょぶ」  どっかのお笑い芸人のように節をつけて佐井が答える。それは俺が抱いていた不安を少しだけ軽くしてくれた。例え、社交辞令が交ざっていたとしても、弱っている今の俺にはよく効く薬だ。 「知念さんの演出は分かりやすくて私は好きですよ」 「え、あ、ありがとう……」  告白されたわけじゃないのに、女性から好きと言われて、免疫がない俺は真っ赤になる。慌ててお酒を飲んでそれを誤魔化した。 「僕は演技がこれが初めてで比べられないけど、初心者の僕でも分かりやすいと思った。でも、それに応えられるかどうかは別だけど」 「応えてたよ。上手くてびっくりした」  それはお世辞も入っていたけど、俺の本心でもあった。佐井の自然な演技は、その持ち前の声質の良さもあって、正直、主役である俺を食っていた。実は、それを悔しく思っている。本番までにはもっと対抗できるように頑張ろうと思う自分がいた。と同時に嬉しく思う自分もいる。良い作品になる大切な要素だから。 「だとしたら演出のおかげさ。何度も苦労かけてごめんよ」 「んなことないよ」  そういって俺と佐井が笑い合った。 「私もごめんなさい……」とグラスを置いて島が言った。軽い調子で言おうとしたけど、その重さは拭えない。それはそのまま、彼女の心の重さでもある。それが俺にはよく分かった。 もしかしたら、俺と島は似ているのかもしれない。 自分が好きで、自分が嫌いで、そこから抜け出せなくてもがきながらも、そんな自分のまま認められたいとも思っている。それはちょっと前までの俺の姿だ。 「・・今日は色々と迷惑をおかけしてしまって」と島が頭を下げる。その改まって口調にわざとらしさを感じる。勿論、そんなことを指摘するつもりは毛頭ない。 「そんなことないよ」  白々しくも答える。どうしてもっと上手く誤魔化すことができないんだろう。自分の不器用さに腹を立てつつももう一度だけ「うん、そんなことない」と重ねた。 「私がもっと演技が上手ければ良かったんだけど……」  俯く島。  それは本音が漏れたというより、否定して貰いたい心の現れに見えた。少なくとも俺はそう感じてしまった。それにどう上手く答えるか迷っていたら、助け船が出てくれた。 「そんなこと言ったら僕だってそうだよ。この中では僕が一番下手で迷惑をかけた」 「私だってそうです。舞台演技と声優演技の違いになかなか気づけなくて、迷惑をかけましたし、演技だって褒められるほどではないですよ」 「ううん」と大きく首を振る島。オーバーリアクションに見えてしまって俺はやっぱりその会話に入ることを躊躇してしまう。そんな俺に気づかずに島は言葉を続けた。 「・・佐井さんはとても良い声で自然な演技になったし、円加ちゃんは演技の基礎がしっかりしてとても上手だもの。私は駄目だね。ちゃんと演技の勉強をしたことないから」 「そんなことないと思うけどね」と佐井がそこで会話を切る。目が俺に意見を求めていた。  多分、同じように、そんなことない、と答えるのが正解だ。でも、俺はそれを口にすることができなくて、微妙な笑顔を浮かべるのがやっとだ。  島が能面のような表情で俺を見ているのが分かった。その細目も手伝って表情に乏しい彼女だったけど、怒っているのが分かる。演技そのものを気にするようになってから、感じる力が強くなった感覚がある。元々持っていて忘れていたものを取り戻したと言った方が正確か。  今、島からとても硬質で鈍く重いものを感じていた。それでいて、おそらくそれは脆い。それを壊してしまいたい欲求に駆られる。でも、それは俺の勝手な想いでしかないから、距離を置くことしかできない。勿論、島の方にも距離を縮める意識はないのだから、離れることはあっても近づくことはない。 ――!?  その事実に唐突に気づいて、心が張り裂けそうになる。春先のオーディションのときに感じた絶望にも似た感覚に襲われていた。  それを忘れるようにして俺は身体に酒という薬を入れる。副作用の二日酔いが怖いけど、今は心を鈍化させたかった。 他愛もない、それでいて楽しいお喋り。俺たちのプチ上げは絆を深めることに成功した。 たった一点の関係性を除いて。  一難去ってまた一難。  今の状況をその言葉に当てはめるのはちょっと違うか。  色々とあったものの、俺が任せられた収録の作業は本番当日を残すのみとなった。端役やガヤは由水にお願いして他の部員らにお手伝いしてもらえることとなっている。 とりあえずは難が去ったが、次の難が押しかけてくる。作画作業の締め切りラッシュだ。 すでにスケジュールに余裕はなく、遅れている締め切りをどれだけ縮めていけるのかの勝負となっていた。俺にもできる簡単な作業もたくさんあって、うんざりするが嬉しい。みんなが忙しい中、暇を持て余すのは罪悪感に悩まされるだけだから。 そんなギリギリの作業を続けていく中で、不思議な連帯感が生まれていくのを感じる。それは夏休み序盤の由水ら三人での作業のときにも感じた。あれよりも薄い気はするけど、確かに俺たちはチームとしてまとまりを見せていた。小さな不満がそこらに噴き出したりするけど、その都度、誤魔化したり、流したり、時にはちゃんと解決したりして、ひたすら描き続ける。 ようやく終わりというゴールが見えてきて、みんなの雰囲気が少し緩む。それはどうしようもない。そのせいではないと思うけど、アニ研内で再び、トラブルが発生した。 夏風邪の蔓延だ。 症状は発熱と喉の痛みというベタ―なもので、だからこそ甘く見たのかもしれない。誰が持ってきたか分からないその夏風邪は気づいたら大半の部員に感染していた。初期症状であれば作画作業に支障がなかったのが災いした格好だ。ゴールが見えたせいもあるかもしれない。ほんの少し頑張ってしまったことで、取り返しのつかない事態に陥っていた。 目に見えて制作スピードが落ちている。当然だ。重症者は家でじっと寝ていることしかできない。そこから大体、三日で戻ってくるが、その三日がこの状況では致命的な遅れとなる。俺をはじめとしたまだ風邪を貰っていない数名は最新の注意を払いながら作業を続けていた。が、同じ部屋でずっと一緒なのだから、どれだけ予防が有効なのかも分からない。