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第三章 灰色の荒野が掠れた日
1
気がつくと、桜は萎み、灰色の枝葉が生え狂っていた。
黒い太陽が空から光を降ろしてくる。
寒風が渦を巻き、肌を撫でる。一層、そそけ立つ鳥肌を撫でながら、僕は歩き続ける。
「須藤君、おはよう」
控えめな声が僕の背後から漂ってきた。
僕は微笑み、振り返った。
「おはよう、金峰さん」
白々しく挨拶をして、僕は金峰さんが隣に来るのを待った。
金峰さんは、何となく取り澄ましたような表情で、僕の横顔を見た。
「なんか、隠し事でもしているんでしょ」
鋭い指摘が、僕の胸を圧迫した。
「今日は比較的に暑いね、桜の季節も終わりかな」
僕は内心の焦りを匂わせないよう嘯いた。
「はぐらかすなよー」
金峰さんは僕の頰を引っ張りながら、自分の頰を膨らませた。
「僕なんかといても良いの? みんな君がおかしくなったんじゃないかって思ってる」
「私がおかしいのは元からです」
僕の心からの助言を金峰さんは苛立たしそうに一蹴した。
金峰さんが自分の破天荒を自覚しているのは意外だった。
そんな金峰さんが僕にこうして話しかけることは最近、多くなった。
金峰さんのお節介のお陰で、クラスの生徒たちは僕を羨ましさや妬みのこもった目で見つめてくるようになった。
僕には視線が突き刺さるのが少しだけ苦痛だった。
僕は、制服のポケットに手を入れ、少しだけ金峰さんから遠ざかる。
金峰さんは、逆にこちらに近づいてくる。
「監視なんかしなくて良いったら」
僕は冷めた口調を装いながら金峰さんに向けて首を振った。
「私は須藤君の、義母さんや父さんを殺さなきゃって言葉を聞いちゃったからね。須藤君は私の管理下に置かれるべきなのです」
頑固な言葉が返ってくる。
「今日、アイス食べに行こうよ。須藤君、奢りね」
金峰さんが急に思いついたのか、突然に僕に提案した。
「……太るよ」
「太りません。私は太らない体質なのです」
遠回しにお断りをすると、金峰さんは胸を張って虚言を吐いた。
「僕、アイスは好きじゃないんだ。ただでさえ寒いのにもっと寒くなる」
「わ、すごい鳥肌!」
僕が腕を見せながら尚も遠回しに断ると、金峰さんは心配そうに声を上げた。
金峰さんは、急に自分のブレザーを脱いで僕の肩に掛けようとした。
僕はすぐに金峰さんの両手を掴み、肩にかけさせないよう頑張った。
僕は精一杯頑張った積りだが、力はどちらも同じくらいで、いくら押しても動かない。
「風邪だよ、きっと。五月に鳥肌なんておかしいもん。さあ、あったかい格好してくださーい」
「嫌だ。女物のブレザーなんて羽織りたくない」
金峰さんが看護婦のような口調で押し切ろうとするのを、僕は必死で防ごうとした。
僕たちはしばらく押し相撲をしていたが、金峰さんが先に折れた。
「あったかいのに。私の体温がまだ残っているんだよ」
「余計に嫌だろ、普通」
「女の子の体温そのままの制服なんて、オークションに出品したら、百万円はくだらないんだよ」
「嘘を吐くな」
相変わらずの大法螺に呆れるばかりだったが、僕にしては丁寧に相槌を打っていた。
「オークションに出す頃には、制服の温度は冷めているんじゃないの。どのサイトで百万円で売っている女子高生の制服を見たんだよ」
僕は矛盾点を面倒に思いながら指摘した。
「えへへ、じょーだん、じょーだん、マイケル・ジョーダン」
「もっと鳥肌が立ってきた」
恥ずかしそうにダジャレを言う金峰さんに、僕は抑揚のない声で呟いた。
「結構、良いダジャレだと思ったんだけどなあ」
金峰さんは胸の前で腕を組みながら、頰を膨らませた。
僕は金峰さんの横顔を見て、心に暖かい光が灯るのを感じたが、すぐに心を凍らせた。
「おっと! 危ない! アイスの話をしていたんだった! はぐらかされる所だったよ」
突然、金峰さんは、まるで僕が悪いとばかりに不満げに指摘した。
「誰もはぐらかしてないんだけど」
僕は嘘偽りのない真実を述べた積りだったけれど、金峰さんは首を振った。
「そんなこと言って、私を煙に巻く積りだろうけど、そうは問屋が卸すもんですか。
さあ、アイスを私に奢る約束をしたまえ」
「僕お金が無いもの」
甘い声音で強引に要求を通そうとする金峰さんに、僕は事実を述べて淡白に断った。
しかし、金峰さんは納得をしない。
「バイトしていたんだろー。ちょっとくらい良いじゃんかー」
「君のせいでクビになったんだよ」
猫のようにじゃれつく金峰さんを迷惑に思いながら、僕は首を振った。
金峰さんが来なかったら、義母と父は死んでいたのだが。
だが、金峰さんを有利にするような事実は敢えて指摘しようとも思わない。
「うー、それは謝るけど。でも、デートだぞー。現役女子高生とのデートだぞー」
金峰さんは、尚も僕にすがりつき、猫撫で声で誘った。
「良いよ」
僕はとうとう根負けして頷いた。
「おーっ! どう言う風の吹きまわし? 神風が吹いたんだね、きっと!」
「何って、普通に折れただけ。あと、神風が吹いた意味がよく解らない」
「よーし! トリプルだからね!」
特に中身の無い妙な会話の末に、金峰さんは突然に話題を変え、釘を刺した。
金峰さんは、僕の手を取ると、口角を上げ、目を細めた。真っ白な歯が唇の間から覗いた。
「バニラ、チョコ、キャラメルリボン〜」
金峰さんは適当な鼻歌を口ずさみながら、くるりと一回転して、僕の顔を蠱惑的に見つめた。
「須藤君も、私と同じものを頼んでね」
「僕はアイスなんか食べない。あと、同じものを頼む意味が判らない」
片目で瞬きをしながら金峰さんが提案するので、僕はすげなく撥ね付けた。
「私はできるかぎり君と同じで、君に近い感触を味わっていたいのです。そうすればするほど、君の心が理解できて、君のことを救いやすくなるのです。つまりは、ユニゾンかな」
「前から聴きたかったけど君の能力は生まれつきのものだったの?」
得意げに説明する金峰さんに、僕はさして興味も抱かずに尋ねた。
「よくぞ聴いてくれました。生まれてから、ずっと不思議な体質は続いております。
小さい頃は、テレビの取材とかも来そうになったけれど、お爺ちゃんがテレビの記者さんを追い返しちゃったんだよね」
金峰さんは、ちょっとだけ陰りのある声で教えてくれた。
「君は、自分の力が気持ち悪いと思ったことはないの?」
「生まれつきだから、力が無い自分なんてむしろ想像できないね」
僕がちょっと意地悪に尋ねると、金峰さんは言葉の悪意にも気付かず無邪気に首を振った。
「……君の能力で、僕の義母の心を読むことはできないかな」
「そう融通の利くものじゃ無いし、私は須藤君の復讐に力を貸したりしません」
金峰さんは舌を出して、僕の期待に満ちた言葉を一蹴した。
「ささ、行きましょう。行きましょう。授業をとっとと終わらせちまいましょう」
金峰さんは戯け終わると、僕の腕を引いた。
他の生徒たちが奇異の視線で僕らを振り返っていた。
2
放課後になり、鞄を拾い上げるなり、金峰さんの細い手が僕の右手を掴む。
驚いていると、肩が外れそうになるくらいの力で引っ張られ、僕は苦痛の声を上げながら、金峰さんと一緒に走った。
ここでも、生徒達が奇異の視線でこちらを見た。
「さあ、デートだよ、デート」
金峰さんは声を落として、僕に笑いかけた。
魅惑的な表情に、思わず心臓が脈打った。
3
僕は随分と日が高くなった夕方の空に放り込まれた。
校舎を出て、街に出て、僕がバイトをしていた付近には、ショッピングモールがある。
ショッピングモールには某有名アイスチェーン店があり、金峰さんは放課後になるなり、真っ直ぐ向かった。
アイス店のショーケースにアイスのカップが並んでいた。
店員の声と、学生を始めとするお客の声が飛び交っていた。
アイスの濃厚な匂いが漂い、僕は胸焼けがしそうになった。
食べる前からすでに満腹だった。
僕たちがアイスの種類を決め、店の列に並ぼうとした時だった。
アイス店の隣には喫茶店が併設されているのだが、柱で影になっている所に、田辺さんと絢瀬さんが座っているのが見えた。
カウンターと対象的な位置に二人は座っていた。
木製の衝立に仕切られており、ちょうど背中合わせに座り込めば、話が聴こえる位置だ。
僕は金峰さんに断って、二人の席と背中合わせに座った。
金峰さんは「男が女に運ばせるのかこんにゃろ」と、ちょっと不満げに苦言を返した。
数秒とせず金峰さんはすぐに田辺さんと絢瀬さんに気付いたらしく、アイスのことを放り出して僕の隣を歩き出した。
二人で端っこの席に座り、じっと耳を澄ませる。
二人は幸い、僕達に気づく様子もない。
「あんたが、和馬の義母、須藤由利恵と同じ大学の同じ学部にいたとは驚きだよ」
田辺さんの険しい言葉に、僕は息が止まりそうになった。
「私があの女と同期だからって、なんだって言うのかしら。言っておくけど、仲が良かったわけじゃないのよ」
絢瀬さんは、学校で生徒に接するのとは百八十度も違う剣呑とした声で遮った。
「あんたの大学の教授、和馬を散々こき下ろしたニュースに出ていたよな。残念ながら映像はネットにも無かったが、和馬を悪く言った一人には違いない」
「違うわ、先生は!」
田辺さんはあくまで冷静に指摘したが、絢瀬さんは度を失ったように立ち上がった。
「武原先生は、和馬君を擁護した唯一の人です!」
「あんたが和馬と同じ学校に今年から勤務するようになったのは単なる偶然か?」
絢瀬さんがいきり勃つのを無視して、田辺さんは平淡な口調で尋ねた。
田辺さんは、絢瀬さんの態度から流石に悪いと思ったのか、慌てて手を振った。
「まあ、座ってくれよ。俺だって喧嘩がしたくて呼んだわけじゃないからな」
田辺さんの諭すような言葉に辛うじて溜飲を下げたのか、絢瀬さんは座り直した。
「私は、付近の学校の学校カウンセラーを転々としているんです。
和馬君の入学と被ったのは、本当に偶然よ」
絢瀬さんが感情を抑制して喋っているのが、僅かに震える声音から判った。
「竹原ってのは、最近よく反体制的な動画を出している大先生で間違い無いよな?」
「動画を上げて、色々な考え方を発信しているのは確かです」
田辺さんの揶揄するような言葉を、絢瀬さんはマイルドに訂正した。
「俺は、こう考えている。
竹原は、和馬の義母が和馬の妹を殺した事実を知って、隠蔽しようとした。
何しろ、自分の教え子だからな。警察にでも捕まれば、自分の主張に傷が付く」
「何を馬鹿な。妄想もここに極まりますね」
田辺さんは穏やかに雄弁に語ったが、絢瀬さんの口調は和らぐどころか更に硬くなった。
「貴方の言葉が万が一にも本当だとして、何故、竹原先生は和馬君を擁護するようなことを言ったのかしら」
「やられ役は一人か二人は必要なんだよ。
悪役を作らねえと、面白くないからな。
竹原としても悪いポジションじゃない。視聴者には反体制的に映るし、もし露見しても無関係を装えるからな。
ま、本当に無関係なんだろうけど」
冷ややかな口調で突っぱねる絢瀬さんに、田辺さんはあくまで理路整然と受け答えた。
「そんなことで、あの女を犯人にするなんて、馬鹿げてる」
絢瀬さんは軽蔑を声に滲ませ、吐き捨てる。
