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***
不毛な関係である、というのはわかっていた。
それでも続けてしまった理由など単純明快だ。――寂しかったのである、お互いに。そしてあの人の場合は特に――家族だの子供だの父親だの、そういう柵が一切ない気楽な恋愛がしたかったというのが大きいのだろう。
向こうは気楽なつもりであっても、こちらは全くそんなことはなかったわけだが。
馬鹿げているのは知っている。それでも私は、私にはもう彼しかいなかったのだ。会社の先輩達の陰口、いじめ、オヤジ達からのセクハラに、増えるばかりの業務と残業。疲れる心と身体を癒してくれるのは、たったひとり彼だけであったのだから。
――それも、今日で終わり、なのよね。
眼を閉じる、閉じる。覚悟を決めて此処にいるはずなのに――今更胸が痛いなんて、本当にどうかしていると思う。
この関係を始めた頃は、向こうが妻子持ちであることなどとっくにわかっていて、いつか必ず切らなければならないとちゃんと腹をくくっていたはずだったというのに。
「菜々絵」
今。彼――彪吾さんは、私の目の前にいる。ホテルの一室。ルームサービスで取ったワインを前に、小さなテーブルで私と向かい合っている。
「……お前には、本当に申し訳ないことをしたと思っている。すまなかった……おかしな期待を持たせるようなことを、言ってしまって」
おかしな、期待。その言葉こそなんだか滑稽で、私はついつい笑ってしまいそうになる。
妻と別れるから、このままずっと一緒にいてくれ――確かに私に何度もそう言って、つなぎとめようとしてきたのは彪吾さんだ。そのたび、その言葉を間に受けて、彼を許してしまってきた自分にも確かに問題はあったのだろう。
でも、私がした期待は――そんなに“おかしなもの”だったのだろうか。
一人の女であるのなら、それがたとえ不倫という関係であったとしても――いつか自分ひとりを見てくれるはずだと、そう願ってしまうのは。そんな“おかしな”と言われるほど奇妙なものであったのか。
その言い方はまるで、私が思い込みのつよい馬鹿な女だったと言っているようなものではないか。信じた私の方が頭が“おかしかった”と言われているようなものではないか。
謝られているはずなのに、それではまるで。信じた私が悪かったと、そう言われているように聞こえてならないのである。
「……もう一度、念のため訊くわ」
震える唇で、私は言葉を紡ぐ。
「本当に。……奥さんと別れるのは、もう無理なの?奥さんとはもう冷えきってるって、疲れるだけだって……私と一緒にいるのが一番幸せな気持ちになれるって……愛してる、って。そう言ったのは……嘘だったってこと?」
「それは……」
彪吾は気まずそうに視線を逸らす。馬鹿なのはどっちなの、と詰め寄りたい気持ちでいっぱいだった。どうして最後くらい、女の正直な気持ちをわかってくれないのだろう。
嘘でもいいから。それは本当だったって言って欲しいのに。
その言葉だけは真実だったて認めてくれたら、それだけで報われる気持ちも確かにあったというのに。
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