できるのはマスクをして、うがい手洗いを徹底することだけだ。それとできるだけ口を開かない、つまり会話を控えることだ。 俺と同じように島もまた風邪にかかっていなかった。当然、かかっていないグループが集まって作業をする。あの日から、よそよそしい会話しか二人の間にはない。それを避ける口実があることだけが不幸中の幸いだった。喋らないことも風邪の予防の一つだから。 そして、とうとう恐れていた事態が発生した。 由水が罹患したのだ。これで風邪にかかっていないのは俺と島だけになった。 アニ研の要である由水を失い、あっさりとチームは瓦解した。ギスギスとした空気が蔓延する。それは風邪菌よりも厄介なものだ。マスクも手洗いも通用せず、特効薬もない。初めの方に離脱済みですでに平永が復帰していたから、チームは空中分解せずに済んだようなものだ。平永が懸命だったのは、由水が戻ってくるまでの間、風邪をひいている者を初期段階であっても休ませたことと、他の者たちにも無理をさせなかったことだ。 そして、平永はもう一つ、大きな判断を下した。 一週間を切っていた収録日の作画締め切りを無視する、というものだ。事前に相談を受けた俺は驚きはしたものの、反対はしなかった。島も仕方なさそうに了承した。それしか、方法が見当たらなかったからだ。進捗状況の遅れはもっと長いスパンを見て取り戻す、と平永は言った。ここで収録に合わせるのは得策ではないとも。 今まで収録で使う口パクがあるシーンを優先的に制作していた。収録日までには該当するシーンは完成させる予定だったが、そこに拘る状況ではなくなったのだ。 「体調管理はくれぐれも気を付けてな」  島の方に向かって平永が言う。それは俺に向けた言葉でもあったのだけど、平永の気持ちのほとんどは島に向かっていることに気づいた。  もしかしたら、という疑念が湧くが、それには急遽、蓋をする。今はそんなことを考えている暇はない。それに島との距離は離れたままなのだ。  良いアニメにするために最善を尽くす。  その原点を再び、胸に刻んで俺はふらつきそうになる心を叱咤した。  が、それは無駄となる。 「…………風邪、ひいちゃったよう……」  小さな声でそう呟いて、島はせき込む。その小さな肩を両手で掴んで励ましているのは平永だ。 「仕方がないよ。 ・・今日は帰ってよく休みな」 「でも作業が……」 「大丈夫。今までトミーは頑張ってくれたんだから、その分、休みな。誰も君を責めないよ」  俺には真似ができないような慰めの言葉を聴いて、島はこくんと頷いた。 「・・ごめんね」  俺の方を向いて島が顔を伏せた。その謝罪の言葉の意味は分かっていたけど、俺は頷くことも首を振ることもできずにぎこちなく笑うしかできなかった。気の利いた言葉なんて一つも絞り出すことができない。 「収録までにはよくなっているよ」  俺の代わりに平永が根拠のない励ましを口にする。けれど、俺が口にできたかったそれは島の胸には響いたのか、少しだけ嬉しそうに微笑む。それを誤魔化すように二度三度と咳をして、平永に気遣われながら島が部室を後にした。  どす黒い感情が胸に蠢く。  自分にこんな気持ちがあったのかという驚きよりも、制御できない心が気持ち悪い。それが何を意味するか分かる気がしたけど、分かりたくもない。一刻も早くここを抜け出して大声で叫びたかった。この感情を吐き出したかった。  そんな自分の状況に気づかれたくなかった。何とか堪えて時間を置く。そうして、俺は大事を取るという言い訳をして部室を後にした。  平永は気遣う素振りをみせてはくれたけど、島に向けたものとは雲泥の差がある。明らかに扱いが軽い。それは男と女の差かもしれない。そう思いつつも、そうじゃないと確信していた。  もう、持ちそうにない。  そんな確信があった俺は、大学を出るとそのまま電車に乗ることもなく、駅前のカラオケ屋に駆けこんだ。案内された部屋にたどり着くなり、バッグを壁に投げつける。そして、そのまま吠えた。 「うあああああっ、おおおううううおおおおっっっ……! ぁあああーー!!!」  初めての下手な慟哭。  誰に聞かせるわけでもないからどうでもいい。ただ、今は全てを吐き出したかった。胸につかえるこのどす黒い何かを。 「・・ぅうう・・おおおおおぅぅぅ……」  息の続く限り、想いを吐き出す。 そして新しい空気を吸って、また吐き出す。それを何度か繰り返せば、俺の心は綺麗になるのだろうか。 そんな幻想に頼るようにして俺はただただ叫び続けた。声が枯れても、涙が出なくても、心が何も感じなくなっても……。  そして、三日後の本番収録を迎えた。  本番の収録は外部のスタジオを借りて行う。  ネットの海からようやく探し出したその場所は、値段の割に設備が整っているし、アフレコ収録の実績も少なかったがあった。そこを何とか3時間押さえることができたのだ。その限られた時間の中で俺たちは全ての収録を終わらせなければいけない。  今まで色々なことがあった。けれど、それは取るに足らないことで大したことはない気もする。俺の頭の中は自分でも意外なほど静かだった。 今日のアフレコにただ集中する。それが良いものを作るために、俺ができる唯一の手段だ。  初めてのスタジオということもあって、みんな緊張していた。それは俺も同じだ。マイク前テストのときの声が震えてしまった。だから、本番前のラステス(ラストのテスト)のときにまたマイクテストを繰り返すようなことをしてしまう。声の出方が違ったためだ。全員が全員同じ失敗をしたし、台詞をトチることさえもあった。 場の空気が沈み込むのを感じる。それを俺は何とかしたかった。 そう思えるのはきっと成長したからだ。以前の自分だったらみんなと同じように沈むだけだ。もしかしたら責任ある立場が俺をそうさせるのか。 「ようやくエンジンがかかってきたんじゃないかな」  俺の冗談めいた口調に佐井が「そうだね」と乗ってくれた。 「私も慣れてきたみたい」  落ち着いた笑みを柊木が浮かべる。 「すみません。中々声が出なくて」と島が謝るが俺はそれに笑顔で応えることができた。 