「俺だって、こんな理屈であんたの同期や恩師を疑ったりしないさ。だけど、おかしいんだよ。和馬の妹の光ちゃんは、脳症を起こして二階から飛び降りた。そうだな?」
「私には不自然には思えません。タミフルを飲んで同じように死んだ子は何人かいます」
「だけどなあ、脳症って、幻覚や精神の麻痺を促すんだぜ? どうやって、あの複雑な鍵を、しかも、小学校低学年の女の子が開ける? 少なくとも誰かが鍵を開けたんだ」
「和馬君が、閉め忘れたのでは? 換気のために窓を開けたままにした」
「俺は、和馬に何度も当時のことを聴いているが、そんなことを聴いた試しがない。和馬がそんなヘマをしたとして、それを気に病まないのはおかしいだろ」
冷静な指摘を何度、突っぱねられても田辺さんは次々と反証を上げていく。
田辺さんの口調には抑揚がなく、逆に絢瀬さんの言葉には大きな波があった。
「とりあえず、和馬の義母について教えちゃくれませんかね」
田辺さんはそれ以上の追求を止め、口の端に笑みを浮かべながら話題を変えた。
絢瀬さんはしばらく沈黙していたが、影が身動ぎするので頷くのが判った。
「正直に言って、私は由利恵が嫌いでした。国会議員の娘で、お金持ちで、それを鼻に引っ掛けている所がありましたからね」
「性格は良くなかったと?」
「私の口から言わせれば、確かにそうです。でも、人を殺すような人間だとは思わない」
「なんで? 常日頃から、人を見下していたんでしょう?」
「それでも、由利恵は、カウンセリングを学びたいと思う程には、善良さを持った人間だったの。人の心を救いたいという心は日々、伝わって来た。盲目的なほどに、自分の愛情に素直だった」
絢瀬さんは、どこか憂鬱そうに語り、田辺さんは、相変わらず平坦な言葉で相槌を入れていく。
「俺は、あんた以外にも由利恵さんの同期に当たってみたんだけど、あんたみたいな評価をしている人は初めてだ。
みんな、概ね由利恵さんを嫌っているみたいだった」
手札を明かしつつ、田辺さんがカリカリと頭を搔くのが判った。
「私も嫌いですよ。でも、人を殺すような女性じゃない、それだけは断言できます」
絢瀬さんは、どこか突き放すように言い捨てた。カラカラと氷が音を立てたので、恐らく飲み物を飲んだのだろう。
「盲目的って言いましたよね、さっき」
田辺さんはコップが机に置かれるのを待ってから、ゆっくりと尋ねた。
「由利恵のことですか。そうです。あの子は盲目的な所があります」
「和馬の父親に盲目的になるあまり、邪魔な光ちゃんを殺した、と言うことはありませんかねえ」
お互い、威嚇するように言葉をぶつけ合う。
「結婚までする訳ですから、大した入れ込みようですよね」
田辺さんが絢瀬さんの顔を窺いながら指摘したのが判った。
田辺さんの影が身を乗り出すような動きをしている。
また、氷がカラカラと音を立てた。
今度は、田辺さんが飲み物を飲んだらしく、「くはっ」と気持ち良さそうに喉から声を漏らした。
「光ちゃんが二人をどう邪魔したって言うのかしら」
絢瀬さんは馬鹿馬鹿しいとばかりに吐き捨てた。
田辺さんが声を立てて笑う。
「そりゃあ、邪魔でしょう。
統合失調の父親とそれを献身的に介護する妻にとっては、娘や息子はお荷物でしかない。
時には煩わしくだって感じられたはずだ。
それに加えて光ちゃんの死んだ夜以外には光ちゃんをなんの不自然もなく殺す時は無かった」
田辺さんの言葉は絡みつく蛇のように狡猾で圧倒的だった。
絢瀬さんも飲み物を飲んだのか、氷がガラガラと音を立てた。
「由利恵さんには、本当に愛のためなら何だって排除する性質は無かったんでしょかねえ」
「私が、由利恵に聴いた由利恵自身の過去の話とそれに対する私の解釈を教えてさしあげましょうか」
田辺さんのまとわりつくような言葉を絢瀬さんは冷たい声音で受けて立つ。
「これは有難い。ヒントをくれるという訳だ」
田辺さんは由利恵さんの敵意に少しも動じず、飄々と嘯いた。
絢瀬さんは冷静になり、目くじらを立てる事も無くなったのか、少しも身じろぎせず説明を始める。
「由利恵は、小さい頃から大きなお屋敷に住んでいました。
由利恵には尊敬する母がいて、母の口癖は、困っている人の心を救いなさい。
だったらしいわ。由利恵は母の言葉を忠実に守り、ホームレスにお小遣いを上げたり、小動物に餌を与えたりしていた」
絢瀬さんは、憂鬱そうに語りながら、言葉を切った。
「だけど、それは。多分……」
田辺さんが怪訝げに言葉を遮ると、絢瀬さんが頷く気配がした。
「そうね、私が思うに、由利恵の行動は全てが逆効果で、ホームレスには屈辱を与えたし、動物は身体に合わない食べ物のせいで死んだこともあったんだと思うわ。
でも、事実を無視して由利恵の自尊心は肥大するばかりだったんでしょう」
絢瀬さんは億劫そうに回想する。
「ほら、やっぱり、善意で人を殺しかねないんじゃないですか」
田辺さんはすかさず合いの手を入れた。
「でもね、由利恵は一度も害そうとして人に接したことはないはずなのよ。ただ、思慮が足りないだけで、悪い子ではないはずなのね」
絢瀬さんの決然とした口調からは確信が窺えた。
「由利恵の夢はいつからかカウンセラーになり、周囲も向いているとか、天職だとか、もてはやしたみたいね。
由利恵の自尊心はそこで更に強くなったと」
絢瀬さんは尚も訥々と語る。
氷がからりと音を立てる。
絢瀬さんがストローで氷を突いたらしい。
「盲目的ではあるけど、あの女は人を救うという使命に燃えているわ。
今は、和馬君のお父さんを救うことしか考えていないというだけ。
それに結婚が必要だと判断したから、結婚したのでしょうし。
結婚した時点で、和馬君や光ちゃんをちゃんと自立させる事も考えていたはずよ」
「和馬の言い分では、三万円を机の上に置いて、三ヶ月の間、二人の前から去ったって話だけどな」
「思慮が足りないというだけでしょう。
お金を置く事自体は悪いことではないし、由利恵にとって一番大事なのは夫だけ。
和馬君や光ちゃんには夫の回復に最大限に協力する義務があると、由利恵なら考えるでしょう」
冷静な言葉を遮る田辺さんの言葉を絢瀬さんは尚も冷静に否定した。
「そうですかあ。そちらには情報を提供してもらいましたし、こちらも少しだけ手札を見せましょう」
田辺さんはやや諦めを滲ませる口調で告げた後、何かガラス製のものを机に置いた。
絢瀬さんがガラス製の何かを見下ろす気配がした。
「プレパラートには、四つの指紋が採取されています。一つは和馬、もう一つは光ちゃん、もう一つは和馬の義母、もう一つは、誰のものか判らない。まあ、警察の関係者のものと見て間違いない。もちろん、これは例の事故の起きた部屋から採取したものです」
田辺さんは説明しつつ、肩を竦めたようだった。
絢瀬さんがプレパラートを見下ろす気配がした。
触ろうともしない様子だ。
「ははは、そんなに嫌がらないでくださいよ、小学生みたいだな。田辺菌なんて着いてないですよ」
「そういうことでは。大事な物証だと思ったので、慎重になっているだけですよ」
田辺さんが冗談めかして勧めるも、絢瀬さんは固辞した。
「それより、よく指紋が残っていましたね」
絢瀬さんは完全に感情が欠如した声で田辺さんを遠回しに褒めた。
「光ちゃんが死んだのは今年の二月、つまり三ヶ月前だ。
指紋がギリギリ残っているかいないかの瀬戸際だった。
幸いだったのは、警察が事件性を疑わなかったために、現場は本当に綺麗に残されていたこと」
田辺さんが自慢げに説明した後、プレパラートが机の上を滑る音がした。
どうやら、プレパラートの一つが絢瀬さんの前に差し出された音らしい。
「消えかかっている感じからしても、三ヶ月前のいつかに、あの女は和馬と光ちゃんの部屋に入っていたのは間違い無いんだ」
ここへ来て、田辺さんの声から冷静さが少しだけ失われた。
「なんで、あの女を庇う? あんたらは、何がしたいんだ?」
尚も、度を失ったような声が繰り返された。
「庇ってなんかいませんよ。それより、貴方は今、訴えられても仕方のないことをしていますよ」
今度は冷静さを取り戻した絢瀬さんの声が田辺さんを射すくめる。
「和馬が俺のことを訴えるかよ」
田辺さんは、冷静さを取り戻した口調で答えた。
田辺さんが歯を剥いて笑う姿が僕には想像できた。
「何も、和馬君じゃなくても、家の世帯主の由利恵に言えば、貴方を訴えるなんて簡単だわ」
「あんたは、和馬の義母に何も言わない、これは断言できる」
「随分と楽観的ね」
凌ぎを削るように、二人は言葉と言葉を戦わせ、身を引き合う。
「あんたは、由利恵が和馬の義母と判っていながら、これまで一度も会いに行こうとしていないだろう?」
「なぜ、そんな事が言えるの?」
「じゃなかったら、和馬が今まであんたのことを知りもしなかったのはおかしい」
「なんだが、こじ付けっぽいけど、それが何か?」
絢瀬さんは、田辺さんの鋭い指摘を歯切れ良く迎え撃った。
「あんた、本当にあの女が嫌いで堪らないんだろ」
「ええ、そうね。大っ嫌い。でも、これはさっきも言ったことよね」
「今とさっきじゃ、大分トーンが違うだろ」
執拗な指摘に、絢瀬さんは明らかにテンションを下げて答え、田辺さんはさらに執拗に言葉を重ねた。
「あんた、本当はあの女が捕まればいいと思っているんじゃないか? なら、俺に協力して欲しいんだけどねえ」
「何を馬鹿な。どんなに嫌っていたって、警察に捕まればいいのになんて、大半の人は思わないでしょ?」
田辺さんが囁く声を絢瀬さんはすげなく切り捨てた。
田辺さんが身動ぎして、コーヒーの追加をオーダーする気配がした。
絢瀬さんは田辺さんが追加を勧めても首を振るだけだった。
「そうかい。まあ、いいや。俺の話は以上ですよ。そっちから何か話して置きたいことはありますかねえ」
田辺さんは、戯けた口調で尋ねた。
絢瀬さんが咳払いをする気配がした。
「そうね、貴方はどうして和馬君に義母を殺して欲しいと思うの? つい、先日まで面識もなかったんでしょ?」
「俺みたいな人間があいつと出会ったら、嫌でもこうなる」
咳払いの後に出された質問に、田辺さんは強い口調で回答する。
「俺みたいなって、貴方みたいに失礼な人が何人もいるみたいな口振りね」
「敵意を持たれているとは思ったけど、そこまでとはね」
絢瀬さんの茶々に、田辺さんは気を悪くしたのか、声のトーンを若干低めた。
「二ヶ月前、白い髪をした、青白い顔の少年に出会った。俺はそいつが妹を見殺しにした例の少年だって信じて疑わなかった。
だから、ちょっかいを出しちまったのさ。そうしたら、あいつは俺の首を締めようとしてきた。ただ事じゃないと思ったね」
田辺さんは自慢げに笑い、追加のコーヒーを受け取った。
「聴いてみれば、あいつの事情は俺が昔に抱えていた問題とよく似ていた。
俺は、親父に虐待を受けてね。母親もだ。母親はそれで耐えきれなくなって自殺だ。
良くあることだ。
で、俺は親父を殺した。
スカッとしたぜ。罪悪感なんて少しも無かった。
あんなに復讐がさっぱりしたものだとは思いもしなかった」
遠い綺麗な思い出を語るように、田辺さんの言葉は高く澄んでいた。
絢瀬さんが戸惑い、身体を揺する気配が伝わってきた。
「よく、復讐は不毛だとか、復讐は悪だとか言うが、本当にそうかな?
身内を殺された遺族は犯人の死刑を望むじゃないか。
昔も昔なら、無能な皇帝は殺されたって聴くし。
人間は、みんな復讐が大好きなんだよ」
田辺さんは朗々と語りつつ、カラカラと笑った。
同時、僕の頭が踏みつけられた。
眼前に金峰さんの足とスパッツが覆いかぶさる。
「ふっざっけっんな! こんにゃろー!」
叫んだかと思うと、金峰さんは衝立を飛び越え、田辺さんへと急降下した。
田辺さんはあっと声を上げ、絢瀬さんは呆気に取られていた
金峰さんは田辺さんの首筋に齧り付き、左手で鼻を摘んだ。
田辺さんは今の状況が理解できないらしく、金峰さんの姿を目を剥き出して見つめていた。
「貴方の心は!
想像できないほど傷付いていますよ!
擦り傷も切り傷も、火傷もしています!
大変な急患ですよ!
自分の心から目を背けて、大人ぶらないでください!」
衝立の向こうから怒鳴り声が響いてくる。
僕は慌てて店を大きく迂回して、金峰さんの方へと向かった。
「嬢ちゃん。どうやってここを嗅ぎつけたかは知らないが、あんまりいい趣味じゃないな」
田辺さんは呆れ切ったような口調で金峰さんを叱りつけていた。
衝立の隙間から、金峰さんが首根っこを掴まれて 子犬のようにぶら下がっているのが見えた。
僕は田辺さんの前に躍り出ると、頭を下げた。
「すいません、田辺さん、偶然なんです! 僕たち、ここでアイスを食べようって話してて、偶然に二人を見つけたから、つい盗み聞きを」
僕が心臓を高鳴らせながら説明すると、田辺さんは「別に怒っちゃいないけどよ」と悪戯を見られた子供のように赤面する。
「どちらにせよ、和馬には教えようと思っていたことだ。手間が省けた。嬢ちゃんに知られたのは痛いがな」
田辺さんは破顔して、金峰さんを揶揄った。
「嬢ちゃん嬢ちゃんって! 私は十六歳です! 高校生なんですよ!」
金峰さんは振り子のように身体を振り、田辺さんの鳩尾の辺りを蹴りつけた。
田辺さんは流石に堪えたのか、腹を抑えて後ずさる。
拍子に、金峰さんは床に着地し、腕を胸の前で組んだ。
「粘土質の赤い荒野が見えます。
水は無く、干からびていて、頼る者は一つもない。
太陽は沈まず、眠ることもできず、やがて、貴方は自分が火のように赤くなっているのに気づく。
貴方は、赤い悪魔になってしまったのです」
金峰さんは声を震わせながら描写した。
「俺が赤い悪魔に……なんで、俺の夢を」
田辺さんは釘付けになったように金峰さんを見つめた。
「貴方も『寂しい人』なんですね。でも、もう救いようも無いみたい」
金峰さんは哀れみを滲ませた優しい声で突き放した。
「須藤君、行こう。今日は予定変更! 画材屋さんに行きます!」
「金峰さん、やる気になってるところ悪いけれど、まずは謝らないと」
一足飛びに提案する金峰さんの肩を、僕は軽く叩いた。
金峰さんはすぐに振り返り、身体を強張らせた。
喫茶店とアイス店の店長らしき人物が、引きつった笑顔でこちらを見ていた。
4
「うー! あんなに怒るなんて理不尽だー!」
夕暮れの街並みには、帰りの車が行き交っていた。灰色の空に向かって手を振り上げながら、金峰さんは声を張り上げた。
歩道にはほとんど人が居らず、夕刻に歩こうとする人は散歩の老人くらいのようだった。
「理不尽なのは君の理解不能な行動力だよ」
僕はこれ以上ないくらい正確な事実を述べた。
「でも、ちょっと衝立を飛び越えたくらいでしょ?」
「あんなに長時間、何も頼まずに椅子に座っていた上に、衝立を飛び越えて、大声を出したら怒られるに決まっているでしょ」
金峰さんが不思議そうに首を傾げたので、僕は何がいけなかったのかを丁寧に説明した。
金峰さんは僕の言葉を聴いてようやく理解が及んだのか、赤面した。
「恥ずかしい……また、人の心を土足で踏みにじっちゃったし」
金峰さんが反省の色を浮かべて歯切れ悪く言葉を濁す。
「田辺さんのあんな顔、初めて見た」
僕は田辺さんの険しい顔色を鮮明に思い出しながら、ポツリと呟いた。
「大体において、田辺さんが悪いんだから、仕方ない!」
金峰さんは、急に責任転嫁して、開き直った。
明らかに金峰さんが悪い。
「だってね、田辺さんがいなかったら、須藤君は拳銃も手に入れなかっただろうし、完全に復讐の道に行かなかったかもしれないじゃない?」
僕の心を読んだのか、金峰さんは必死で弁解する。
根っ子の部分では、正しいことを言っている気はするが、正直、僕には田辺さんが悪いとは思えなかった。
「むー、田辺さんは悪くないって顔だね。ふん、いいもん! 須藤君なんて画材屋さんに着いてこなくていいから!」
「そう、じゃあ、僕は帰るね」
むくれる金峰さんに僕は淡白な声で告げて踵を返した。
同時に、僕の服の袖が引っ張られた。
「着いてくる権利を与えます」
「権利を放棄します」
「放棄を認めません」
「義務じゃないので、従いません」
「義務を課します!」
金峰さんがじゃれつくのをすげなく断るが、余計に激しくじゃれついてくるだけだった。
「いいじゃんかよー! 私だって、頭に来たんだもん!」
「……そうだよね」
金峰さんの駄々っ子のような言い訳に、僕は思わず同調した。
金峰さんは瞬きをして、僕の顔を見た。
僕は躊躇いながらも、今の胸の内を告げることにした。
「田辺さんを見て、今の僕は少しだけ『寂しい』のかもしれないと思った。
だけど、田辺さんも僕も復讐以外の方法なんて、一生、思いつけないのかもしれないなって、もっと悲しくなっちゃったんだ」
金峰さんは空っぽになった心から零れ落ちた本音を聞くなり、胸に飛び込んできた。
「うー、ばかばか! 自分が『寂しい人』だって判ったんなら、『もう復讐なんて終わりだ。金峰、俺の生きる意味はお前だけなんだ』って言えよ、ばかあ!」
僕を罵倒するのは、困ったような、落ち込んだような、何とも言えない声音だった。
僕の胸を両手で静かに叩いて、金峰さんは涙を頰に滲ませた。
「自意識過剰だな、金峰さんは」
「うるさいなあ。……でも、一つ前に進んだね」
僕が思わず口の端を歪めながら嗤うと、金峰さんは優しく囁いた。
金峰さんは言い終わると、僕を強く抱きしめた。
「……須藤君、絶望の荒野に、一筋の光が見えるよ。
金色の光の正体が私には何だか判らないけど、今なら綺麗な色合いで描けそう。
さあ、画材屋さんに行こうね!」
金峰さんは強引に、一方的に、僕の手を強く引いた。
5
案内されたのは街角にある目を引かないくらい小さなお店だった。
画材屋さんというだけあって、沢山の筆や画用紙が売られていた。
金峰さんは入り口のプラスチック籠を取り、何も考えていないような素早さで画材を籠へと放り込んでいく。
僕は金峰さんが買い物をしている間に店をもう少し眺めた。
店の奥には畳の敷かれた座敷があり、座布団の上に猫を抱いた老婆が座っていた。
音らしい音は老婆が立てる寝息らしい音と、金峰さんが活動する音だけだった。
絵の具独特のきつい匂いがするかと思えば、そんなこともなく、店内からは果実のような匂いが立ち込めていた。
「おばちゃん! これください!」
「二千八百円」
金峰さんが元気よく話しかけると、老婆はちょっとだけ目を開いてすぐに答えた。
金峰さんは財布から紙幣と硬貨を取り出すと、老婆に渡した。
老婆は「まいどあり」と呟いて、またウトウトした。
「じゃあ、須藤君。そこに座ってください」
金峰さんは、座敷の段差を指差した。僕は逆らわずに段差に腰掛け、金峰さんの次の動きを待った。
金峰さんはどこからか椅子を引っ張り出してきて、僕と少し離れた場所に置いた。
椅子に浅く腰掛けて、金峰さんは画板と筆で下書きもせずに絵を描き始めた。
僕はどうしていいのか判らず、とりあえずあたりを見渡す。
「動かない!」
視線を彷徨わせる僕に、金峰さんは鋭く注意した。
「でも、似顔絵じゃないんでしょ?」
「脳が揺れると心も揺れるの」
金峰さんはよく判らない理屈で僕を言い包めると、また絵を描き始めた。
これ以上の文句は要らないと思ったので、僕は身動ぎしないことにした。
こうしてみると、金峰さんはやはり美人だった。
雪のように白い肌、桜色の唇、漆を塗りつけて丁寧に薄く伸ばしたような光沢を放つ黒髪。
妹もこんな風に綺麗な子だった。
「お、いいねえ、須藤君、いいよ。憂いのある思弁はグッド! 描きやすくなった」
金峰さんは、絵を描くのを再開してから初めて僕に声をかけた。
声を返すかどうか迷った末に、僕は沈黙を選んだ。
そうして、二時間も三時間も座って、そろそろお尻が痛くなってくる頃、金峰さんが立ち上がった。
「出来た!