「大丈夫、俺もそうだから。でも、マイクテストをやり直したってことはテストのときより、声が出るようになったってことじゃない? いける、いける。ここから仕切り直して張り切っていこう」  自分でも上出来に思えた俺の言葉にみんなの返事が重なる。雰囲気が少しだけ明るくなった気がした。  最初の30分を無駄にしたのは痛いけど、調子が上がったのなら安いものだ。俺の声もいつもより2割増しで出るようになった気がする。その要因は分かっている。カラオケ屋で限界を超えたからだ。それが新しい限界を作り出して、俺の声は更に良い響きを持つようになった。それはたぶん声だけじゃなくて、心もそうだ。 そして気づいたことがある。 限界を超えて、新しい自分を創り出す。その繰り返しが魅力となるのではないか、と。 その先にプロという世界がある。そう思えたから、俺はこの短い期間で立ち直ることができた。  仕切り直しのラステスを終えて、軽い打ち合わせの後、本番の収録へ。 この頃になり、端役とガヤをお願いした部員たちがスタジオ入りをし始めた。そこには復帰したばかりの由水の姿もある。ブースの中の俺たちは挨拶を後回しにして本番の収録へ。ここで一呼吸置くと調子が崩れる怖れがあるからだ。良い流れのまま、収録してしまいたかった。  ブース内のディスプレイに俺たちが作画した未完成アニメの映像が流される。口パクの部分が完成しているのは半分ぐらいで、その他のシーンについては色分けした大きな丸を表示させることで大体の尺を教える。少々のズレは作画の時点で調整するので問題ない。  パクに合わせた収録というのは、未経験の人が想像しているそれとはちょっと違う。俺も声優の勉強をするまでは間違って覚えていた。口パクがはじまったと同時に台詞を始めて、口パクが終わると同時に台詞を終える。そう思っていたが、実際は違った。ほんの少しだけ口バクより遅れて台詞をはじめて、口パクが終わってほんの少しだけ後に台詞が終わる。それを全てのキャストがすることで、全体の音源を少し前に上げればピタッと合う、というのが現在のアフレコの主流だった。  プロの現場であればそこにマイクワーク(数本のマイクを数人で使い分ける技術で、シーンによってマイク間を移動する)という技術が必要となるが、俺たちはそれぞれの固定マイクを用意してもらうことで回避した。メインキャストが少ないからできる強みだ。  本番の収録が順調に進んでいく。中でも佐井の演技が光る。本番に強いタイプなのか。それに加えて初心者特有の上り調子というものもあるのかもしれない。俺だってまだ伸び盛りだと心の中で吠えて、食らいつく。柊木は持ち前の安定感のある演技を披露して、安心感を与えてくれる。・・島だけが一人、そこから取り残されていた。  テストのときから、島が浮いているように感じていた。でも、それをどうすることもできなくて、俺は放置した。だって、自分の演技で精一杯だから。  最初の収録を終えて、そのテイクをみんなで聞き返す。 収録中に感じていた俺の感覚は間違っていなかった。島が演じるヒロインだけが悪目立ちしていた。 「ごめんなさい。まだ声の調子が良くないみたい」  ゴホゴホッと軽い咳を付け足して島が言い訳をした。  そう。言い訳だ。体調管理は自己責任だし、何より、俺が感じている演技の違和感は声云々の話ではない。 「おお! 良い感じだね」 「!?」 「OKですかね、監督?」といつもの薄い笑みを浮かべて由水が言った。他の部員たちもプレイバックされた音源を一緒に聴いていた。由水の言葉に他の部員たちも頷いている。  そう、聴こえたのか。その事実に俺は愕然とした。  島をはじめとして、キャスト陣が労いの言葉を受けているのは、そういうことなのだろう。 「……監督はやめてください」  自分でも疲れた声が出ているのが分かった。それでも今はその感覚に身を任せては駄目だ。全力でその疲れを拒否する。まだ収録は続くのだから。  メインの細かい直しを少しだけやって、端役の収録、そしてガヤ録りへ。  意外にも初心者揃いの端役の収録は滞りなく終わった。 代わりに手間取ったのはガヤ録りだった。簡単だろうと甘く見ていたのが誤算に繋がった。 全て、俺の責任だ。マイク前に部員たちを並べてその後ろにキャスト陣が並ぶ。こうすることでメイン役の声が紛れても分からなくなる。 しかし、歓声を録るにしても、初心者がただ歓声を上げろと言われても難しい。状況を説明してもそこに思い切って飛び込むことなどできない。だって、俺がやっても上手くできる自信がないぐらいなのだ。それを初心者に求めるのは酷な話だ。  結局、一番収録にてこずったのはこのガヤ録りで、後ろのキャスト陣で盛り上げて、途中から入ってきてもらうことで何とか対応することができた。  収録が終わったのはレンタル時間ギリギリで、音の調整は自分たちでやることにした。  それでも、後悔はない収録になった。満足はできないけど、最善を尽くせた気がした。 たぶん、それは全力を尽くせたから。一生懸命やれたから。それは俺だけじゃなくて、他のみんなも同じだ。頑張れば頑張った分、今日いう日を素敵なものにできたのだ。  そんなロマンチックな思考を楽しみながら、俺はその後のプチ上げを大いに堪能した。  収録作業という大きな肩の荷が降りた俺だったけど、気を抜く暇はなかった。  作画作業が残っていたし、音声の作業もまだ残っていたからだ。でも、時間に追われることもなく楽しんでできる作業だった。特に音声作業はフリーのソフトを使って、一から始める。新しい作業は新鮮で楽しかった。音声を扱うということは声優という分野に近く、勉強になることも多々あった。  こうして、俺たちの夏休みは終わりを迎えようとしていた。  それは、俺たちのオリジナルアニメーションの完成を意味する。 タイトル『蒼穹』。副題はみんなで話し合って『青い空を求めて』に決まった。蒼穹と重なるという意見があったけど、俺たちの夏空が・・恥ずかしい言葉を使えば、青春がそこにある、という夏に負けない熱い意見が通った形だ。 けれど、その熱さだけじゃ、どうにもならない問題があった。 