絶望の荒野を歩く須藤君!
赤い布の掛かった十字架!
灰色の空と雪!
淡い金色の光! うんうん!
綺麗な色合いになってきた!
いつか、須藤くんの世界を金色の雨で洗い流して、須藤君の心を輝かせてみせる!」
金峰さんは僕を見つめると、すぐに「ジャジャーン」と絵を見せてきた。
金峰さんの言う通り、綺麗な絵だと思った。
絶望の荒野は、銀と灰色の混合色でうねり、時折黒い影が暗黒を表現する。
背中を向ける僕は十字架を背負い、必死に前に前に歩いているのが伝わって来た。
空から舞い降りる雪は灰色で、僕の胸を締め付ける。
けれど、金色の光が一筋、僕の目の前を照らしていた。
6
僕の世界に君が降りた時から、一筋の光が絶望の荒野を照らし始めた。
本当に淡く。
本当に小さく。
些細な変化だけれど。
僕は僕の心に起きた変化が嬉しいと同時に、やはり、とても悲しかった……。
7
次の週始め、つまり月曜日に、僕は田辺さんからご飯に誘われた。
学校に行き、教室に入るなり、金峰さんがやって来て、「私も行くからね!」と釘を刺した。
金峰さんが通ろうとする道をモーゼの奇跡のように人垣が避ける。
詰め寄ってくる金峰さんの言葉を理解するのに数秒も掛かった。
「私もって、何のこと?」
僕が本当に面食らいながら尋ねると、金峰さんは唇を緩めた。
「隠しても無駄だよ。私には、須藤君が田辺さんにご飯に誘われたのが今、判ったのです!」
「金峰さん、それって山勘でしょ? 外れてるよ」
得意そうに指摘する金峰さんに、僕は白々しく否定を返した。
「私の山勘は当たるものなの!」
金峰さんは全く取り合わず、僕の手を引いた。
「それより、みんなに挨拶して! 須藤君、挨拶をしないから、みんな怖がっているんだよ!」
僕をクラスの壇上にまで連れて行ったかと思うと、金峰さんは的外れな解釈を語った。
「みんなが僕を怖がっているのは、そんな理由じゃないだろ」
「とにかく、挨拶は基本中の基本、心の傷に改善が生まれた今、私は須藤君を甘やかしたりしないからね! みんな! 須藤君が挨拶をするので、聴いてあげて下さい!」
僕の苦言にもめげず、金峰さんはクラス中へと元気に呼びかけた。
すると、クラスメイト達は僕の周りに集まり、今か今かと期待するような視線を向けて来た。
「あ、どうも」
僕は頰を掻き、呟くような声で挨拶した。
瞬間、「うおお!」という声がクラスを賑わせた。
「須藤君の挨拶、初めて聴いた! 私たちのこと嫌いなのかなって心配してたんだあ」
僕の手前の席に座っている女子生徒が胸を撫で下ろした。
「いや、僕は、ずっと、逆だと」
僕は切れ切れの言葉で受け答えた。
教室に入る度に、クラスメイトから非難の眼差しを受けているような気がずっとしていた。
どうやら、僕の被害妄想だったらしい。
「私がクラス委員長をやっているからには、イジメは許さないし、孤立も許さない。それが、金峰雨子の信条ですから!」
金峰さんは僕の驚きを他所に、堂々と言い放った。
クラスメイト達はどっと湧き上がった。
「須藤君は、無表情だし、無関心だし、冷酷だし、無慈悲だし、ぶっきらぼうだし、決して優しい人ではないけど、いい人なので、みんな仲良くすること!」
金峰さんが明るくクラスメイト達に告げると、全員すぐに頷いた。
僕はみんなに頭を下げながら、自分の席へと這うように向かった。
疲れの波が身体に押し寄せて来た。
一時間目は国語だった。
僕はまた、朗読をさせられた。
順番はまだ回って来ていないはずだ。それなのに朗読をさせられるのは、金峰さんか、国語の先生が仕向けたことなのは容易に想像できた。
8
夕方、田辺さんと落ち合うためにまず、学校を出ようとした。
チャイムが鳴るなり教科書類を鞄に突っ込み、金峰さんを出し抜こうとした。
考えることは同じだったらしく、僕が教室を飛び出すのと、金峰さんが飛び出すのは同時だった。
「ふっふーん、君の動きは見切ったと言っただろう、須藤君!」
金峰さんは夕焼けを背にしながら自慢げにした。
「金峰さん、田辺さんは君を招待したわけじゃない、迷惑になっちゃうよ」
「黙らっしゃい。正論ではあるけれど、だからと言って殺人の相談を見過ごす私じゃないのです」
「今日はただ、食事するだけだって」
困り果てて嘘を吐くと、金峰さんは僕の顔を舐めるように見つめた。
「目に嘘って書いてある」
やはり、金峰さんには敵わない。
僕は降参を告げるために両手を挙げた。
「オーケー、でも、この間みたいな突拍子も無い行動は御免だよ」
「どれのことだろ?」
僕が半分諦めながら釘を刺すと、金峰さんは不思議そうに首を傾げた。
「前科が沢山あるものね」
「それは、謝るけれど」
僕が痛烈に皮肉ると、金峰さんは頰を膨らませて口籠った。
「悪いと思ってるなら、自重して欲しい」
「うー、善処します」
心の底から懇願すると、金峰さんは流石に首を縮めた。
僕は金峰さんを連れ立ちながら、学校を出ることを決めた。
星が空に一つ二つ顔を出した頃、僕達はいつものファミレスに辿り着いた。
ガラス張りの扉を開き、店を見渡す。
前に来た時と同じで、幾つもの席が設置され、喫煙席と禁煙席に大きく分かれている。
親子連れの家族が何グループか来ていて、禁煙席はがやがやとしていた。
田辺さんは喫煙席に座って、渋い顔をしていた。
僕と金峰さんに気づくと、口の端を緩めて微笑んだが、やはりその微笑みは優れなかった。
「お嬢ちゃんも来たのかい。パフェでも食べるかい」
田辺さんは内心を悟られないためか、猫撫で声で金峰さんを揶揄った。
「はい、パフェが食べたいです!」
金峰さんは田辺さんの遠回しな子供扱いに気付かない。
明らかにはしゃいだ声で肯定すると、田辺さんの向かい側に座った。
「和馬も座れ、肉でも食おう」
田辺さんは相変わらず疲れた声で僕に告げると、金峰さんの隣の席を指差した。
断る理由は無かったので、僕は田辺さんの言う通りにした。
「あれから、色々調べてなあ、新たに判ったことがある。
それで、聴きたいことがあるんだ」
田辺さんは僕を真っ直ぐに見つめ、静かな口調で前置きした。
「和馬、お前はまだ復讐を望んでるか?」
「はい、僕は父と義母を殺さなければなりません」
「ま、お前ならそう言うと思ったよ」
どこか不安そうな質問に少しの躊躇も無く答えると、田辺さんは声と表情に安堵を滲ませた。
「聞き捨てならないよ、須藤君」
僕達の会話に割り込み、金峰さんは頰を膨らませた。
続けて金峰さんは僕の脇腹を窮屈そうに蹴りつけ、どこか虚空を睨みつけた。
僕が脇腹をさすっていると、田辺さんが身を乗り出した。
「とりあえず、結論から先に言おうか。光ちゃんだがな、虐待の痕が有ったらしい」
田辺さんは声を低め、慎重に言葉を紡いだ。
「だとすれば、義母だとしか考えられないっ!」
僕は机を殴り付けながら口走った。
備え付けのフォークや食器が音を立てた。
田辺さんが両手を挙げて、僕を諌めた。
「早計だとは思うが、悪い見立てじゃない。
とにかく、俺はヤクザと繋がっている警察関係者にちょっと当時のことを調べて貰ったんだ。
すると、光ちゃんの死体の数カ所に青痣があったのが判明した。
どれも打撲痕だったらしいが、かなり執拗に打ち付けられなきゃあんな傷つき方はしないらしいな」
田辺さんはお冷を口に流し込み、氷を噛み砕いた。
「執拗に打ち付けられた?
じゃあ、なんで光は僕に相談もしなかったんでしょう?」
「当然の疑問ではある。
それについては、俺も予想の立てようがない。
どちらにしても、光ちゃんが虐待を受けていたのは間違いない」
僕の明らかに上ずった質問に、田辺さんは静かな声で補足した。
「幸いと言うべきか、首を締めた痕などは無かったから、殺意によって為された虐待では無かったらしい…………和馬よ」
田辺さんは声を落とし、僕に顔を近づけた。
「光ちゃんがインフルエンザを発症した原因は、本当はなんだったんだろうか」
「冬なんだから、インフルエンザが流行っていただけでしょ」
田辺さんの静かな問いかけへと不機嫌に答えたのは僕ではなく金峰さんだった。
「確かにそうだ。
インフルエンザなんか罹って当然だ。
だけどな、俺は光ちゃんは長時間冷水を浴びせられてたんじゃないかと思うんだよ。
これを見ろ」
田辺さんが出したのは、小さな腕の写真だった。
「肩のところに引っかき傷がある。まるで、震えて掻きむしったように」
少しずつ田辺さんの口調に昂ぶりが現れてきた。
昂ぶりと反比例するように声は小さくなり、田辺さんは僕を睨むように見据えた。
「一応、聴くが。心当たりはないんだな?」
「ありません、少しも、全く」
僕ははっきりと答えた。
「つまらんことを聴いた」
と、田辺さんは後悔を口調に滲ませ、写真を仕舞った。
「とにかく、光ちゃんは冷水シャワーを浴びせられてインフルエンザに罹っちまったと、これで推理できる。
そこで和馬、当時のお前の行動パターンを教えちゃくれないか。
お前が目を離したすきに光ちゃんは虐待に遭っていた。
逆に考えれば、お前がいない時に虐待が行われていたことになる」
田辺さんは少しずつ昂ぶりを鎮め、静かな口調で僕に尋ねた。
「光が死ぬまで僕はずっと受験勉強の毎日で。
学校でも夜遅くまで補習をしていました。
土日も、今僕が通っているような高校を目指す人は殆ど休みなく学校に行っていたんです」
「じゃあ、概ねいつでも大丈夫だったってことだな」
僕がゆっくりと回想すると、田辺さんは飛び付くように僕へと質問を投げかけた。
「田辺さんの仰る通りだと思います」
僕は、何か矛盾点は無いかと考えながらも、結局、頷いた。
「それと、不可解なことはまだ、いくつかある」
田辺さんは続けて何枚かの書類を机の上に置いた。
脳のレントゲン写真のようで、前後左右全ての物が揃っていた。
「警察は光ちゃんの死因を脳症による錯乱での落下死、と結論づけた。
レントゲン資料には、脳腫瘍が見当たらない。それに、脳腫瘍のあるとされる場所は写真それぞれで一致していない。
正確には、脳腫瘍と言えなくもないが、可能性は低いものが脳腫瘍に仕立て上げられている、と解釈できそうだ」
田辺さんは訥々と説明し、腕で額を拭った。
瞳に殺意のような物が閃いて、すぐに消えるのが僕には判った。
田辺さんは何事も無かったように写真の一部にある、黒い影のようなものをいくつか指差した。影は非常に小さく、輪郭がぼやけているようにも見えた。
「本当に脳腫瘍かもしれないし、もしかすると埃かもしれない」
田辺さんは「だがな」と言葉を切った。
「光ちゃんは、単に脳症で飛び降りただけなんだろうか?