時間だ。 目標としていた9月末という締切まで残り一週間を切った。予定ではほぼ完成していて部内で試写会の準備をしている頃だ・・が、現実はそこからはほど遠い。もっと前の地点で俺たちはもがいていた。 描けば描くほど、締め切りに間に合わない現実に近づく。それが焦りとなって心を消耗させていた。作画の部門では大した戦力にならない俺は、自分の作業がないときはすでに完成している音声を色々いじることでその空気に耐えていた。おかげで音声の完成度はかなり上がっていた。調整でスタジオ時間を使わなくて良かったと思えるぐらいに。  9月末じゃないといけないのだろうか。  その疑問を口にすることは憚れる。何となく言ってはいけない言葉な気がした。今、ぎりぎりで耐えている堤防が堰を壊して流れてしまうようなものだろうか。堤防は緊張感で、流れていく水は大切な何かな気がする。  だから「9月末じゃなくてもいいんじゃない?」という疑問が部室で聴こえたとき、俺は複雑な気持ちになった。苛立ちや悔しさ、そして安堵とその感情に対する自己嫌悪。その気持ちをぶつけることがなかったのは、それを口にしたのが平永だったからだ。 「……それはどういう意味かな?」  由水がいつもの薄い笑みを浮かべる。けれどその薄さが本当に薄すぎて俺を不安にさせた。 「このままじゃ、作業が間に合いそうにない。間に合わせたところで作品の質が落ちたら意味がないだろ」 「それはその通りだね。でも、作品は完成させないと意味がない。そして、僕たちのアニメが完成するのは9月末と決めたはずだ」 「状況が変わったんだよ。色々、トラブルがあったんだから仕方がない。完成延期なんてプロの世界でも珍しくないんだ。アマチュアの俺たちだったら当然だって考えもある」 「……」  由水の顔から薄い笑みは消えて、その下に隠れていた本当の顔が姿を見せていた。すとんと表情が消えて何も漏れてこない。心の動きが全く見えなかった。 「……私もサトセンに賛成です。もう充分頑張ったと思うんです。10月に完成させても問題ないんじゃないでしょうか?」  その島の言葉に他の部員たちも消極的な賛成の態度を見せる。 確かに彼らの言葉は理に敵っている気がした。こんなヨレヨレになりながらギリギリのところで作品創りをしても良いモノにはならない気がする。ここで一休みして態勢を立て直せばもっと良いモノができるかもしれない。少なくとも筋は通っている。 ――…………本当にそうか……?  その疑問が心に真ん中に湧く。到底、無視はできそうにない。  島の言葉にひどく、引っかかっている部分がある。それは何か。・・締め切りのことではない。  島は『充分頑張った』と言った。  本当にそうだろうか。  頑張っていないとは思わない。でも充分頑張ったとも俺は思えない。もっと頑張れたとどこかで思ってしまう。それが悔しくてもっと頑張ろうと思える。次にいける。  自分の頑張りを自分で評価して満足する。そこが許せない。  そのことに気づいて、どうして収録のとき、島の声だけが浮いて聞こえたのか分かった気がした。  収録ではみんな頑張った。もっと頑張ろうと一生懸命だった。島だけが自分自身で決めた頑張りしかしなかった。もっと頑張ることをしなかった。自分だけが思う一生懸命だったのだ。だから、自分という枠から外れることがなく、役に入ることができなかった。 その自分という枠が通用すれば問題ない。でも、未熟な俺たちが自分で決めた限界が通用するわけがない。通用する人たちはきっと天才と呼ばれる人だ。天才ではない俺たちはその限界を壊して新しい限界を手に入れる。それを繰り返して天才に追いつき追い越す。  それが、俺が手に入れた答えだ。  みんなと共有したい想いだ。  でも、それは否定された。大切だと思っていた仲間に・・好きだと思っていたあの子に。  それを『仕方ない』の一言で片づけられるほど俺は達観できない。 「……10月に完成させられる保証はどこにあるの?」  押し黙っていた由水が静かに問いかけた。薄い笑みは未だ戻らない。 「保証って・・」と口ごもる島の代わりに平永が「大丈夫だ」と答えた。 「何が大丈夫なんだい?」 「あのなあ、この時点で9割形作品は完成している。一か月もあれば余裕だろ」 「本当にそう思うのかい?」 静かにそれでいて強く問いかける由水に「ああ」と負けない強さを込めて応じる平永。 それきり、場が沈黙した。  すでに誰も作業している者はなく、その成り行きをじっと見つめていた。 「…………分かった……」  由水の口元にいつもの薄い笑みが舞い戻る。でも、俺の不安は消えることなく強くなった。悪い予感がする。そして、それはすぐに的中した。 「・・サトセンの意見に賛成する者は今月いっぱい休んでくれ。来月の完成を目指してくれていい。今月の賛成に拘る者は僕と共に残ってくれ。・・どうぞ」と誰に向けるわけでもなく、右手を差し出す由水。  真っ先に平永がそれに従い、部室を後にする。それに島が続いた。他の部員も名残惜しさを見せたものの、最後になっては堪らないと次々に部室を後にする。  結局、10分とかからないまま、部室は俺と由水を残すだけとなった。 「・・行かないの?」  由水の言葉に俺は首を振る。 「行きませんよ。だって良い作品を創るためには頑張るしかないって言ったじゃないですか」 「ほう」 「ここで休んだって良い作品はできないと思うんです。だって頑張ってないから。一生懸命やることは誰でもできることだから、そこで負けなくはないんです」 「……はははっ」  珍しく歯を出して笑う由水。  その笑いの意味を計りかねて俺は首を捻った。  由水は笑い終えると晴れ晴れと言った。 「・・負けちまったな」と。  俺はそれを肯定することも否定することもできなかった。 「・・大体よぅ、どうして来月できるって思うんだよ。来月は来月で、大学ははじまるし、そうしたら他の部員たちも戻ってきて、作業なんか進まないに決まってるじゃないか」 「そうですね」 「だろぅ! なのに目先の楽に負けて、それに最もな言い訳を見繕ってよ。そんな奴に何言っても無駄さ」 「そうですね」と繰り言に同じ相槌を返す。  