色々と調べるほど、俺はそこが謎に思えてきてしまうんだ」
田辺さんは、確信に満ち溢れた言葉で、僕の心を射抜いた。
「……田辺さん、調べてくださってありがとうございます」
「気にするな。これは俺の自己満足だ」
僕が心の底から頭を下げると、田辺さんはこそばゆそうに顔を赤くして、タバコをポケットから出した。
一本を口に食み、田辺さんはライターで先端へと火を点けた。
オレンジ色の光が燻って、独特の匂いが漂った。
同時、机が強く叩かれる音がした。
食器が抗議するように音を立て、机が一回、大きく跳ね上がった。
静寂を微塵に切り裂いたのは金峰さんだった。
「過去のことをほじくり返して、人の人生を台無しにするのがそんなに楽しいですか!」
居ても立ってもいられなくなったのか、金峰さんは田辺さんを強く睨みつけた。
「俺は、事実を認識しようとしているだけだ」
「そんなことをしても、人の命は戻らないのに。
人が生きていくには、前を見るしかないんですよ。
過去のことは本当には解らないんです。
どんなに正確な資料が揃っていても、過去である限り、資料が本物かは解らない。
なら、明るい未来にだけ心を向けていれば、いいじゃないですか」
金峰さんは、訴え掛けるように言葉を紡いた。
「嬢ちゃんのように馬鹿みたいに前向きな人間ばかりじゃないのさ」
田辺さんはタバコを憂鬱そうに灰皿に押し付け、ヘラリと笑った。
「それがかっこいい積りですか」
金峰さんは哀れなピエロを嘲笑うように言い捨てた。
「俺は俺がかっこいいなんて思ったことはない。
復讐を考えるなんて、確かに馬鹿なことだとは思う。
だが考えても見ろ。
嬢ちゃんも自分の大事な人が奪われるのを想像して、同じことが言えるのか?」
田辺さんは落ち着き払った仕草で首を振り、疑問を投げかけた。
「言えますよ」
金峰さんは少しだけ口の端を緩めて言い放った。
「私は、例え須藤君や田辺さん、絢瀬さん、他の大切な人が死んでも、明るい未来だけを見て、進んでいきます」
「じゃあ、死んじまった俺や和馬はどうでもいいのか?」
金峰さんが微笑みを湛えながら発する言葉に、田辺さんは鋭い質問を返した。
「どうでもよくありません。死んだ人を悼む方法は、復讐以外に、いくらでもあるんです。なら、復讐を取る必要性なんてどこにあるというんですか」
「復讐以外に無いんだよ。死者を悼むだけじゃない、自分の痛みも悼まなければならない」
金峰さんの優しい否定を、田辺さんは強く否定した。
「でも、田辺さんは殺したことによって自分の傷を深くしちゃいましたよね」
「それは君の勘違いだ」
確信を帯びた金峰さんの言葉に、田辺さんは無表情に首を振った。
「私は勘違いしたことがないんです。……こういうことに関しては」
金峰さんは胸を聳やかすと、見方によっては傲慢とも言える言葉を吐いた。
直後に自分でも傲慢さに気づいたのか、舌を出しながら付け足したが。
「嬢ちゃんは本当に前向きなんだなあ、羨ましいよ」
田辺さんは眉根を寄せ、羨望すら滲ませて呟いた。
「前向きだけが取り柄です。
あ、あと、人の心象風景が見えますけど。性格的な長所はそれくらいです」
「そうかい。じゃ、今日はこれ置いとくから、二人で自由にご飯を食べな」
田辺さんは金峰さんが嘯くのに微笑みながら机の上へと万札を一枚、置いた。
すぐさま田辺さんは右を向き、緩やかに歩き出した。
「和馬、信じてるからな」
田辺さんは僕に向かって静かに囁いた。
「ああ、嬢ちゃん」続けて、田辺さんは金峰さんを振り返った。
「俺も大切な人の勘定に入れてくれてありがとう。嬉しかったよ」
田辺さんは唇の端を少しだけ釣り上げた。冗談めかしたような、喜びを隠しきれないような表情で、田辺さんは声を投げかけた。
金峰さんは、ちょっと頭を下げただけで、メニューに視線を移した。
田辺さんは直ぐに行ってしまったが、もう少し何か話したかったのではないかと、僕は不思議に思った。
「須藤君、パフェ、今なら全部が頼めるよね」
「お腹壊すし、太るし」
金峰さんの変わり身の早さに閉口しそうになったけれど、僕は直ぐに冷めた口調で指摘した。
「私、お腹壊したことないし、太ったこともないんだよ」
すると、金峰さんは水を差すなとばかりに顰めっ面を見せてきた。
「お好きにどうぞ」
僕は万札を大事に財布に仕舞いながら、皮肉っぽく言い捨てた。
金峰さんは「うんうん、お好きにするね」とメニューに齧り付いた。
十秒ほどそうしていたかと思うと、金峰さんは突然に顔を上げた。
ベルを綺麗な人差し指で弾くと、程なくして店員がやってきた。
金峰さんは本当にパフェを全部頼み、グラタンやピザを沢山、頼んだ。
「食べきれるのかよ」
僕は金峰さんの頼んだメニューを指折り数えながら尋ねた。
動揺が隠せず、僕の声はやや掠れていた。
「パフェが余ったら、須藤君も食べるのだよ」
「はあっ?」
金峰さんの理不尽な命令に、僕は思わず身を乗り出した。
金峰さんは少しも気にしない様子で、ドリンクバーの飲み物を取りに行った。
僕は一人、残されながら、金峰さんの背中を見送った。
もしかすると、一人で考える時間をくれたのか。
僕は背凭れに身を寄せながら、ふと、思案に暮れた。
妹の死の真相と、これからの僕を考える。
目を閉じ、田辺さんが教えてくれた情報に、神経を集中させた。
妹が死んだ日、義母は、僕を呼びつけたにも関わらず、家を後にして、何処かへ行ってしまっていた。まず、これがとても怪しい。
義母はもちろん、車を運転できるから、徒歩で雪道を苦戦しながら歩いていた僕を出し抜いて、僕の妹を突き落としに行くのなんて簡単だろう。
ただ、運転が嫌いな性格だから、タクシーを使った可能性もある。
その場合は行きと帰りでそれぞれタクシーを呼ばないと、妹の殺害を目撃されるけれど。
とにかく、義母の犯行を立証できれば、警察に突き出すことも可能だが……。
僕はふと、ある光景に視線を取られた。
女の子が父親らしき人物に縋り付いて、なんでなんでと繰り返しながら泣いている。
僕は女の子から何かを学んだような気持ちになった。
父親に聴く。ねだる。
確かに、現状では最も建設的な手段だ。
父親に頼るのも、父親に縋るのも御免だったけれど、まず、義母を始末するには父の証言を引き出さなくてはならない。
プライドを捨て、媚びてでも、奴らを地獄の底に叩き落とすには、それ以外にない。
考えていると、僕の顔を掠め、何かが飛んで行った。
飛んできたのはプラスチック製のコップで、幸い中には何も入っていなかった。
僕は投げた相手の姿を探した。
金峰さんが投げつけた姿勢のままで身体を止めている。
「変なことを考えていたでしょう」
金峰さんは頰を膨らませながら、尋ねた。
「変なのはどっちなんだ」
僕は、コップを拾い上げながら、金峰さんの言葉をすげなく撥ね付けた。
「今、須藤君の心象風景から一瞬、金色の光が消えた。灰色の風の線が増えた」
「便利な能力だな、金峰さん」
僕がコップをテーブルに置くのと時を同じくして、金峰さんは僕の向かい側に音を立てて座った。
「そんなに鮮明に見えるものなの?」
「調子にもよるけどね」
僕がはぐらかそうとすると、金峰さんは仏頂面で答えた。
「おっと危ない、またはぐらかされる所だったよ」
今回ばかりは、金峰さんの言葉に偽りはなかった。
「さあ、言いたまえ。今、何を考えていた?
撃つぞ!」
金峰さんは、指鉄砲を作って僕の額を刺した。
僕は額の痛みに顔を顰めながら両手を静かに上げて、「何も」と答えた。
「しらばっくれちゃって」
金峰さんは指鉄砲を下げると、椅子にもたれかかって暑いココアを一気に呷った。
舌を火傷したのか顔を顰めたが、金峰さんは僕を見続けていた。
「参考までに、僕がしらばっくれていると思う理由が知りたいな」
「ワトソン君、初歩的なことだ。君の頭には今、復讐と確信と厭悪と混乱が渦巻いているのだ。
君の表情からそれが見て取れるのさ。エレメンタリーマイディアー」
金峰さんは尤もらしく引用した後、ココアをもう一度、飲んだ。
「僕は君の助手じゃないしワトスンって名前じゃないし、特別親しくなった覚えもない」
僕がまた皮肉を吐いて捨てると、金峰さんは目を見開いた。
「そう、親しくないんだ。仲が良いっていうのは、私の勘違いだったってことか」
金峰さんは、僕が本当に何の他意も無く放った冗談に、過剰に反応した。
僕は唇を引き結び、金峰さんの視線を受けてたった。
これは良い機会かもしれない。
「そうだ、僕は親しくない。
実際、君といると楽しいよ。
君がいるだけで、世界が色めき立つのが判るよ。
だけどね、僕はやっぱり、殺さなくちゃならない。
妹の奪われた人生は、殺さなきゃ戻らないんだよ」
僕は金峰さんへの拒絶を言葉から滲ませようと努力し、成功した。
「だから、さっきも言ったけど、残された人が復讐を取る意味は無いんだよ」
金峰さんは尚も言い募り、僕を睨んだ。
「『親しくない』さん、私はこれで」
僕が何も答えないと、金峰さんは僕を皮肉たっぷりに変な名前で呼んだ。言い終わると苛立たしげに立ち上がった。
「パフェは食べていけよ」
僕は釘を刺すように今にも出て行く金峰さんへと告げる。
金峰さんは顔を赤くしながら席に戻る。
そこへウェイトレスが丁度よくパフェを持って来た。
金峰さんはスプーンを取って、僕の方を見ないようにパフェを食べ始めた。
驚くべきことに、金峰さんはパフェを全て食べ、グラタンもピザも概ね残さず完食した。
金峰さんは食べ終わるが早いか、やっぱり旋風のように消えた。
僕は伝票をカウンターに持って行き、お金を払ったが、一万円では足りなかった。
なけなしの金を払い、僕は店を後にした。
8
翌日、金峰さんの姿が教室に無かった。
いつもの華やぐような喧騒はなく、教室自体が暗い影をまとっているように思えた。
クラスメイト達は、落ち着かない様子で互いに見つめ合い、ぎこちなく話す機会を伺っているようにも見えた。
金峰さんの座る中央の席が空っぽなのは、歯に何かが挟まったような違和感に感じられた。
「金峰さん、今日、通学路で見たような気がするんだけど……」
クラスメイトの一人の声が聞こえた瞬間、僕は立ち上がった。
学校に来ているなら、居場所は一つしかない。
僕はすぐに保健室へと向かった。
教室を飛び出すと、背後からクラスメイト達の視線が突き刺さって来た。
向かってどうするのかと、僕は視線に引っ張られながら考える。
僕は殺すと誓った。
金峰さんは邪魔以外の何者でもない。
会ってどうするのか。
考えていると、階下から、呻き声のようなものが聞こえて来るのが判った。
耳を澄まさないと聞こえないが、確かに階下からだ。
金峰さんの呻きだとは直ぐに判断が付いた。
僕にはもう、そうなったら向かう他は無かった。
階段をほとんど飛び降りながら、僕は階下に向かった。
灰色の廊下を抜けて、金色の光が揺蕩う方向へと。
保健室は遠く、息が切れたが僕は這うようにしながらたどり着いた。
「いたい、いたい、いたいぃ!
お腹が痛くてどこにも行けない!
頭もいたい!
身体中がいたくて、授業に出られない!」
取手に手を掛けると保健室から喚き声が聞こえてきた。
「胃薬は飲んだし、頭痛薬も飲んだし、熱は無いし、元気に喚けるし、どこも悪いところはないんじゃないの」
絢瀬さんが仕事の片手間で金峰さんを諭すのが聞こえた。
口調には呆れたような、楽しいような雰囲気が混じっていた。
「うわーん、ばかあ!
絢瀬さんのばかあ!
私の気持ちも知らないでー」
「みんな、貴女みたいに他人の心を容易に理解できるものじゃないのよ」
金峰さんの罵倒に、絢瀬さんは楽しさを強めた声音で答えた。
「敏腕カウンセラーの癖に!」
「敏腕だと信じられたら、どれだけ良かったか」
子犬のように噛み付く金峰さんに絢瀬さんは躊躇うような声音で呟いた。
ドアのガラス窓から、ベッドに座った金峰さんが頰を膨らませるのが見えた。
「知っていると思うけど、私だって救えなかった人はいるし、ううん、救えなかった人の方が多いくらいなんだから」
絢瀬さんは何か書き物をしながら、金峰さんと話しているようだった。
手を止め、金峰さんに言い聞かせているのが判った。
「うわーん、大人が正論を言って、子供を騙そうとしてるー。ずるいー!」
「もう、他所の教室に聞こえるから、これ以上は喚かないで」
一層、強く泣き噦る金峰さんを、絢瀬さんは子供をあやすような声で諭す。
「私は貴女のような特殊能力を持つわけじゃないけれど、ただ単にサボりたくて、そんな風にしているわけじゃないことくらい理解しているのよ」
絢瀬さんはことも無げに指摘すると、小鳥が囀るように笑った。
「『寂しい人』が、今も大変なのでしょう。なら、こんな所で管を巻いているのは寧ろ貴女の心情に沿わないんじゃないかしら」
絢瀬さんは金峰さんを少しだけ声を低めて窘めた。
言い聞かせるような声音に、金峰さんは「うー!」と不機嫌に唸った。
「だって、解んなくなっちゃったんだもん」
金峰さんは枕を搔き抱いて、リスのように頰を膨らませた。
「解らないって……」
絢瀬さんが呆気に取られたように振り返った。
「そっか、退っ引きならない感情に出会ったのね」
何か満ち足りたような口調で、絢瀬さんは金峰さんの頭の側に腰掛けた。
「雨子、貴女は苦労せずに人の心の病理が何でも判る子なの。
だからこそ私よりずっと感覚が鈍っているんだろうと思うけどね」
絢瀬さんは金峰さんの頭をそっと撫でた。
「普通、自分がやっている療法が正しいかどうか、顧客のためになっているかどうかなんて解らないものなのよ」
絢瀬さんはちっぽけな自分を嘆くように語りかけた。
「絢瀬さんは、そういう時どうする?」
金峰さんはまだほんの幼い子供のように、絢瀬さんの顔を見上げた。
「何度でも話す。本音が聞けるまで、本音と向き合えるまで、信頼関係を築けるまで」
絢瀬さんは、急に照れ臭そうに言葉を濁して、
「かっこつけすぎか、私」
と、肩を竦めた。
「ううん、かっこいい、と思う」
金峰さんはちょっとだけ顔を上げて、眩しいものを見るように呟いた。
「かっこ良すぎてむかつく。絶対に下克上してやる」
本当に子供っぽく吐き捨てながらも金峰さんは微笑んだ。
「はいはい、情熱が迸っているなら、今は『寂しい人』に向けなさいよ」
絢瀬さんは、ポケットから『よくできましたシール』を取り出して、金峰さんの額に貼りつけた。
金峰さんは額の辺りをさすり、眉根を寄せた。
ようやく、金峰さんの心にも整理が付き始めたように見える。
僕は、硬直する右腕を咄嗟に下げ、いつでも隠れられるように辺りを伺った。
丁度よくベニヤ板の看板が壁に立て掛けられていた。
僕は金峰さんがこちらに来たら影に隠れようと思った。
「須藤君と話すにはどうしたら良いかなあ。今のままじゃ、どう話せば良いかも判らないよ」
僕の思考を他所に、金峰さんは、絢瀬さんの太ももを掴みながら呟いた。
「それは、自分で考えなさい。とりあえず、教室に行きなさい。じゃないと、話せるものも話せないでしょうが」
絢瀬さんは金峰さんの両肩を叩いて、微笑んだ。
「ん、そうだね!」
金峰さんはさっと立ち上がって胸を張る。
「完全復活、パーフェクト雨子様だぜ!」
「ずる休みの件は、担任の新原先生に言っておきますからね」
「えー、ケチ」
「当たり前のことです」
二人は仲のいい友人のようにじゃれつき合うと、お腹を抱えて笑った。
金峰さんはバネのような勢いで扉に飛びついた。
僕はすぐにベニヤ板に逃げ、向かってくる金峰さんから姿を隠した。
保健室から出た金峰さんは気持ち良さそうに伸びをした。
かと思うと、
「む、須藤君の気配! いや、気のせいか」
金峰さんが鋭く視線を辺りに彷徨わせるのが見えたが、僕はそれどころでは無かった。
『よくできましたシール』を頭に貼ったまま遠ざかって行く金峰さんの姿を見る僕の瞳は潤んでいた。
もう、前が見えないくらいに、涙が後から流れてきた。
必死で涙を拭い、拭い、拭い続けても、手の甲が濡れるばかりで乾くということを知らない。
嗚咽を我慢しながら、僕は床に這いつくばった。
床にぽたぽたと涙が溢れた。
君は、何故、僕のためにそこまでしてくれる。
何で、そんなにも真剣になってくれる。
僕と君は他人ではないのか。
助ける義務も、責務も君にはないはずだ。
「サボリ魔をもう一人、発見」
いつの間にか呻き声を上げていた僕に、絢瀬さんが気付かない筈もなかった。
絢瀬さんが僕の肩に両手を掛け、軽く叩いた。
「雨子を探しに来てくれてありがとう。
……私、ダメな大人だね」
優しく語りかけてくれたかと思うと、絢瀬さんは心底から自分を嫌悪するように呟いた。
僕は絢瀬さんが抱いた自己嫌悪の意味が判らなかった。
振り返り、顔を観察しても意味を理解することができなかった。
「ほら、私、結局は君のことは雨子に任せっきりじゃない?
そんなの大人としてダメだなって!