由水のマンションで俺は由水とサシで飲んでいた。最初は冷静に話し合っていたのだけれど、早々に由水は酒に呑まれてしまった。乗り遅れた俺は酔いに任せることもできなく、変に冷静さを持ち合わせたまま、酔っぱらうこととなった。 「だぁから、あの収録のときも、あそこでOKサインを出したのさ」 「? ・・あ、島のことですか」と俺は収録のとき、一早く由水が褒め称えたことを思い出した。あの時、俺は島の演技に不満を覚えていた。 「そうだよ。何度やっても無駄だと僕には分かったからね。それに悪い出来ではなかった。良くはないというだけで大きな問題があったわけじゃない」 「でも、もっと良くなると思ったんですが・・」 「分かるよ。でも、あの子じゃ無理だ」 「! ……」  反射的に反論が喉から飛び出し掛ける。でも、それを飲み込む冷静さが俺の心に芽生えていた。  島は頑張れない人なのだ。  それを俺は見誤った。たぶん、私情が入ったせいだ。しかも、その気持ちは俺が勝手に作った幻想だった。だって、俺は頑張る島が好きだったから。そんな島はどこにも存在しない。 「悔しくはないのか、ユーキ」 「! ・・それは・・悔しいに決まってます」  たぶん、由水は違う意味で聞いたのだろう。でも、俺はこの気持ちを言葉にして吐き出したかったからそれを利用した。 「僕も悔しい! 後、もう少しで僕たちのアニメは完成したんだ。なのに、みんなはそれよりも目の前の楽に目が眩んだ」 「仕方がないって言ってたじゃないですか」 「そうだよ。仕方がないよ。でもな、それとは別問題だ。悔しいって思うのは仕方がないんだよ」  由水の言い分は分かる気がして俺は小さく頷いた。そうだ。悔しいのは・・悲しいのは仕方がないじゃないか。 「・・他の奴らにとって、アニメを創るってのはそれぐらいの価値しかないってことだ。僕ぁそれが悔しいっ!」 「俺も悔しいです!」  そう言い合って、何本目になるか分からない缶ビールを呷る。すでに時間は深夜。夕方過ぎには飲み始めていたから相当な量を俺たちは消費していた。そこかしこに空き缶とつまみの残骸が散乱している。 「・・けど、来月には仕上がるかもしれないんですし、そんな気落ちすることないんじゃないですか?」  気を取り直そうと明るい調子で言う俺に「……本当にそう思うの?」と座った目で由水が問う。薄い笑みは張り付いたままだ。  俺は、アニメが完成しないって言うのは由水が悲観し過ぎていると思っていた。何だかんだ言ってもここまで仕上げた作品がそのままになるなんてことはないと思えた。あとちょっと頑張れば俺たちのアニメは完成する。 「はい」と頷く俺を由水は笑った。そこには馬鹿にした笑いではなく、仕方がない後輩を見るような包容力がある。 「まだ信じてるんだな」 「へ!?」  それは島のことを指している気がして俺は動揺した。由水はどこまで見抜いているのか。分かっているのは俺の気持ちを知っていたとしても知らないふりをする優しさを由水が持っているということだけだ。 「いいんだよ。そこがユーキの良いとこさ。ただ傷つくのを見るのも忍びないから、予言しといてやるよ」 「予言・・ですか?」  思わず鼻で笑いそうになった。それを我慢する俺を尻目に由水はその予言を告げる。 「来月に限らず、作品は仕上がらない。そしてアニ研は統合されて僕たちの居場所はなくなるのさ」 「! ……」  正直、信じられなかった。  理由を問い詰めても由水はそれ以上、語らず、「すぐに分かる」と言って酔い潰れるまで飲むだけだった。更に酔えなくなった俺はその答えのない悩みを抱えたまま、味のしない缶ビールを呷った。  由水の予言は当たった。  結局、俺たちの夏休みはアニメを完成させることなく、終わった。そして、それは10月になっても変わらなかった。  由水の予言通り、アニメを観る側たちの部員が戻ってくるとそれに流される形で作品創りは滞った。低いところに水が流れるという意味を俺は身を以って知ったのだ。 俺自身、頑張る力が減ったのは確かだ。納期の延期が確定して気が抜けたところでとうとう夏風邪にかかってしまったせいもある。が、言い訳にはならない。例え一週間、作業ができなくても時間はあったのだから。  アニメが完成しない。つまり、実績を残せない。  それは即ち、アニ研が統合されることを意味する。  アニ研に限らず、大学で乱立していたグループはカテゴリーごとに統合される。年内にほとんど整理・仕分けされ、来年度からは新体制となる。それをモデルタイプとして更なる統合もされる予定だ。  10月に作品が仕上がらなかったことで、アニ研は存続の危機に立たされた。  創る側たちの部員が騒ぎ始めるが、その声を集めることも拾うことも誰もできない。それをできる唯一の存在である部長の由水が何のアクションも起こさないからだ。それを快く思っていない部員も少なくない。そのこと自体に俺は驚いていた。 由水がアニ研を見限ったと思わないのだろうか。  この期に及んで、由水を頼るのだ。あの夏に、頑張ろうといった由水を見捨てたのは彼らなのに、自分たちが見捨てられるとは思っていない。それが彼らの在り方だ。  そこに島と平永が含まれているのが、俺は悲しくて、悔しかった。 「・・このままじゃ、アニメができないですよ」  秋の陰りがある日差しが部室に差していた。その光りが島の陰をやけにはっきり見せていた気がした。不満を吐き出した彼女と思いを同じにする部員が頷いている。 「・・しっかりとスケジュールを立てて、制作に関わらない部員にも協力してもらわないと」  言い募る島の言葉に、よく言ってくれた、と言わんばかりに他の部員が追随するように頷く。  なんだ、これは。  その光景を俺は吐き気がするような思いで眺めていた。 「それは僕に言ってるの?」 「そうですよ。部長が何とかしてくれないとスケジュールが成り立ちませんよ」 「ふーん」  いつもの薄い笑みで応じる由水。その笑みがいつもよりも薄く見えるのは俺の心が反映されているせいか。 「・・もう僕は何とかしようとしたからなぁ」 「は!?」  島が細目を見開いた。どうやら本気で心当たりがないようだ。自分の都合だけで物を考えるとこんな風になってしまうのか。 「夏休み中に僕たちの作品は仕上げる予定だった。そのスケジュールを、余裕だ、と言って延ばしたのは、誰だい? 「それは……」  口ごもる島。  もう見ていられない。好きだった人が変わりゆく姿を。  自分に都合が悪くなったら口を閉ざす。  それは誰のため?  自分のためだ。話している相手のためでは決してない。  そんなことを島がするなんて、信じたくなかった。  が、現実だ。そして、由水は島がそういう人間だと分かっていた。だから、キャスト選考のとき、難を口にしたのだ。その忠告を無視したのは俺自身なのだから、救いようがない。 俺が馬鹿だったのだ。だから、この現実を目の当たりにして傷つくのは当然の報いなのだ。 「・・俺が言ったな。ごめん。あの時はあれが最善だと思った。俺の判断ミスだ」  二人の間に割って入る平永。それは島を庇うような態度に見えたけど、頭を下げる姿は潔く映った。 「違うよ」と首を振る由水。 「違う?」 「判断ミスしたのは君だけじゃない。あのとき、部室から去っていった全員さ。そのときにこの状況はもう約束されていた」 「! ・・お前はそれを見て見ないふりをしたのかよ」  その平永の言葉は自分を棚に上げた発言に聞こえた。怒気が交じっていたのは、自分に対する怒りをすり替えたからじゃないだろうか。  そんなことを気にも留めずに、由水は「いや」と小さく首を振った。 「・・ちゃんと見てたよ。だから、この状況を迎えることも確信していた」 「!  だったら・・その前に教えてくれたっていいじゃねえかよ。そうしたらこんな状況になる前に改善できていた」 「無理さ」 「へ?」  場違いなほど気の抜けた平永の声。でも、誰もそれを笑うことはない。蚊帳の外である、見る側の部員二人が、気まずそうにこの場から動けないでいるのが気の毒だった。 「だって、夏休みのときにこうなることが分かっていたのに、君たちはそれが分からなかった。この状況を迎えるまで気づけないんだよ」 「それは……」と口ごもる平永。けれど、それはさっきの島の沈黙とは質が違う。その場を誤魔化すためではなく、己の非を認めた沈黙だ。それを肯定するように「…………そうかもしれないな」と平永は小さく呟いた。  俺はみんなを責めることはできなかった。  だって、一歩間違えれば、俺も彼らと同じだったから。ほんのちょっと前の俺だったら確実に彼らの仲間入りをしていた。島が言い出すよりもっと前に納期を伸ばすことを提案していたかもしれない。いや、それ以前に、音声収録の時点で音を上げていたはずだ。  じゃ、彼らと俺は何が違ったのか。  たぶん、それは由水が以前、口にした言葉が当てはまる気がした。 『一生懸命の質の差』だ。  彼らは自分自身でその上限を決める。 俺はそれを決めない。だって、限界までいけば限界だって自分で分かるはずだから。その前に自分の頑張る限界を決めたら、それ以上、頑張れなくなるから。 そして、由水はさっき言った。その状況を迎えるまで気づけないって。  たぶん、それは予想するときに自分の都合の良いことばかりを考えるから。自分自身を外して客観的に物事を眺めることができないからだ。  じゃ、どうすればいいのか。  その答えは分からない。  俺に出来るのは一生懸命やることだけだ。限界を決めずに。  だから、俺は限界を決めた由水に対してもやるせない思いを抱えていた。  由水は、アニメの制作ができないと・・アニ研が統合されると諦めて、自分の限界を決めてしまった。  俺はその限界に異を唱えたかった。  けれど、俺がこの場で発言することはなかった。  責任を負いたくなかったわけじゃない。ここでそれを口にしたところで反対されるだけだ。行動を伴わない発言に力はない。であれば、発言する前に行動するべきだ。  俺がやるべきことは決まっていた。  由水の予言を的中させないことだ。  まだ、10月に作品が仕上がらないということしか当たっていない。その先を変えるには、由水の想定外が起こる必要がある。  俺にそれを起こすことは不可能かもしれない。  けど、できることはある。  一生懸命やることだ。  しんどいような気もするけど、今はそれが何よりも楽しい。  由水の予言は当たった。 でも、まだ半分だ。10月の時点でアニメが完成はしていないけど、まだアニ研はある。 予言をそこで終わらせるために俺がとった行動は、現時点でアニメを完成させることだ。 勿論、ところどころ画が出来てない箇所や未完成のところもある。けれど、音声がすでにできていることが不幸中の幸いだった。物語としては観ることができる。  制作中の画を繋ぎ合わせて映像にするのはそれほど大変ではなかったし、音声をそれに乗せるのも難しいことではなかった。未完成のものだから、パクに合わせることもそれほど必要なかったことが幸いした。  大変だったのはBGMと効果音だ。  フリーの音源をどう手に入れるのか困っている俺に手を差し伸べてくれたのは、柊木だった。佐井と柊木には事の顛末を説明しなければいけないと思い、会ってきたところ、俺の提案を聴き、柊木は演劇部で使用している曲や効果音を提供してくれた。彼女と許可をしてくれた演劇部部長にはいくら感謝しても、し足らない。  そうして、年末を迎える前に、何とか現時点での俺たちのアニメは完成した。勿論、未完成と呼ぶに相応しい出来栄えとなっている。  現時点での作品を完成させたことで由水の予言は回避された、とは思っていない。回避するのはこれからだ。そのためにこの未完成アニメが必要だった。  その作品データが入ったDVDを手に、俺は目指す場所へと向かった。 「準備はいいよね」  一緒に来てくれた佐井がそのドアを開く前に声をかけた。彼もまた、柊木と同じように協力を申し出てくれたのだ。彼の知り合いを通して、今日、俺がここに赴くことは相手方に伝わっている。  俺に協力してくれたのが、アニ研の誰かではなく、部外者の二人であることに不思議な縁を感じる。それは自分で手に入れた。そのことが嬉しかった。 