本当は、もっと君達にしてあげられることがある筈なのになって、ちょっとブルーにね!」
絢瀬さんは何かを取り繕うように言葉を並べて、ヘラリと笑った。
「しばらく、休んで行く? 目が真っ赤だよ」
絢瀬さんは不自然に明るい声のまま、首を傾げた。
「訊きたいことがあります」
僕は涙を拭いきり、気遣ってくれる絢瀬さんに呼びかけた。
絢瀬さんは「じゃあ、どうぞ」と椅子とテーブルを指し示しながら、僕に勧めた。
僕は迷わず椅子へと歩き、座った。
保健室は最初に来た時と少しも変わらない。部活の喧騒と、薬品の匂いと、絆創膏の匂い。けれど、今は金峰さんがいない。金色の光が無い。
両手を膝の上に載せ、絢瀬さんが座るのを待つ。
絢瀬さんは電子ポットにマグカップ、インスタントコーヒーの粉を用意した。
次に、絢瀬さんはマグカップへと丁寧にインスタントコーヒーの粉を入れた。
プラスチックのスプーンを電子ポット付近のカップから取り出し、くるりと回した。
「飲む?」
「頂きます」
絢瀬さんの勧めに、僕はすぐに従った。
少し、長くなりそうな話だったので、今の内に居座る準備をしておきたかった。
絢瀬さんは頷き、もう一組のコーヒーを用意して、僕の手前に置いた。
自分の分のコーヒーに口を付けながら、絢瀬さんは僕の向かいに座った。
「訊きたいことって?」
絢瀬さんは単刀直入に切り出した。
僕は考えを整理し、効果的な質問の仕方を考えたが、結局は普通の質問の仕方が一番だと結論づけた。
「金峰さんは、どうしてこんなに僕を救おうとするのでしょうか」
保健室で出会った時からの疑問。
考えれば考えるほどに、不思議に思えてくる謎だ。
絢瀬さんは、どこか安堵したような、驚いたような表情を浮かべたが、直ぐいつものように微笑んだ。
「私は、雨子が君にどんなことをしたのか、全部を正確には把握していない。
だから、君のこんなに、がどれほどかは判らないわ」
「金峰さんは、僕のために命を張ってくれました」
「雨子としては、そんなに珍しいことじゃないかもね。
でも、雨子は多分、君のことを特別視してはいると思うよ」
はぐらかすような言葉に食らいついくと絢瀬さんはふふふ、と笑った。
笑い顔のまま考え込むような素振りを見せる。
外から、体育の音が聞こえてきた。
コートをシューズが滑る音、掛け声、笑い声。
絢瀬さんは音に耳を澄ませるように目を閉じていたけれど、やがて目を開けた。
「同年代だから、かな、恐らく。雨子には同い年の大親友がいたけど、亡くなってるの」
絢瀬さんは意を決したのか、金峰さんが恐らく触れられたくないことを口に出した。
「男の子、だったんですか」
「男の子でも女の子でもあったわ」
トランスジェンダー。
絢瀬さんの言葉が僕の脳裏に単語を思い起こさせた。
「身体的には男の子で、精神的には女の子だった。
当然、偏見を受けるし、社会の無理解にも苦しめられた。
雨子だけは、彼女、いや、彼? ううん、あの子のことを最後まで気にかけて、励まし続けた」
絢瀬さんはプラスチックのスプーンをコーヒーの中で離し、空っぽになった手で額に手を当てた。
「ある日、その子は交通事故に遭ってしまった。
不自然な事故だったわね。
本当に事故だと思うのか詳しい話は、雨子の口からは聴いていない。
聴き出せたのは、たったのそれだけ。雨子にとって、本当に辛い出来事だったと思う」
「その子の心象風景について、金峰さんは何か言ったんですか?」
「すごく綺麗だったって。
十字架の墓地がある丘で、夕焼けと夜空が半分ずつを埋め尽くしていたって。
でも、もう書くことはできないんだって泣き噦ったわ。
それから、『寂しい人』の姿を見ると、必ず心象風景を描くようにしているとか」
十字架……。
僕は、目を閉じて、絢瀬さんの言った光景を思い起こそうとしたけれど、想像力に乏しく色彩すら思いつかない。
「雨子と会ったのは二、三年くらい前でつい最近なのよ。
そんなに長い付き合いじゃない以上、雨子のことであんまり知ったようなことを言いたくないのだけれど」
絢瀬さんはここで言葉を切り、僕に微笑みかけた。
「雨子は貴方を幸せにするわ。
絶対に、一緒にいて損はしない。
貴方が拒んだって幸福に導くし、地獄に落ちていたって、お釈迦様を説得して糸を垂らして貰うでしょう。
そういう、優しい子なのよね」
「僕は、正直、判らないんです。
幸福になりたいのか、それとも地獄にいて、妹の苦しみを忘れないように生きていくのか」
僕は俯き、頭を垂れた。
絢瀬さんが少しだけこちらに身を寄せるのが判った。
「復讐して、光ちゃんの苦しみを一緒に味わいたいってこと?」
絢瀬さんは慎重に尋ねた。
僕は首を振った。
「僕だけが味わうんじゃない。
誰もが忘れないように、妹はこんなに苦しんで死んだんだって、みんなが覚えておけるように。
最近は、そんな考えがちらつきます」
「みんな、須藤君が思うほど、光ちゃんの死に対して無関心なんかじゃないよ。
少なくとも、私や雨子は須藤君の妹さんのこと、絶対に忘れない。
それだけは約束するわ。
私は、忘れてたまるもんですかって、いつも思う」
絢瀬さんは僕の答えを柔らかく否定して、両頬に手を当ててきた。
僕は絢瀬さんの瞳が目の前にあるのに気づいた。
黒い瞳に、星のように光が揺蕩っている。
「須藤君、数ヶ月、ずっと憎しみを抱え続けて来たんでしょう?
でも、それで良いことがあったかな?
悪戯に心を疲弊させただけじゃなかったかな?
私には、須藤君の心の声は残念ながら聞こえないけど。
雨子がそう言うならそうなんだと信じるしかない。
雨子は、君の心が悲鳴を上げているって最初に見た日から確信していたの」
絢瀬さんは、僕の瞳を尚も釘付けにして、微笑む。
「私のことは信じなくても良いから、雨子のことは信じてあげて。
雨子はまだ、何か辛い過去を私にも隠している。
本当の本当に心から信頼している人間は多分、現れていない。
私はね、須藤君がそうなったら良いなって、君の涙を見て思ったの」
絢瀬さんは瞳の端を濡らしながら、唇を緩めた。
「……まだ、訊きたいことがあります」
僕は喉の奥からこみ上げてきた嗚咽を押し戻しながら、絢瀬さんを真っ直ぐに見つめた。
絢瀬さんは僕の言葉を待つためか、沈黙を選んだ。
「義母のこと」
絢瀬さんは、「ああ」と声を漏らした。
「由利恵については、君が知る以上のことを教えられるとは思えないけれど……」
絢瀬さんは困ったように言葉を濁した。
「大学時代の義母について知りたいんです」
「まず、言えるのは」
僕が番えた二の弓を絢瀬さんは軽く受け止めた。
「由利恵は愚かではあるけれど、殺されてしかるべき人間ではないわ。
光ちゃんを殺すような女だとはどうしても思えない」
「でも、義母は、妹に虐待を課していたかもしれないんです」
「…………ん」
絢瀬さんの言葉に僕は田辺さんの推測をぶつけた。
絢瀬さんは瞳の光を揺らし、顎に手を置いた。
「違うと思うわ。それは違う。
由利恵は虐待に対して酷く憤りを露わにする子だったわ。
絶対に、子供を躾けるのに虐待という手段は取らない」
絢瀬さんはテーブルに肘を突き、頭に手を置いた。
何かを思い出そうとしているように見えた。
「由利恵は、ただ思い込みが激しいだけなのよ。
人が人を救うのは当然。
救うためなら暴力以外のことは許されると本当に考えているような子だわ。
本質的には、雨子に近いくらいの純粋さのはずなの」
「あの女が、金峰さんと同じ? ふざけないでください!」
絢瀬さんの弁解じみた言葉に、僕は怒りをぶつけた。
テーブルを殴りつけると飲み物が跳ね上がった。
絢瀬さんは血の気が引いたような表情でこちらを見ていた。
「あの女は、僕と妹を三ヶ月も放置して、親父と媚態を繰り広げていたんだ!
あの女は、自分の言う通りになる男が欲しかっただけなんだ。
自分の言う通りになる男がいれば、それで良かったんだ。そういう女なんだ!」
「お義母さんの悪い面ばかり見るからそうなるのよ。
貴方に対して、由利恵は本当に残酷なだけだった?
思慕が足りないのは認める。
あなたのお義母さんはいつだってそうだった。
でも、本質的には優しい子なのよ。
お義母さんの本当の姿を見てあげて?
だって、由利恵は貴方の父親が新しく選んだ貴方の母親なのよ。そして、高校の学費だって払ってくれている」
「じゃあ、僕をマスコミに売ったのは何故なんですか。母親なら、しないでしょう?」
「由利恵は、本当に貴方が悪いんだと考えていたのかもしれないわ。
これが、須藤君のためになるだろうって、いい教訓になるだろうって」
絢瀬さんは、言い募る僕へと、必死にブレーキを掛けてきた。
「由利恵は間違っているだけ。
許してあげて。
由利恵はもう二十歳後半になって、人格を矯正することは不可能よ。
だけど、貴方は違う。
世界を変える方法はもう、貴方が変わる以外に残されていないんだから」
「間違っているだけだから、本質的には正しいから、許されるのですか」
「難しい問題よ、とても」
絢瀬さんはコーヒーのカップを両手で掴み、身震いした。
「私なんかじゃ答えは出せない、でも、雨子なら、ぽろっとそれらしいことを言って、解決するのかもしれないわね」
星の揺蕩う黒い視線が校舎へ注がれた。
唇を少しだけ緩めて笑う絢瀬さんは、最初に会った時よりずっと小柄に見えた。
少しだけ老いているようにも見えた。
「私が雨子と会ったのは三年前、雨子のいた中学校の学校カウンセラーをしていた時のこと。
今みたいに、校医と兼任じゃなかったから、付近の小学校でもカウンセラーをしていたんだけど」
絢瀬さんは唇を震わせた。
「すでに私なんかよりずっと、人の痛みや苦しみがわかる子なのよ」
顔が少しずつ歪んでいく。泣き出しそうにすら見えた。
「私は雨子の能力が羨ましかった。
もしも、私にも雨子のような力があれば、救えた命もあったのかなって、思う」
言い終わる頃には、絢瀬さんの表情は微笑みに戻り、涙の跡など微塵も見せなかった。
「さ、もう行って。二限目の授業が始まるまでに行った方が、邪推もされないでしょうから」
絢瀬さんは自分の分のマグカップを拾い上げながら、指示を出した。
僕は頷いて、コーヒーを一気に煽ると、流しにまで歩いた。
何が正しいのか、真実は何なのか、絢瀬さんと話すことで、余計に判らなくなった。
だから、確かめる必要がある。
親父と話さなければならない……。
いや、親父と話す前に金峰さんと話し合わなければ。
少しだけ火傷した口の中を湿らせながら、僕は決意した。
9
「それで、私の所に相談に来てくれたんだね」
放課後、フェンスに包まれた屋上で金峰さんは伸び伸びと体操をしていた。
僕は金峰さんの後ろ姿を見ながら「うん」とだけ頷いた。
灰色の風が至る所から吹いてきて、肌を刺す。
灰色の世界が目の前に広がっているけれど、不思議と金峰さんの周囲だけは金色に輝いていた。
「無神経ですなあ、須藤君も絢瀬さんも」
金峰さんは振り返り、仏頂面で文句を吐く。
「それは申し訳ない限りだけど」
僕は素直に頭を下げた。
「間違っているだけだから、本質的には正しいから許されるのかだって?
全くナンセンスだよワトソン君。
世界に完全に間違ってる人間などいないのさ。
逆もまた然りだ。
って感じかなあ。
私の意見は」
金峰さんは欠伸をしながら当然のように答えた。
たった二言三言で金峰さんは、絢瀬さんがあんなに悩んでたことを言いくるめてしまった。
だが、僕は納得するわけには行かなかった。
「そんなのは詭弁だ」
僕は金峰さんの言葉を真っ向から否定する他にはなかった。
金峰さんが言うから辛うじて意味がある言葉だ。
他の人が言えば空虚な妄言にだってなる。
金峰さんの言葉に乗るのは危うい。
僕は、金峰さんの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「間違ったことはあるじゃないか。
小さい少女が一人置き去りにされて、孤独死するとか。
少女の影を追いながら今も苦しむちっぽけな人間がいるとか、これを引き起こすことは完全な間違いじゃないのか?
だとしたら、僕は世界が間違っていると思う」
「だから、これから見つけに行くんじゃない。君の苦しみの真実を!」
金峰さんは両腕を広げ、僕の手を取った。
「光ちゃんを殺したのは本当に由利恵さんだったのか?