「・・お、OK」  緊張で少し噛んだ。  佐井はツッコむことなく、少し笑う。そして、そのドアを開けた。 『生徒会役員室』  表札にそう書かれたドアを潜って、俺はそこにいた。  その場にいた全員の視線が俺に注がれる。敵意のあるものはなかったが友好的なものも感じられない。 室内には俺たちを除いて、生徒会役員であろう学生が4人いた。男性1・女性3。その比率はまるで漫画のようで、ハーレムだ、と俺もまた漫画のような感想を抱いた。 「ようこそ、生徒会へ。まずはどうぞおかけください」  長机を挟んで正面に座る女性が声をかけた。彼女が生徒会長なのだ。女性が会長であることは知っていたけど、面と向かって会うのは初めてだ。少しふっくらした面持ちに鋭い眼光、どことなく由水と似た雰囲気を醸している。  俺と佐井が勧められた真向いの席に座ると「早速、ご用件を窺いましょう」と会長が切り出した。 「え、あ・・」  突然の展開に俺は用意していた言葉を忘れて頭が真っ白になる。軽くパニくりそうになって、目で佐井に助けを求めた。 けれど、佐井より早く助け舟を出してくれる人がいた。 「会長、早急過ぎです」 「え、そうか。だって事は早い方がいいじゃないか」 「否定はしませんが、物事には限度があります。僕たちはまだ自己紹介さえしてませんよ」 「お! ・・そうか、そうだな」と会長は合点がいったとばかりに腕組をして首肯する。その素直な応対に、由水と似ているという印象は覆る。アニ研の部長は、根は素直かもしれないけど、それを表に出すことはない。薄い笑みという仮面でいつも覆い隠している。 「・・私は生徒会長の松埜結だ。それで、こいつが副会長の今井壮太」 「どうも」と今井が会釈する。 会釈を返しつつ、大きな体に不釣り合いな柔和な笑みだな、と感想を抱いていた。ここで今度は最初の漫画という印象が覆る。ハーレム漫画であれば、男の主人公は優男か情けない弱気な男じゃないといけないものだ。 「私たち、生徒会はこの大学の生徒に対する自主性を慮るために、いわばその架け橋となるために活動して・・」 「会長」 「うん・・なんだ?」 「今度は長すぎです」 「……」  松埜が周りを確認する。今井の言葉が正しいことを知って一つ咳ばらいをした。笑いを溢しそうになるのを堪える。隣の佐井は苦笑いを浮かべていた。咎めようとしつつもできない。俺も同じような表情を浮かべてしまったから。 「・・もとい、話は書記の太田から聴いている。アニ研から何か提案があると?」  太田とは佐井の友人のことだろう。感謝の意味を込めて太田らしき女性に軽く頭を下げる。同じように彼女もまた会釈を返してくれた。 俺と佐井は手早く自己紹介を済ませると早速、本題に入った。 そう、ここからが正念場だ。 イラストに初めてペンを入れる時よりも、本番の収録よりも緊張する。 けど、誰にも譲ることはできない。誰も代わりはできない。 俺だけの舞台だ。 「まずはこれを観てください」  そう言って、俺は用意していたDVDを差し出す。  そこには、俺たちのアニメが入っている。未完成だけど、それこそが今の俺たちの姿なのかもしれない。  簡素なエンディングロールが終わり、プロジェクターで映し出された映像が終了する。  カーテンが開けられ、室内は再び、明かりを取り戻した。恐々と俺は観客たちの表情を確認する。退屈している人はいたけども、目を輝かせてくれている人もいる。少なくとも反感を買うことはなかったようで一先ず安堵した。 たった15分足らずの作品だったけど、その間、じっとしているしかない俺は嫌な想像を打ち消してはまた嫌な想像が溢れてくる、そんな不毛な時間でもあった。 「けっこう、いいじゃないですか」  喜色の声を上げたのは佐井だ。身内が真っ先に喜んでどうする、とツッコミそうになるけど、形にしたものを見たのは佐井もこれが初めてだったから仕方がないか、と思い直す。 自分が携わったものが形になるのは、滅茶苦茶嬉しい。俺もこれを完成させたとき、かつて味わったことのない充実感を覚えた。誰かにこれを見せたくて堪らなかった。そして、今、それがなったわけなんだけど、観客の反応を聴くのは楽しみではなく、ひたすら怖かった。  観客である生徒会役員らは未だ一言も発しない。会長である松埜の発言を待っているのか。当の松埜は腕組みをしたまま、机の一点を睨んで何やら考えこんでいる。 「……会長?」  今井の呼びかけにようやく松埜の視線が動いた。 「うん・・ああ、すまない。色々、考え込んでしまった」  その松埜の言葉に俺は不安に駆られる。  考え込むって・・何を?  再び、嫌な想像が湧き上がってくる。 俺を傷つけずにこの作品のダメなところをどう言おうかとか、俺の提案をどう断ろうか、と考え込んでいるのではないだろうか……。  その想像に巻き込まれそうになる俺を尻目に松埜はあっさりと感想を告げた。 「面白いね」と。  松埜のその言葉に今井が小さく頷き、他の会員も簡単な感想を口にする。未完成なところを指摘したのは退屈した表情を浮かべた人だったけど、それを差し引いても形になっていると評価してくれた。  その好意的な反応の数々に俺は胸を撫で下ろした。隣の佐井は喜色満面の笑みを浮かべている。 が、それはすぐに一変する。 「しかし、これを持ってアニ研の存続を認めるというのは難しいかな」  松埜のその一言に盛り上がっていた場が一瞬で静まり返った。 「それは・・これでは実績にならないということですか?」 「そうだ」と俺の問いかけに松埜は重々しく頷く。 それは、俺が懸命に考えた打開策が打ち砕かれたことを意味していた。 この未完成の作品を形にしてここに持ってきたのは、それを実績としてアニ研の存続を認めてもらおうと思ったからだ。 この作品を本当の意味で完成させる活動をしていく。それが俺の用意した大義名分だった。が、その提案は認めてもらえなかったのだ。 反論したいけど、何も言葉は出てこない。声にならない声が喉の奥で漏れた。 「会長、意地悪な言い方はやめましょう」 「私は素直に語っているぞ」 「それは否定しません。でも、今のが結論ではないですよね」 「無論だ」 「僕は慣れているからいいですが、会長の物言いに慣れていない人は不安になります。・・ねえ?」  今井の最後のそれは俺に向けた言葉だと分かったので俺はおずおずと頷く。「なるほど」と松埜は大きく二度三度と頷いた。 「・・言葉が足りなかったな。謝罪する。まだ結論は述べていない。でなければ考え込む必要はなかろう。これを以って実績とするのは難しいものの、これを無視することもまたできないと思うから思慮していたのだ」 「はあ」  言わんとしていることを捉えかねて俺は曖昧に頷く。最悪の結果ではないことだけは理解していた。 「いや、すまん。また長くなってしまった。結論を言おう」  居住まいを正す松埜。同時に俺の緊張が高まる。じっとその言葉を待った。 「・・保留だ」 「…………はあ!?」  間抜けな俺の声が室内に響いた。  年が明けて、アニ研はその姿を消していた。 結局、由水の予言はほとんど的中することになった。  俺たちのアニメは未だきちんとした形で完成せず、部員たちは統合先である『二次元研究会』にそのまま所属するか辞めるか、または他の所属先に移るかしていった。 俺たちの居場所はなくなったのだ。 けれど、俺は失意していなければ絶望もしていなかった。 だって、俺は何も諦めていなかったから。一生懸命を楽しんでいたから。 『アニメ制作研究会(仮)』  これが今の俺の居場所だ。  2月末までに、俺たちのアニメを完成させれば(仮)の部分が取られ、独立した形での存続を認められる。それがあの時、松埜が出した結論だった。  望むところだった俺は二つ返事で了承した。その難しさや大変さを想像するよりもやりたい気持ちが先に立った。それは今も変わらない。分かっているのは、一人じゃできないことと、一生懸命やることだけだ。  アニ研から名前を変えたのは、アニメを制作することを主な活動にしていくためだ。アニメが好きで、観る側の人間でありたいなら二次元研究会で事足りる。つまり、アニ研がなくなったのは事実だった。 もう、あの場所はない。 それは悲しくはないけど、少しだけ寂しい。 でもそんな感傷に浸っている暇はない。過去を懐かしむより、今を一生懸命、楽しみたい。そして未来を迎えたい。それが素直な気持ちで、一年前の俺とは随分、違っている気がして嬉しい。 が、喜んでいる暇もないのだ。当然、2月末に作品が完成しなければ新しい形での存続はできない。完成しても作品の出来次第では許されない。  でも、それは心配しても仕方がないことだ。  できるのは、良い作品を創るために一生懸命になること。  それが、俺がアニ研で学んだ大切な想いだった。 「(仮)が邪魔だよねぇ」  ポツリと呟いたのは佐井だ。手持無沙汰なのだろう。机に腰掛けながら器用にペン回しをしている。 「そう?」と応えた柊木はお行儀よく椅子に座り、綺麗な姿勢で台本に目を通している。  他の部員が作画作業に勤しんでいる中、その二人の存在は異質だ。住んでいる世界が違うように見える。けれど、これが俺たちのアニメ制作委員会(仮)の通常営業となっていた。 旧アニ研の部室をそのまま受け継ぐ形で俺たちは活動している。そこに二人がいるのは偶然ではなく、必然だった。 「・・私は意外と気に入っているけど」 「変わってるね」 「褒め言葉だわ」 「うん。褒めてるからね」  佐井と柊木がにっこり笑う。その笑顔の裏に緊張感が隠されているが、その関係性を楽しんでいるのにも最近、気づいた。それまでは二人の間でやきもきしたものだ。  二人がこのアニメ制作研究会(仮)に入部してくれたのはあの生徒会室での一件を報告した直後だった。掛け持ちであっても二人のその行動にどれだけ勇気づけられたことか。おけげでその後、胸を張ってアニ研で全てを話すことができた。 『一生懸命を一緒に楽しもう』  そんな言葉を最後に言った気がした。それに賛同してくれた部員の数は予想よりも多かった気がするし、少なかった気もした。それでも作画制作の人を確保できたのは嬉しかった。  誤算もあった。  平永と島がいないことではない。二人が仲良く統合先に向かったのは予想内だ。 島は創る側に疲れたのだろうし、平永は彼女の後を追ったのだと思う。それ以上、興味はないから知らない。 島への想いはまだ残滓というのには多すぎるぐらい胸にある気がする。でも、それはただの幻だ。俺が好きなのは俺の中の島であって、現実に存在する島ではない。 そのどうしようもない現実に気づいて、俺は笑うしかなかった。自分自身の愚かさに。それでも想いが消えずに残るのは愚かさへの罪なのかもしれない。いつか、消えるだろう。 それよりも俺の心を揺るがしたのは由水という存在だった。当然、部長としてそのまま残ってくれると思っていた。けど「ここはユーリが創った場所だから」と何度、誘っても固辞されてしまった。由水という要石がなかったらどうすればいいのか。新しい船出が一瞬にして嵐に巻き込まれた気分だった。が、それは俺だけだったらしい。 「ユーリでいいじゃん」と佐井が指を差した。「そうですね」と柊木が微笑みながら頷く。他の部員も何の拒否反応も見せなかった。  こうして、俺はなし崩し的にアニメ制作研究会(仮)の初代部長を拝命することとなった。  これが、俺の最大の誤算だ。 「部長、このイラスト、後、お願いね」  ほぼ完成しているイラスト・データが俺の端末に転送される。部長といっても出来る作業は変わらず単純なものだけだった。 「任されました」と見慣れたいつもの薄い笑みを浮かべる新入部員に親指を立てて応える。 「こっちもすぐだけど、いける」 「あ、僕がやりまーす」  統合先で告白するもすぐに振られたらしい入りたてほやほやの新入部員に佐井が元気よく応える。この何でもできるバスケ部は作画でも俺の地位を脅かそうとしている。  これが今の俺の居場所だ。  一生懸命を楽しむ大切な仲間だ。  一人じゃ、一生懸命を楽しむこともできない。  そんな当たり前のことをようやく知って、俺は幸せな現実に気づけた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加