それとも、光ちゃんは本当に脳症で死んだのか。
別の結末だったのか。
私は、須藤君の絶望の荒野を消すためなら協力するよ」
「今まで、真相を解明するのを拒んでいたのに」
「だって、絢瀬さんが違うって言っていたんでしょう? なら、絶対に違うもの!」
金峰さんは僕の戸惑いを一蹴して、颯爽と駆け出した。
僕は一陣の風となった金峰さんにひたすら追いすがって行く。
「ねえ、須藤君!」
校門を抜け、息も絶え絶えの僕に、金峰さんが呼びかけた。
「な、に……?」
言葉を切りながら顔を上げると金峰さんの彫像のような横顔が見えた。
「いま、須藤君の世界、また綺麗になってるよ。絢瀬さんはすごいね!」
「い、や、た、ぶ、ちが、」
僕は必死で言葉を紡ごうとしたけれど、喉が乾いて声が出なかった。
僕の見ている世界が輝くのは、いつだって金峰さんのおかげだ。
僕は胸の中に声を押し込め。
「金峰さんは、頭が硬いよね!」
少しだけ意地悪を言った。
金峰さんは僕を振り返り真っ赤な顔で真っ赤な舌を出した。
僕は金峰さんが髪を揺らして走る光景がとても美しいと思った。
11
例のピンク色の家が、夕方の闇にケバケバしさを増していた。
金峰さんが割った辛い扉は外から中が見えない金属製のものに変わっていた。
父と義母の家にたどり着いた頃には空は紺色に近づいていた。
僕と金峰さんはインターホンを鳴らさずに家に入り込み、父の居る寝室へと向かった。
義母は仕事でどこかに出ている。
カラフルな色合いの壁紙に手を突き、伝うように廊下を歩いた。廊下は少しだけ暗い。
僕は父の寝室の前にたどり着くと、深呼吸をした。
ノックをする。
こつ、こつ、と不気味に音が響く。
返事はない。
僕は扉を開いた。
父がベッドに横たわり、僕を見ていた。
次に金峰さんを見る。
「何しに来た」
父は警戒心を露わにして金峰さんを睨んだ。
薬の副作用が顕著に現れない時の父は非常に攻撃的で、鋭い。
茫然自失よりはマシだが、あまりいい気分のする態度ではなかった。
僕は金峰さんを振り返ったが、すぐに父へと視線を移す。
「光が死んだ時のことを教えてほしい。由利恵さんは、どれくらい家を離れていた?」
「由利恵を疑っているのか」
僕が慎重に言葉を紡ぐと、父は一層きつく僕らを睨んだ。
「疑っているわけじゃない。でも、由利恵さんが……」
父が咎めるように舌打ちをしたので、僕は言葉を切った。
何が気に入らないのか考えた後、僕は口を開いた。
「お義母さんが、犯人じゃないっていう確信が欲しい。じゃないと、僕は仲良くできない」
「家族だから無条件に信頼できるっていうのじゃダメなのか」
僕が苛立ちながら告げると、やはり父も苛立ちを露わにして言葉をぶつけて来た。
「僕とお義母さんが会ってから一年も経っていない。頻繁に会っているわけでもない」
「それはお前の努力が足りないからだ。由利恵と仲良くやろうという」
僕と父は言葉の矛で凌ぎを削るが、父は明らかに狼狽していた。
言葉の強さとは裏腹に、口調が弱かった。
「僕はあの女が嫌いだ」
「なんてことを言うんだ!」
「例え、あの女が光を殺したわけでないとしても、原因を作ったのはあの女だ」
僕の言葉を遮ろうとした父を制し、僕は尚も続ける。
一歩も引く気は無い。
「父さんを治療するためとはいえ、あの女は明らかに無責任だった。
緊急時の電話にも出ない。
光がインフルエンザだと知っても心配するそぶりすら見せない。
家族になるための努力を怠ったのはあの女の方だろ」
冷たい口調で一つ一つ、明快に論拠を上げていくと、父は黙った。
「あの女がどうして家を離れたのか、家を離れた手段は何だったのかを教えてよ。
それを教えてさえくれたら、お互いこんなクソみたいな時間を過ごさずに済む」
「……言えない」
「いいから、言えよ! 知ってるなら!」
僕は頭は冷静に、心は高ぶらせ、鞄から拳銃を取り出した。
金峰さんが飛び出そうとするが、僕は右手で制した。
金峰さんは本気でないと見抜いたらしく、身体を止めた。
父は明らかに度を失い、ベッドの上で後ずさりした。
「ほ、本物か?」
「トリガーを引けば判るよ。試してみるかい?」
僕は外連味を滲ませながら、提案した。
父は弱り切ったように首を振った。
「由利恵は、タクシーを呼んだ。タクシーでどこかに向かった」
「コンビニに行ったのは嘘ってことか?」
「……嘘だ。そう言うように言われただけだ」
僕が強気に発言するほどに父は態度を小さくして、口ごもっていく。
金峰さんがそんな僕たちを遮るように咳払いをした。
「和馬くんのお父さん。お訊きしたい事があります」
「なんだ」
慎重な声音で前置きをする金峰さんへ向かって父は疲れ切った掠れ声で尋ねた。
「光ちゃんが死んだ夜、本当にパジャマが足りなかったのですか」
「足りなかった。
由利恵はそれで、前の家になかったのかをしつこく確かめてきた。
俺は覚えてなかったが、あったような気がしたから、あったはずだと答えた」
「それじゃあ、単なる口実ではなかったんだ」
父の答えに金峰さんは胸を撫で下ろした。
「でも、なんでコンビニに行ったなんて嘘を吐いたんだ?」
僕が新たな疑問を投げかけると、金峰さんは顎に手を当てた。
「んにゅううううう! わからん!」
地団駄を踏むかのように言い捨てると、金峰さんは部屋を行ったり来たりしだした。
「でも、次の目的地は決まった! 敵はタクシー会社にあり!」
言い放ったかと思うと、金峰さんは風を巻き起こしながら部屋を後にした。
僕はまた、金峰さんを追って一キロ近く走らなければならなくなった。
12
市内で最も大きなタクシー会社は、父と義母の家から見ると学校とは反対方面にあり、国道をまたぐ。
アーチ状の道路の左右に広がる建物だった。
自動車学校と併設されていて、沢山の車が群れを作って駐車されていた。
建物自体はシンプルな鉄筋コンクリート製。四面体で、外壁は白く、窓が少ない。
僕たちは四面体の建物を目指して走ったり歩いたりした。
金峰さんは常に僕の前を進み、とても速かった。
「まって、金峰、さん。速い。歩くのが、速い」
追いついてからは走るのをやめてくれたのだが、金峰さんの歩みは想像できないほど速かった。
スピードが競歩に近い。
「須藤君が遅いんだよ」
入口のガラス扉の前で、金峰さんは腰に手を当て、口を尖らせた。
僕は言い返せずに膝に手を置いた。
肺が痛むほど過呼吸になっていた。
「いや、金峰さん、速いって」
「さあ、管を巻いてないで行くよ! 真相はもう近くに迫っているんだから!」
金峰さんはやっと絞り出した僕の反論を撥ね付けながら、僕の手を引いた。
相変わらず肩が脱臼するような力だ。僕は肩が外れないように必死で足を前に進めたが、金峰さんの方がやや速いのか、肩の骨が軋むのが判った。
ガラス扉を通り抜けると、白い壁に交通関連のポスターの数々が並んでいた。正面には、受付があり、女性が立っていた。
受付の女性は僕たちを見るなり胡散臭そうにしたが、「いらっしゃいませ」と挨拶をしてきた。
「すいません、私たちはつい最近再会した兄妹なのですが、もう一人、生き別れの母を探すために、手掛かりを探っているんです。母らしき人物が今年の二月十六日の午後九時頃、御社のタクシーを使っているということだけは判明しているのですが。該当する運転手さんはおられますでしょうか」
かなり無理のある設定ではある。
が、女性は涙ながらに語る金峰さんを無碍にもできないと考えたらしい。
「ちょっと待ってて」と言って、奥に引っ込んだ。
金峰さんは僕にピースサインを送ってきたが、僕は呼吸を整えるので精一杯だった。
そうする内にやって来たのは、五十代くらいで禿頭のタクシー運転手だった。
「あれ? お一人だけ?」
金峰さんは意外そうに受付に戻ってきた女性を見た。
「他にもいますけど、今日は彼だけです」
女性は腫れ物を触るような態度で答えた。
「それで、乗せた女性のことを話せばいいの?」
禿頭の運転手は不思議そうに僕たちに尋ねた。
金峰さんはすぐに頷き「どこに女性を送りましたか?」と尋ねた。
「ええと、須藤さんってお家だったね」
運転手が答えるなり、僕と金峰さんは顔を見合わせた。
「この女性ですか?」
僕は携帯の写真アプリから義母の写真を呼び出して、男性に見せた。
芳しい答えは返って来なかった。
「この人じゃないね」
僕と金峰さんは肩を落とした。
「住所は覚えていますか?」
「覚えてるよ」
男性は僕たちに精一杯に親身にしてくれるようで、住所を暗唱した。僕の家の住所と寸分違わなかった。
僕はどういうことかと考えながら、金峰さんともう一度、顔を見合わせた。
「真犯人説が浮上?」
金峰さんはすぐにスマートフォンをポケットから取り出して、弄り始めた。
金峰さんの様子を見ていた男性が「あっ」と声をあげた。
僕と金峰さんは一斉に男性を見つめた。
「君、その写真」
男性は金峰さんのスマホを指差した。
「私が送ったの、その人だよ」
スマホの写真に写っているのは、仲良く肩を寄せ合う金峰さんと絢瀬さんで、運転手は絢瀬さんを指差していた……。
13
「田辺さん、調べて欲しいことがあります」
僕は建物を出るなり、田辺さんのスマホに電話を掛けていた。
空はもう、紺色に染まりきり、星が輝き始めていた。
アーチ状の道路の上を仕事帰りの車が行き交っていく。
車のライトが目紛しく、視界の端をちらついた。
金峰さんは僕にぴったりと身を寄せ、服の裾を掴んで震えていた。
『何か、犯人につながる手掛かりでも?』
電話口の田辺さんは声を潜めて僕に尋ねた。
「前に、僕の家の窓に、指紋が付いていたというお話を聴きました」
『お前の義母と、お前と光ちゃんの指紋、何者かの指紋だな?』
僕は出来る限り興奮を抑えた口調で伝えたが田辺さんは只事でないと思ったのか、更に声を低めた。
「四つ目の指紋を絢瀬さんの指紋と照合しては貰えませんか?」
僕の言葉を伝え終わると、田辺さんはしばらく沈黙した。
『どういうことだ? 光ちゃんと絢瀬には何か関係があったかな?』
「それも含めて、調査をしていただきたくて」
『根拠が無きゃ動けない。事情を説明しろ』
田辺さんが尋ねるので、僕は今日のあらましを語った。
田辺さんは聴き終わるや「解った」とだけ言って、電話を切った。
僕の腕のそばで、金峰さんが電話の切れる音に過剰反応したのか小さく身動ぎした。
金峰さんは僕の顔を見上げて、顔をぐしゃぐしゃにした。
「須藤君、私、初めて世界に怖いものがあるって思った」
僕は金峰さんの頭を抱きかかえ、首を振った。
「そんなことあるはずない。……田辺さんを待とう」
僕たちは暫く寄り添いあっていた。
空の闇は深まっていく。
僕は金峰さんの周りの景色が、少しだけ淀んだ灰色に近づくのに気づいた。
「心配するなよ。あんな風にしてくれた絢瀬さんが、僕の妹の死に関わっているわけがない」
「うん、ありがと」
金峰さんは僕の胸に顔を擦り付けた後、幼児のようにこくりと頷いた。
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